第4話 アオ

「さ、魚を…釣っていたら、流されて」


 少し脚色をしたが大まかそんな感じでは無いか?


 鬼は祐之進の見栄をみぬいたように微かに口角を上げて笑った。普段なら鋭敏に人の気持ちを察知して不愉快になるのが常なのに、この鬼からは馬鹿にされたようには感じなかった。


「この村の者では無いんだろう?魚が食いたかったのか?」

「いや、そうでは無くて…」


 祐之進の目の前に魚籠びくに入った魚が置かれた。覗くと三匹の魚が跳ねていた。


「ここいらの魚は夜に獲るんだ。何故かその方が餌の食いがいい。それに…その竿。ダメだな」


 鬼は立て掛けてあった祐之進の竿をチラと見て素気なく言った。


「ダメって何故…」

「お主の身体に合ってないんだ。長すぎるし、糸にも弾力が無かった。万が一釣れても直ぐに逃げられる」


 この少年は知識では無く恐らくは経験的に釣りを良く知っているのだ。俄然、祐之進は鬼に興味が湧いた。


其方そなたはここで暮らしているのか?魚を釣って暮らしているのか?…

名は、其方の名は何というのだ」


 矢継ぎ早の祐之進の質問に鬼は一言だけ、「アオ」と名乗った。「アオ」それが鬼の名前なのか。苗字も無く、さも今思いついたように、ぞんざいに、己の名前を放り投げるみたいに。


 日はもう傾きかけていた。茜色の空に浜路が己を呼ぶ声が遠くに聞こえた。


「お主を探しているんじゃ無いのか?もう帰れ」


 そう言うとアオは干してあった生乾きの着物を畳んで祐之進の頭にポンと乗せると帯で巻いて顎で結んだ。それを祐之進はされるがままになっていた。


「そこの突き出た岩を真っ直ぐに進め。あそこなら然程深く無いし流れも緩やかだ」


 祐之進は彼との時間を惜しむようにノロノロと立ち上がった。まだ彼と話がしていたかった。だが再び浜路の声が自分を呼んでいた。その声に急かされるように祐之進は再び川へと足をつけた。昼間よりも一層冷たい川の水。


「祐之進」


 思いがけず己の名前をアオに呼び止められて微かに祐之進の心臓が跳ねた。振り返るとアオが魚の入った魚籠を投げて寄越した。咄嗟に祐之進はその魚籠を受け取っていた。


「か、かたじけない」


 祐之進の言葉にアオは返答すら無く、小屋の中へとさっさと引き上げてしまった。だがその突っけんどんな態度の中に何故か温かさのようなものを祐之進は感じていた。

 アオが去った場所に祐之進は一礼すると再び川へと入っていった。教えてもらった道筋は尖った岩が目印で、アオが言った通り岸へと難なく渡り切る事が出来た。祐之進が川岸に着いた頃は辺りはすっかり黄昏時を過ぎていた。


「若様!一体いつまで遊んでらっしゃるのですか!暗くなっても一向に帰ってこないし、いくら呼んでも返事も無いし、浜路はもう心配で心配で胸が潰れてしまいそうでした!」


 折良く浜路が川岸に佇む己を見つけ、血相を変えて土手を駆け下ってきた。余程探したのかびんが乱れ、後れ毛があちこち垂れ下がっている。


「悪かった悪かった!つい魚獲りに夢中になって」

「まあっ、まあっ、何ですかその奇天烈な格好は!裸ん坊で風邪をひきますよ!」


 そう言われて祐之進は恥ずかしげに畳んだ着物を頭から取り外して羽織ると浜路へと腰に付けていた魚籠を放り投げた。


「ほれっ、魚だ」


 浜路は魚籠の中で尾ヒレを跳ねさせている魚を覗いて目を丸くした。


「あれまあ!これは若様が釣ったので?」

「まあな、だから夕餉は俺の釣った魚だと言ったんだ」

「まぁぁっ!これはこれは御見逸れ致しました!よもや若様に釣りの才があったとは!これはまた太った魚でございますね!」


 家に帰る道すがら、浜路の法外な喜びように少し胸が痛んだが、中洲の鬼に会ってきた事など、聞かれなければ答えなくても良いのだから嘘も方便というヤツだろう。祐之進の足は軽かった。


 塩焼きにした魚は昨夜の魚より何倍もうまく感じたし、風呂に入る時、川の中にアオが灯す明かりを見つけて思いがけず嬉しかった。

あの光は見知らぬ鬼が灯しているのでは無く、今日名前を知ったあの少年が灯している明かりなのだ。


 アオ。


 アオ。


 適当につけた名前だとしても、こうして心の中で彼を思い出した時、鬼と呼ばずに済むのだと思うと何故か祐之進は嬉しかった。あの人を、あの光を灯している人の名を俺は今日知ったのだ。よく知らないアオの事を、いつか友と呼ぶことは出来るだろうか。

 田舎に島流しのつもりでやって来たのに、明日からの日々が少しだけ苦痛では無くなっていた。

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