第3話 僕と彼女と登校
「はあ、疲れた」
晩ご飯のあと、興味もないテレビを視界に入れているだけの時間を過ごしてお風呂に入り、足早に自室に戻っていた。
「今日見たテレビってなんだったっけ……」
ふと、一時間ほど前のことを思い出す。が、さっぱり思い出せない。
興味もなかったが、それ以上に先にお風呂に入った美華のシャワーの音、流れる水が止まった音。お風呂の扉が開く音。そんな変哲もない音が気になって、テレビを見ていたのかさえぼんやりとしている。
今日初めて知ったことが多過ぎる。そのなかでも、
「お風呂上りはいいにおいだったなー」
天井をぼけっと眺めながら、口から愚直な感想が漏れ出てしまう。
いや、うっかり本人に聞かれたらどんな顔すればいいかわかんないよ。もっと危機感を持って生活しないと。
駿河美華。
帰りがけでの彼女の姿を思い出す。飛んでいくハトを見る瞳の奥には年相応には見えないものを見た。
僕はあの姿を見たときから、少女のことを知りたいと思っていたのかな。なんて、そんな運命的メルヘンチックはいいとして、瞼を閉じる。
瞼を閉じていれば——そのうち眠くなるだろうから。
昨日の疲れがあったのか、睡眠はとても深いもので朝には美華が住んでいることを忘れてしまっているほどだった。
「わあっ! ……あ、ごめん」
「……い、いえ。気にしないでください」
寝ぼけ眼をこすりながら、階段を降りていつものように顔を洗おうと洗面所に向かうと、美華がいた。いや、いることは当たり前なんだよ。昨日から住んでるわけだから。
ヘアバンドを付けて顔を洗ったのだろう美華は、タオルで顔の水気を取っているところだった。なにも悪いことをしたわけでもないのに、咄嗟に謝ってしまった。
美華も寝起きの顔を見られたくなかったのだろう。タオルで顔を隠してしまった。
そんなに隠すことないほどの面立ちだけどね!
昨日の遠慮がちな表情ではなく、まだ眠そうなその顔は、自分の家にいるようにリラックスしているように僕の瞳に映る。
タオルから覗く瞳には、寝起きを感じさせないように、大きな瞳がさらに見開いていく。
驚かせてしまったことが、奇しくも意識をはっきり覚ましてしまったんだろうな。
「全然自分の家だと思って生活していいからね」
「はい。ありがとうございます」
「そんなかしこまった話し方もしなくていいよ。同い年ぐらいだと思うし」
思うし、なんて曖昧なことを言ってしまった。でも、これが正解だと思う。いや、そうだ。だって、女性に年齢を聞いたらダメだって平塚先生が言ってたもんね!
僕は腹パンを喰らうような馬鹿な真似はしない。彼と違って。
「わかりました……冬馬」
「え……」
女の子に名前で呼ばれたことも少ないせいで、もう何度目か分からないけど、またどきっとしてしまった。
「あ、いや、ごめんなさい」
美華は僕がなにも言わなかったのを、快く思わなかったと捉えてしまったようであたふたとしながら謝ってくる。
僕を名前で呼んでくれたことが、どれだけ勇気のいることだったのかは分からない。
でも、目の前の美華の取り返しのつかないことをしてしまった。と言わんばかりの反応を見ていると僕はなんて不甲斐ないのかと落ち込んでしまいそうだ。
できるだけの落ち着いた声音を装って僕は言う。
「いやいや、謝らないでよ。冬馬でいいよ」
すると、美華は目を大きく見開いて驚いてしまった。僕に怒られるとでも思っていたのだろうか?
