第9話 虎吉が死んだ!

 向日葵も項垂れる日盛りに、村の街道を騒々しく駆け抜ける村人がいた。その者は大声で「屍人しびとだ!屍人だ!」と叫びながら庄屋の家へと駆け込んだ。程なく庄屋の屋敷から絹を裂く内儀の悲鳴が村中に響き渡った。



「若様!若さまー!大変でございますー!」


 常日頃から騒々しい浜路が一際けたたましく祐之進の部屋へと飛び込んで来た。珍しく書物へと向き合っていた祐之進は何事かと顰めた顔を上げた。


「何事だ浜路、お前の声に本も破れてしまいそうだ」

「それが、それが、本当に大変なんでございますよ!ほら、庄屋の息子の虎吉さんの話し覚えてますか?」

「虎吉さん…?ああ、雨の日に訪ねて来た庄屋のどら息子…」

「そうです、そうです、その虎吉さんが川下で死んでいたのですって!今もう村中が大騒ぎですよ!」


 その話を聞いて、浜路を伴い外へ出てみると、そこかしこの家から同じく飛び出て来た人々が点々と固まって噂話をしていた。当て所なく歩く道すがら、だいたいの事が祐之進達の耳に入って来た。

 要約してみると、庄屋の下男が親戚の婚礼祝いに隣村まで行っていたが、そこでまあまあと勧められるまま杯を重ね、程よく酔っ払った帰り道、急に小便がしたくなって道から外れて河原に下りた。

 ところが何かふにゃりと柔らかい物を踏んづけ何だろうと腰を屈めてみると、足に敷いたその着物に見覚えがある。それは虎吉が家を飛び出した日に着ていた着物に良く似ていて下男は恐る恐るそれを爪先でひっくり返してみるた。

 すると水で膨れた人の骸らしきものが仰向けに転がったのだ。腰を抜かしそうになりながらも良く良く様相かたちの変わった顔を見ればやはり虎吉の面影がある。これは一大事と慌てふためき下男は庄屋の家に駆け込んだ。今しがた庄屋が人を引き連れてその河原へと見に行ったと言うものだった。


「どうしましょう!お弔いの手伝いに行った方が…いえでもまだはっきりと虎吉さんだと分かった訳では無いんだし、だとしても人手がお入りようなのでは…でも、でもですよ?」


 すっかり気が動転している浜路はどうしたものかとくるくるとその場を回っている。


「落ち着け浜路、まだ庄屋が戻らねば何も分からんのだろう?待つしか無いのでは無いのか?」


 そう諌めはしたが、祐之進の心の中も何時に無く騒ついていた。

 この事が何かもっと良からぬ事への序章のような気がしていつまでもしくしくとした不安が祐之進の腹の中で疼いていた。


 結局、嫌な予感ほどよく当たる。

この頃は、村などの最末端の治安は、近隣から本百姓ほんびゃくしょうをそれぞれ五戸ずつ選んで組織された五人組と言うものがあり、年貢の取りこぼしがないか、駆け落ちした者はいないか、犯罪を犯す者はいないかなど村人の全てに目を光らせていた。

 その五人組が現場を見分した所によれば、骸はやはり虎吉のものに相違ないと言う事だった。しかも袈裟懸けに切られて絶命しており、長く水に浸かった挙句にこの日照り、臭気を放った骸は凄惨を極めていたと言う。


 平和で小さなこの村には今までに無く、降って湧いたこの怪事件を村人達はこぞって噂した。殺った者は誰なのか、恨みで殺されたのだとか、通りすがりに殺されただとか、それはまだ村の何処かに潜んでいて次には若い娘が狙われるだとか、挙句には狼のような大きな獣が山道を駆けていくのを見ただとか、根も歯もない噂や怪奇な噂ばかりが村中に充満した。

 そんな折も折り、村人から敬遠されていたあの中洲の鬼の事が噂に登らぬ筈は無かった。祐之進の不安の種はまさしくこの事にあったのだ。


「中洲の鬼にやられたのでは無いのか?」


 誰かが一人そう言うと、皆が堰を切ったように中洲の鬼の事を話し始めた。


「鬼は人を食い殺したそうじゃ無いか」


「何であんな得体の知れない者を今までこの村に住まわせておいたのか」


「子供のくせに人殺しとは行末が恐ろしい」


「こんな事になる前に早く追い出していれば良かったのだ」


「きっと鬼が虎吉を殺ったのだ!」


 そんなアオの噂は尾鰭が付いて半時と経たないうちに駆け巡り、翌朝には村中がアオの敵になっていた。いや、元々アオに味方などいないのだ。閉鎖的な村人の中にあって、異質な存在であるアオは格好の標的だ。誰かのせいにしなければ皆不安で仕方がないのは分かるが、あの優しいアオが、人を殺したりするはずがない。

 盲目的にアオに信頼を寄せていた祐之進は心配と同時に村人に酷く憤慨していた。だが一人こんな所で怒っていても、アオへの疑念が払拭されるものでもない。

 居た堪れず祐之進はアオに会おうと河原へと走っていた。ところがである。河原に着くと何人もの村人がゾロゾロと集まって中洲へ向かって罵詈雑言を浴びせかけ、アオに向かって石を投げている光景が目に飛び込んだ。投げられた石は幾つか川を超えて中洲のアオに当たっている。だが、アオはそれを甘んじて受け止めるように逃げも隠れもしない。当たるまま、石を受け止めて立っていた。


 祐之進の足が竦んだ。瞳孔が絞られ、心臓が掴まれた。真実などまだ誰も分からぬのに、何故アオがこのような仕打ちを受けているのだ。考えるより先に祐之進の身体が動いていた。


「止めて下さい!あの者は善良なのです!人殺しなどする人間ではありません!」


 そう叫びながら村人の前に立ちはだかったが、興奮している村人を止める事は出来ない。まだ口々に罵りながら石を投げ、祐之進は両手を振り回し、ずぶ濡れになりながら中洲に立ちはだかった。


「どうか!どうか皆聞いてくれ!この者は…違うんだ!」


 そんな無謀な祐之進に慌てて中洲のアオが声を振り絞った。


「馬鹿来るな!祐之進!」

「だってアオ…っ!」


 その時、誰かが放った石礫いしつぶてが祐之進の額を掠め鮮血が飛び散った。紅い血が祐之進のこめかみを染めて行く。一足遅く土手から下女の浜路と下男の文吾が青褪め慌てふためきながら騒乱の中へと飛び込んで来た。


「お止め下さい!お止め下さい!!そのお方は狭山藩の御家老、田村孫左衛門様のご子息なのです!どうか皆さまお鎮まり下さい!」


 目の前で血を流している少年を目の当たりにし、加えて浜路の放った言葉に漸く皆は我に返ったようだった。こうしてあわやと言う所で騒動は治ったが、村人達のアオへの不信や嫌悪が無くなった訳では無いのだ。















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