初恋。

mono黒

第1話 蝉降り頻る


蝉が声を限りに鳴いていた。

短い恋を謳歌するように

残された命の火を燃やし尽くそうとするように

激しく蝉が鳴いていた

あの十三歳の夏

この心にもあんな風に煩く激しく蝉は鳴いていた。





「ですからね、若様。あの中洲には渡っちゃダメですからね!取って食われるって噂なんですから。良いですね?」


 下女の浜路はさっきから祐之進の前に座って得々と何か説教めいた話をしていた。だが当の祐之進はと言うと、どこかぼんやりとその下女の話を受け流し、ああとかウンとか気のない生返事を返していた。


「もう、しっかりして下さいませね、今お湯を持って参りますから。足袋をお脱ぎになってお待ちください」


 そう言うと、下女の浜路は頰被りを後ろ手にキュ、と結びながら世話しない様子で座敷から出て行った。

 結局浜路の話は祐之進にはどうでも良く、シオシオと羽を震わせる蝉たちの騒々しさの中にそれは紛れて消えていった。


 祐之進は地方の小藩で代々家老職を務めてきた家柄だ。人に言わせるとそこそこ由緒正しい家柄だと言うが、堅牢な体躯を持って生まれたとはお世辞にも言い難く、父孫左衛門にはその事が最大の気掛かりだった。しかも長男などに生まれついたものだから、周囲の期待がその細い身体にズシリと重くのしかかっている。よりによって何故にこんな病弱な人間が長男なのか、時々自分が嫌になる。


 孫左衛門は江戸屋敷に留め置かれていた若殿様のお守り役も兼ね、長いこと江戸詰めを任ぜられていた。厳格な武家の長子に生まれた祐之進はすでに七つの時には家督を継ぐ者として江戸藩邸で父の小姓として身の回りの世話を言い使っていた。父の期待に応えようと言う時に何故だか身体を壊し、母と弟の暮らす国許へと帰された。

 帰ってきてから半年余り、一向に良くなる兆しのない祐之進を心配した両親は、よりによってこんな片田舎へと彼を静養に出したのだ。


 祐之進が住む事になった屋敷はこの辺りの大地主でもある庄屋の持ち物で、今は誰も住んでいない屋敷だった。そこに下女の浜路、下男の文吾を付けられての逗留だった。


 祐之進が逗留する事になったのは、こじんまりとした屋敷だった。土間の台所と五右衛門風呂があり、続き三間の母屋は渡り廊下のような縁側で繋がれていた。そこから庭に降りると目の前には青々とした木々が茂り、その木に集る蝉達がしきりに忙しく鳴いている。

 その庭の裏木戸を出ると生垣沿いには一本のダラダラと続く坂道があり、下れば河原へ、上れば竹藪の続く裏山だった。今は心地よい夏の風が通り抜けてザワザワと笹の葉を揺らしていた。


 田村祐之進、当年とって十三歳。この夏、祐之進は早く元服したくて仕方なかった。


 せっかく足を洗ったと言うのに、じっとしていられずに、こんな田舎に何があるのか見てやろうくらいの気持ちで、祐之進は下駄を突っ掛け外に出た。

 

 田舎道を歩いて行くと見渡す限りの青田は目に清々しく、畦道を行けば蝉の声が降りしきってくる。吸い込む空気は湿気を帯びた青い匂いが体に染み渡って心地良い。だが清々した気持ちになったのも束の間で、田んぼをぐるりと巡っただけで早くも祐之進は田舎の風景に飽きていた。


 こんな所で自分にどうしろと言うのか。


 学友たちは皆早々に前髪を落として一人前となっているのに、自分は完全に置いてけぼりになっているかと思うと、美しい景色の中で沈む気持ちが余計に己の惨めさをを煽り立てた。


 道端の名も知らぬ草を引っこ抜き、やたらめったらに振り回しながら祐之進は知らず知らずと川縁まで歩いてきていた。土手から臨む川は流れが緩くさほど川幅の無い川の真ん中辺りにこんもりとした中洲がある事に気がついた。

 

 さっき浜路が中洲が何とかと言っていたな。人を取って食う鬼とかそんな薄気味悪い話だったか。

 

 気づけば日もトロトロと落ち掛けている。別にあの話が怖いわけではなかったが、祐之進はそろそろ帰らねば浜路がまたうるさいのだろうと踵を返した。だがその時、中洲の木立の影に人がいるような気がして祐之進は立ち止まった。

 逆光で見間違えたのかと思って目を眇めながらその影を注視したが、影は人の形をしていて自分より少し年嵩の少年のように見えた。

腰に脱いだ着物を弛ませ、仁王立ちする身体は日に焼けて黒々として逞しく、水に濡れているのかキラキラと輝いていた。


 誰だろう?

 あんな中洲で何をしているのだろう。


 何故だかその少年から目が離せなくなっていた。中洲には人を取って食う鬼がいる。今更浜路の言葉を祐之進は思い出していた。





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