第2話 密かな決意

 田舎での夕餉は質素なものだった。だが質素ではあるが、新鮮な魚や豊富な野菜は見方を変えれば贅沢だった。

 この日祐之進は歩き回ったせいか我ながら食が進むのを感じていた。米も魚もいつもより味が良く感じるのは澄んだ空気のせいだろうか。


「浜路、この魚は前の川で釣ったものなのか?」

「さようでございます。さっき庄屋の所の下男が太った岩魚が釣れたと言って持って参りました」

「…岩魚」


 いつもは何の魚か気にもとめずに食べているが、昼間見た川にこんな魚がいるのかと興味深く箸でつついた。


 ああそうか、あの少年は釣りをしていたんだ。


 不意に今日、中洲で見たあの少年のことが頭を過ぎった。


「浜路、中洲にいる者が人を取って食うと言う鬼だと言う話は本当か?まだほんの少年だったし、とてもそんな風には見えなかった」


 そう何気なく一言漏らしただけだと言うのに浜路はたちまち血相を変えてまくし立て始めた。


「んまぁ!若様!中洲に行ったのではないでしょうね?!あの中洲には近づいちゃいけないって村の人達に重々言われているんです。大事な若様に何かあったら浜路は御家老様に顔負けできません!」

「行ってない。行ってないし、そんな大袈裟な…」


 中洲で見た者の事を少し聞いただけでこの剣幕では、もうこの話は出来そうもないと祐之進は思った。浜路にはこれ以上この話はすまいと祐之進は固く心に思ったのだった。


 飯の後の風呂は一人で悠々と五右衛門風呂だった。庭先に設られた風呂桶は開放感があり極楽だった。仰く夜空には星屑が撒かれてうっとりするほど美しく、耳をすませば蛙の合唱が聴こえて来る。昼間暑かった分、夜風の涼しさは風呂で熱った肌にはこの上なく心地良い。


 田舎は良い。

 

 ついうっかりそんな事を考えた。何をしても人目がない事はこんなにも気持ちが伸びやかになるものなのか。

 だがそう思うと同時に、それは裏を返せば若くして隠遁生活に突入したようで、ゆったりするはずの祐之進の気持ちが途端に焦りに変わってしまう。


 こんなんだから十三歳で元服したいと言った時、父に猛反対されるのだ。

 

 元服と言うのは十五歳とも十六歳とも言われているが、本当はその家の家長が決めることだ。幼馴染の三郎太などは十三歳になってすぐに元服を許され一人前の男として認められた。とかく祐之進の周りには早めに前髪を落とす者が数多いた。何故自分だけがこんな田舎でモタモタしているのかと情けない気持ちで湯をかぶった。

 夜のしじまに身を置いて、ちゃぷんと肩まで湯に浸かっていると、目の前を流れる黒い川に提灯か行灯か、小さな光がゆらゆら揺らめくのが見えた。


 あれは中洲の鬼では無いか…?


 咄嗟に祐之進はそれはあの少年が灯している光では無いかと思った。だとしたらこんな真夜中に何をしているのだろう。その鬼火のような灯りを見れば見るほど彼が何者なのか知りたくなっていた。


 明日、中洲に行ってみようか。


 止めろと言われれば言われるほど興味が湧く厄介な年頃だった。背伸びを山ほどしてみても子供は子供。だが意気込みだけは一丁前の大人。どっちつかずのあやふやな境目で祐之進はまだ始まってもいない人生の中でもがいていた。



 蚊帳を吊った布団の上でも祐之進はあの少年のことばかりが気に掛かり、盛んに寝返りを打ってはまんじりともできずにいた。団扇を手で弄びながら、どうやって人に見つからずに中洲へと行けるだろうか、出くわしたらどう言葉をかけてみようか。そんな事ばかり考えた。

 浜路が言う通りなら恐ろしい鬼と言うことになるが、何故かそんな考えは微塵も湧いてこなかった。きっとこの田舎暮らしも彼がいれば退屈なものにならずに済むだろう。祐之進はそう訳もなく思っていた。


 鬼。

 鬼。

 人をとって食った鬼。


 いつの間にか寝入っていた夢の中、仁王立ちした浅黒い肌の少年の目だけが紅く鈍く光って祐之進をじっと見ていた。



「若様、若様!もうお日様は高こうございますよ!」


 浜路の甲高い声で祐之進は目が覚めた。屋敷にいる時には得られなかった満足いく眠りだった。それが故に、祐之進は微睡から中々戻って来られずにいた。だがぼんやりとしていた頭も顔を洗って朝餉を頂く頃には元来の好奇心がむくむくと頭を擡げ、今日は是非とも中洲に行ってみよう。そう決意を固めていた。


「ねえ、浜路、釣竿はあるか?俺が夕餉の魚を釣ってこよう」

「若様がですか?釣りはなさった事がおありで?」


 着物の裾を捲り上げ、尻を突き出し、廊下の拭き掃除に余念が無い浜路が動きを止めて素っ頓狂な顔で祐之進を見た。何故だか小馬鹿にされたような気になって祐之進は癪に触った。何故なら浜路の懸念通り祐之進は釣りなどした事がなかったのだ。恥ずかしくなって引っ込みがつかない祐之進は意地を張ってしまった。「釣り竿が有れば釣りくらいできる!」と。


 浜路が言うには裏の納屋に釣竿が置いてあるのではないかと言う事だった。簡単に言うものだから、祐之進も簡単な気持ちでふらりと納屋を探しに出た。何せこの屋敷は使われなくなって随分経つものを祐之進の為だけに俄に手入れをしたもので、裏庭の納屋にまで手が回らなかったのか、野放図に伸びた竹藪が祐之進の行く手を幾重にも阻んだ。

 なんとかそこを分け入って、落ち葉をたんまりと屋根に乗せて傾きかけた納屋の扉をこじ開けた。砂埃が天井からパラパラとと舞い、祐之進の上に降り注ぐ。袖で口元を覆って中に入ると埃臭い納屋には使われなくなって行く久しい農機具やら何やらが所狭しと押し込まれていた。垂れ下がる蜘蛛の巣を手で払い除けながら奥に進むと壁に竿が何本か立てかけてあるのが見えた。祐之進は適当に一本ひっ掴むと、強か咳き込みながら砂埃に外へと吐き出されて来た。

 だがこれで口実は手に入れたのだ。釣りをしていてうっかり中洲へと来てしまった。誰かに問われたらそう言おう。川への道々祐之進の口元は未知への好奇心に自然と綻んでいた。








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