第3話 中洲の鬼
昨日、遠くから見た川はもっと穏やかそうな流れであったが、いざ川岸まで降りてみると案外と流れがあり、中洲辺りの深さも分からなかった。傍に釣竿を放り出し、そばに落ちている拳大の石を遠くに投げ入れてみたが、ドブン!と言うその音は深くもあり浅くもあるようで、早くもどうしたものかと思案に暮れた。
着物を捲り上げ帯に挟むと下駄を脱いだ足先を水につけてみた。釣りどころかろくすっぽ川遊びもした事がない祐之進にとってそれは新鮮な感覚だった。川の冷たい水や砂粒が指の股まで洗って行く感覚は擽ったくもあり、思った以上に心地よいものだ。
暫くは幼子の如く水をバシャバシャと蹴り上げたり、川底をかき混ぜて濁らせてみたりと、たわいも無い事に夢中になった。気づくと捲ったはずの着物は腰までびしょ濡れだったが、嫌な気持ちは全くしない。もしこのまま全身濡れ鼠になってしまっても構わないと思える。いや寧ろ着物を着ていることの方がおかしいとさえ思い始め、気づけば祐之進は
何故、着物を濡らす事に罪悪感など抱いていたのか。つまらぬ事を気にする己らしさが愉快にすら思えて来る。
強か水と戯れているうちに、釣りのことも中洲の鬼の事もすっぽりと頭から抜け落ちてしまっていたようで、気づいた時には岸から遠く離れ、脱いだ筈の着物が竿もろとも川の流れに流されようとしているのが見えた。
「いけない!」
その時になって漸く祐之進は我を忘れて川遊びに興じていた事に気がついた。川の深さは胸元あたりまで上がっており、水面を掻き分けながら着物と竿を追いかけた。
その時だった。岩に乗せた足が滑って急に深みにはまったのだ。泳ぎもままならない祐之進は頭から水に浸かって突如の恐怖に襲われた。息を吸った分だけ水が肺に入って息すら出来ない。それがまた祐之進を混乱と恐怖の渦に突き落とした。
目を白黒させて手足をバタつかせてもがいたが、水魔の魔手が祐之進を捉えて水底に引き摺り込もうとしているかのようだ。この時正しく祐之進は溺れていたのだ。
墨色の世界に祐之進の体が浮かんでいた。
何処からか父の声が聞こえてくる。
お前は長子だ!嫡子、跡取りぞ!
もっと強くなれ祐之進!
そんな有様で元服とは勘違いも甚だしい!
身体を労わるのだ。元服などその後のこと。
今は己の身体を労れ。
暫くは田舎で暮らせ祐之進。
田舎で暮らすのだ。祐之進。
祐之進…。
闇に落ちていく意識の中で、父と交わした言葉が走馬灯のように祐之進の頭を巡っていた。己の意気込みとは裏腹に突然原因不明の熱に見舞われたり、訳も分からず吐く事が多くなった。それは日増しに酷くなり、時には半月も床から出られない日々が続いた。
三つ離れている弟は祐之進とは逆行するように日増しに逞しく賢くなっていく。兄として喜ばしい筈なのに…苦しい。
もう己は父の希望の星では無くなったのかもしれない。
己は跡取りを諦められてこんな田舎に捨てられたのだ。
そして弟が立派に跡目を継ぐのだろう。
ああ情けない…。
情けない。
頭の中ではそんな事を思いながら、現実の自分は激しく水の中でももがいていた。そんな渦中、誰かに腕を掴まれた。誰かが水の中で己に顔を近づけてくる。その人の髪が水に揺らぎ、そこから覗いた瞳が紅く光っているように見えた。記憶は酷く断片的で、そこからふっつりと祐之進の意識が飛んだ。
パチパチと近くで火の粉が爆ぜている。
紅い目はあの火の粉を見間違えたのだな。
…いや、そんな馬鹿な…!
朦朧とした暗闇から祐之進ははっきりと目が覚めた。
濡れ鼠のはずの身体は乾いていて、身体には誰のものか着物がかけてあり、焚火の側で己は筵の上に寝かされていた。
自分はどうしてしまったのだろう。川で溺れた事は自覚があったし誰かに助けられた事も覚えているが、そこから先が思い出せない。
祐之進は慌てて飛び起き、辺りを世話しなく見渡した。
どうやらここは川の中洲のようだった。
寄せ木で作られたような場所で、小屋とも言えないような、さながら鳥の巣に屋根が葺いてあるだけの建物が有り、焚火の傍らには竿らしき棒切れに祐之進の着物が掛けられていた。
その時一際炎が高く舞い上がり、蛍のように 火の粉が舞い上がった。
周囲が橙色の明かりに包まれ、目を凝らすとそこに薪を焚べる人影が動いているのが分かった。
助けてくれた人だろうか、だとしたなら礼を言わねば。
祐之進は勇気を出して恐々と尋ねた。
「そ、
その人の横顔は己よりも二つか三ついやもしかしたらもっと歳上に見えたがまだ何処か幼さが同居していた。
だがその面差しは精悍で、着物から覗く腕は隆々と逞しく青年と言っても過言では無い気さえする。
その少年は寡黙に祐之進に歪な木椀に入った白湯を飲めと差し出した。
「身体が温まる。溺れた後は案外喉が乾くんだ」
祐之進はその腕に手を伸ばした。
「か、
「何故、こんな場所で泳いでいた。村人にここいらには来るなと言われなかったか?」
堅苦しく名乗るも相手はまるで興味が無い様子で、まだ話半分の祐之進に逆に問うて来た。
その様子が、訳も無く己が会いたいと思っていた鬼では無いかと思えて来る。
「もしや、…もしや
臆する気持ちよりも祐之進の好奇心が優った。
あの時夕暮れの逆光に輝いていた鬼が今、己の目の前に居る。炎を宿して己を見ている紅の瞳に微かな興奮が祐之進の胸に灯った。
間違いない。彼は間違い無く中洲の鬼なのだ。
人を取って食うという鬼なのだ。
それは祐之進が思っていたよりずっと、優しい面差しをした鬼だった。
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