第7話 日常または非日常
「冬馬いくよー」
少し寝坊してしまい、起きたときには美華は朝食を食べ終わっていた。
「今いくよー」
朝食を口に突っ込み、牛乳で流し込む。咀嚼もろくにしなかったせいで胸に突っかかり、苦しい胸を叩いて押し込む。そのまま玄関で待っている美華のもとへ急いでかける。
数日前なら遅刻しそうでも急ぐことはなかったけど、人を待たせていると罪悪感がうまれてしまうな。
慌ただしい朝に、嫌でも脳が覚醒していくのを感じる。
「二人ともお弁当忘れてるよっ」
「ああ、ごめん。ありがとう」
「はい、これは美華ちゃんのお弁当」
「あ、えっと……。すいません……、ありがとうございます」
母さんが弁当を二人分渡してくれる。忙しいのは母さんも同じだろうに、毎日作ってくれていることは本当に頭が上がらない。
さっと受け取ればいいだけのはずなのに、美華はなぜか俯いてしまっている。
ぼそっと唇から零れた言葉は、とても他人行儀で冷たい感謝の言葉だった。
「美華、早く弁当受け取れよ。いくぞ」
靴をはいた僕は、玄関を開けていまだにお弁当を受け取っていない美華に声をかける。
「美華ちゃん、女の子がそんな暗い顔したらだめよ! せっかくの可愛い顔が台無しよ」
そんな美華の顔を母さんが掌で頬を触る。優しく、雪化粧のように触れるのを躊躇ってしまうほどの肌を包み込んでいく。
「……はい。それじゃ……いってきます」
「うん! いってらっしゃい!」
弁当を受け取るのが、そんなに気恥ずかしいことなのか?
これが女心だというなら、僕には今後も分からないだろうな。
家を出て、学校に向かう。
僕の部屋を一瞥すると、開いていたはずのカーテンが閉められている。
「帰ってきたのか」
部屋の中を見ることはできないけど、吸血鬼が僕の部屋で、ベッドで眠りについている姿が容易に想像できる。
「なにか見えるの?」
部屋を見上げていると、美華が不思議そうに僕の目線の先を見遣っていた。
「いや、なにも見えないよ」
「なにそれ? 変なの」
変なの、か。
美華は手を口元に当てながら、くすりと小さく笑う。
「それにしても、会長はなにを考えてるんだろな」
あの人に補佐なんているのか? なんだかんだ言って、仕事はできるから会長という役職では先生たちからも絶大な信頼を得ているわけだけど。
だからこそ、生徒会に特別枠なんて作れるんだろう、けど?
いや、普通無理だと思うがな。
「凛さん、冬馬のこと気に入ってる感じだったよ」
「それは違うよ。遊び相手みたいなものだよ」
「そうなのかなあ」
僕がなんで生徒会に誘われたのかは分からない。
会長に訊いても「それは後輩君が優秀だからに決まっているだろ」なんて思ってもいないことを言われるし。
今日もいつものように学校に向かう。
それは日常で僕にとってもいつも通りの毎日の光景だ。
美華には見えていないだろうけど、僕たちの眼前には——白虎が歩いている。
それに気付くこともなく、目の前を小学生が走り去っていく。
お互いが自分たちの日常のなかで暮らしていくように。
僕も——僕に見えている日常に今日も歩いて行く。
日常とは、簡単な言葉で中身はとても曖昧なものだ。その人にとっての日常が、社会的に見て日常ではないのなら、その人の日常は非日常へと色を変えていく。変えられてしまう。
僕の否定される、拒絶され続ける愛おしい日常に瞳を向け、なんとか日常として受け入れていく。
その小さな手を僕は無言で握り、その顔を見て出来る限りの優しい微笑みを向ける。
「あっお兄ちゃんだ!」
「今日も渡れないのか?」
「そうなの。車が……怖くて」
僕の右の手を握り返してくる、小さな少女は満面の笑みで見上げてくる。
その小学生は名前も知らないし、いつからここにいるのか分からないけど。分かっているのは、この子が普通の少女ではないということだ。
たぶん神田さんと同じように、小さい頃に亡くなった子だと思う。なぜそう僕が考えるのかというと、いくつか理由はあるけど、その一つは——
「冷たいな、風邪ひくから暖かくしろよ」
「お兄ちゃんは優しいね。こんなわたしに風邪をひいてしまうなんて心配してくれるなんて」
「当たり前だろ。まだ小学生なんだから」
「なにか言った?」
「あ、ごめんごめん。気にしないで美華」
僕が少女と話していると、美華が僕を不思議そうに見ている。
「寒くなってきたな」
「そうだね、もう冬だもんね」
美華と話していると、隣の小学生は下から僕を覗き見ながら笑っている。
手をつないだまま横断歩道を通り過ぎると、つながれていた右の手から小さな手はするりと抜けていく。
とても、とても。
それは氷菓子のように冷たく繊細な手は、僕の掌から去っていく。
「今日もありがとう! 優しいお兄ちゃん!」
「ああ、気を付けて学校いけよ」
そんななんの変哲もない少女は元気に手を振ってくれる。
そして、神田さんのいる学校の方に歩いていく。
「冬馬?」
僕たちの学校とは逆の方を見ている僕に美華が話し掛けてくる。
「僕たちの学校に行こうか」
「うん。いこう」
美華の顔を見ると逆光でよく見ることが出来なかったけど、なんだか楽しそうな顔をしている気がした。
小さい小学生とは、たまに横断歩道を一緒に渡る。ただ、それだけの仲だ。
あの子が一人で横断歩道を渡ることが出来ないのは、美華や他の人たちに見えない存在になってしまった出来事に関係しているのだろう。
僕がそれを聞くことはないし、あの子が自分のことを語ることはないけど。それでも、僕は見えているのだから手を差し伸べることぐらいはしてあげたいと思う。
僕の日常に、僕が手も差し伸べることができなかったら——それは日常ではなくなってしまうのだから。
いつになったら学校に登校することが出来るか分からないけど、あの子が学校に行くことができるまでは僕でよかったら手を握ってあげよう。
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