第8話 捨て猫

 ミンミンと煩いだけの油蝉からカナカナとしめやかに鳴くひぐらしの声に入れ替わろうとする頃、江戸藩邸にいる父から祐之進に一通の文が届いた。戻って来いと書いてあるのか、お前がいないと諸々滞ると書かれてあるのか、祐之進は心を躍らせて文を開いた。

 だがそれは祐之進の希望を打ち砕くものだった。祐之進の代わりに弟の千之助が江戸に居る父の元で自分の代わりを勤める事になったと言う文だった。

 それはかつて祐之進の居場所であり、己の歩むべき道であったはず。文には書かれてはいなかったが、それは祐之進にとって、跡取りはお前ではなくなったのだと突きつけられた気がして居た堪れなかった。

 ここに追いやられた時から嫌な予感はしていたのだ。それでもまさかと心を奮い立たせていたものが、音を立て脆くも崩れて行くのが分かった。

 文を見てから明らかに様子の違う祐之進に浜路は気遣って、これは気にせず安心してよく休めと御家老様が仰っているんですよ、などと慰めてくれるのだが、そんな慰めなど今の祐之進には何の役にも立たない。浜路が慰めれば慰めるほど祐之進は惨めな気持ちになって行く。

 目の前に分厚い鉄壁が落とされたような、これ以上先に進めないような、そんな閉ざされた気分になっていた。それならば自分が長男である意味とは何なんだ。いっそ捨ててくれたら良いのに。

 

 侍の家になど生まれてこなければこんな事で苦しんだりはしなかった。こんな所で自分は一体何を腑抜けてアオと夢中で遊び惚けていたのだろう。身体だって、ここに来てから熱が一度出たきりなのに、自分を見捨てるなど早すぎる。


 厳格な父のことも、弟ばかり可愛がる母の事も祐之進は憎かった。抑えていた思いが一気に心の中に噴出してくる。

 自分に与えられたのはこの田舎の有り余る時間と女中の浜路だけなのだ。男は泣くなと教えられていても、後から後から涙は止めどなく溢れ出てくる。この夏、早く大人になりたいと願っていた祐之進のこれまでの焦燥は、行く当てを失い霧散した。


 ふらりと屋敷を出た祐之進は、焼けるような熱い河原で大の字になって空に胸を開いた。降り頻る蝉時雨と照りつける太陽に焼かれてこのまま天に吸われて行きたかった。水の流れる音を聞きながら何処か果て無き所に流されて行きたかった。投げやりに寝転ぶ祐之進の耳に砂利を踏む音が近づいて来る。急に日陰が出来て祐之進は首を擡げた。


「祐之進!こんな所で何をしているんだ?あんまり御天道様に当たっていると身体に障るぞ」


 声の主はアオだった。いつも上半身裸のことが多いアオが今日は着物を羽織り、背中には背負子しょいこを背負って立っていた。


「アオ殿、どうしてここに?何故そんななりをしているのだ?」

「中洲には無いものもあるんだ。なめした皮を売って必要なものを買って来た」

「皮までなめすとは!其方そなたは山で獣も狩ったりするのか?」

「時にはするさ。お主は俺が中洲から一歩も出ないと思っていたのか?」

「思っていた」

「まあ、それはたいして間違いじゃ無いけどな。

どうだ?今からでも中洲に来るか?」


 最近はアオも祐之進に中洲に来るなとは言わなくなっていた。祐之進も、何故彼が鬼と呼ばれているのかなど大した問題では無くなっていた。

 これまで遊び呆けた後に感じていた後ろめたさももはや意味がなく、祐之進は行くよと言うと、アオの差し出す手に引き上げられて立ち上がった。

 その刹那、祐之進の身体がぐらりとよろけた。踏ん張ろうとしたが手足に力が入らない。それのみならず、耳鳴りがして目の前が暗くなって行き視界がぼやけた。


 アオの顔がぼんやり見える。何か一生懸命叫んでいる。


 認識出来たのはそれが最後。祐之進はアオの腕の中へと転がり落ちていた。



 そこは酷く寒い所だった。真夏だと言うのに心底凍るような暗く寒い場所に幼い祐之進が立っていた。目の前に一つだけ灯った明かりにつられてふらふら歩いて行くと、母の笑った顔が見えた。その腕には弟が抱えられ、父が優しく二人を見守っているのが見えた。


「父上!祐之進もそちらへ行っても良いですか?!」


 幼い祐之進は凍える手を擦り合わせながら声をかぎりに叫んでいる。皆のいる方へと必死に歩くが足元の黒々とした沼に足を取られて進まない。


 祐之進、早く来い。


 父がそう言って手招きをするが三人は祐之進から遠ざかるばかりだ。


「父上!母上!待ってください!私はまだここにおります!父上!」



「父上!」


 祐之進は自分の叫び声で目が覚めた。そこは先ほどまで居ただだっ広い河原ではなく、その直ぐそばに立つ大樹の木陰だった。慌てて起き上がると、己の額から濡れた手拭いが誰かの膝の上にぽとりと落ちた。


「あ!」


 膝の主を探して見上げると、祐之進が枕にしていたのはアオの膝のようだった。


「お主が俺の前で目が覚めたのは二回目だ。俺を選んで気を失っているのか?祐之進」


 そう冗談げに言われて途端に祐之進の目元と耳先に朱が差した。


「か、かたじけないアオ殿!其方の膝を借りてしまった…っ!」


 慌てて起きあがろうとした祐之進の頭をアオが優しくその膝に引き戻した。


「まだ横になっていろ。お主は随分と寝たつもりかもしれないが、まだ四半時と経ってはいない。まだもう少し休んでいろ」

「し、しかしこれではアオ殿の足が痺れてしまう」

「ははは!俺の足はそんなにやわにできちゃあいないから心配するな」


 そう言われても人様の膝の上など緊張してしまう。何故か煩い胸の鼓動に黙れと思いながら祐之進は大人しくアオの膝枕に甘んじた。


「何かあったのか?なんだかうなされていたぞ?」


 祐之進の前髪を梳く指とアオの落ち着いた声。木陰を吹く微風に身を任せ、次第に祐之進の強張っていた身体が解けて行く。それと同時に緩んだ口からスルリと弱音が溢れ出す。


「…捨て猫の気持ちとはこのようなものなのだな…」


 それから誰にも言えなかった本当の気持ちや不安だった日々のことを、祐之進は堰を切ったようにアオにぶつけていた。精一杯背伸びをしても祐之進の限界はここまでだったのだ。後はみっともなくアオの膝にしがみつくように泣きじゃくった。

 そんな祐之進の隠された深い心の発露をアオは優しく受け止めた。責めるでもなく、諭すでもなく、ただ静かに優しくそこに共に居てくれた。


「お主が本当の大人になるのはそんなに遠い話では無いぞ、ゆっくり大人になれば良いじゃ無いか。

そんなに生き急ぐことはないさ祐之進」


 その日大樹の木陰でそう囁いてくれた二つ年上のアオの優しい声だけが、唯一祐之進の心を慰めた。





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