「僕こそ、改めてよろしく……美華」
そして、さらに大きく見開いた瞳は綺麗な碧眼だなと見とれてしまう美しさだった。
いつまでも見つめ合っているのは照れくさいし、僕は先に喉を潤そうとキッチンにそそくさと撤退してしまおう。
洗面所を背に向けて歩き出そうとした。そのとき、透き通るような声が僕の背中越しに届く。
「よろしく……冬馬」
振り返ったときには、美華は顔をタオルに埋めながら鏡の方に向いていた。そこには、背中だけでタオルの奥の表情は見ることはできない。
けど、その顔は少し赤くなっているんじゃないだろうか。
そんなことを思わせるぎこちなさの残る挨拶だった。でも、余り人のことを言えるほど、僕も冷静な顔をしていないだろうけど。
「うん、よろしく」
何度目か分からない挨拶を終えて、慣れない女の子との会話に居づらくなり顔も洗わずにその場を逃げ出してしまった。
〇 〇 〇
朝ごはんを食べ終え、そろそろ家を出ないと学校に遅刻してしまう時間帯になってきていた。
「そういえば、美華は学校はどうするの?」
「今日からとうくんと同じ学校に転入することになってるわよ」
「ふーん」
確かに大人っぽい雰囲気を持ちながらも、どこか幼いところを見ると近い年頃だとは思っていたけど。同じ学校か……また会長辺りに変なことを言われそうだな。
「まだ道も覚えてないだろうし、とうくんがしっかりエスコートするのよ」
「エスコートって……」
無駄口の減らない母さんは、口数に負けない手際の良さで朝食の片づけを終わらせると、自分自身の身支度をしにリビングを出て行ってしまった。
同じ学校なんて——女の子と一緒に登校することになるなんて。
「……冬馬」
二階から降りてきた美華がリビングの扉から顔を出して声をかけてきた。全く聞き慣れない、その透き通った声によって我に返った僕は振り返える。
少し緩んでしまっていた頬を誤魔化すように作り笑いをして。
「——学校行こう」
学校の制服を着た女子なんて、いつも見ていると思っていた。いや、見ているんだけど。
それでも、美華の控えめながらも透き通った声。言葉を出さなくても目立つだろう華奢で整った容姿が制服という特別な服装をさらに特別なものにしていた。
美華の姿に毎回見とれてしまっていたら、本当に遅刻しかねないな。
頭に浮かぶ色々な思いを振り払って、座っていた椅子から腰を上げる。
「行こうか」
自転車で登校する生徒がほとんどのこの学校で、僕は数少ない徒歩での生徒だ。
理由なんて特にない。しいて言うなら歩くことが好きだし、それほど家と学校の距離が離れていないことが歩いている理由だと思う。
二人で歩いているからといって、どちらかが話し出さないと会話は生まれない。こんなときこそ男の僕が話を振ってあげないといけないんだろうな……はぁ。
慣れない間を持たせようと、苦し紛れに聞いたことは僕の思っていた一番の疑問だった。
「美華はどうしてうちに来ることになったんだ?」
気づいた時には疑問は言葉となって、口から零れ出てしまっていた。
何秒の沈黙だったろうか。
僕が聞いたことは、もっと仲良くなってから聞くことだったと遅れて後悔してしまった。そんな簡単な理由で、親戚の家に住むことなんて普通はならないだろうから。
「ごめん。なんか美華が家にきたことが嫌ってことじゃないんだ。答えたくなかったら、答えなくていいから」
慌てて僕が言い訳を並べていると、小さく。でも、しっかりと芯のある声で美華の声が聞こえてきた。
「——わたし記憶がないんだ。どこから来たのか、なんでわたしは一人なのかも分からない。目が覚めたときには、病室で真っ白い天井を眺めてた。そして、右手を強く握ってくれている冬馬のお母さん、澄香さんがいた」
電車に間に合いそうにないのか、横を走り抜けていくサラリーマン。
元気よくはしゃぎながら歩いている小学生。
会話に花を咲かす主婦。
いつも見ている景色の中で、明らかに僕だけが取り残されてしまっていただろう。美華の話してくれたことは、理由なんて話のものではなかった。
何となく聞いてしまった数秒前の僕を、現在進行形で言葉を失ってしまっている僕はぶん殴ってやりたい気分だ。
「澄香さんは黙って、強く抱きしめてくれたの。だけど、わたしは自分がどうして病室にいるのか全く思い出すことができなかった。あとから病院の先生に聞いたけど、何か強いショックで記憶が一時的に思い出せないようになってるって」
美華は淡々と自分のことを話してくれた。
その声は、記憶がないのが美華ではなく他の誰かなんじゃないのかと思わせられるほど冷め切った声音で。
「わたしには誰を頼っていいのかわからなくて……気付いたら冬馬と澄香さんの家に住むことになっていたの」
いや、他人のことだなんて思っていないんだ。
美華は自分では理解出来ない出来事に、これ以上考えるのを諦めてしまっているのか。
それが、どんなことなのか僕にはわからない。
誰しもが当たり前のように覚えている昨日のことを、美華は知らない。
分かるなんて簡単に同情の言葉を並べてはいけない。喉から出てくるのは、乾ききった息だけだ。
木枯らしに抱かれて、学校に通う途中だったことを気づかされる。
「辛気臭い感じになっちゃったね。冬馬、学校に連れてってよ!」
目の前には、寒さなんてどうでもよくなるほどの笑顔が僕に振り返っている。
こんな美華の顔をかわいいとか、綺麗なんて言っても意味なんてないんだろうけど。
でも、それでも僕は言葉を選んで考えて意味のないことを言いたくなってしまっていた。
「かわいい笑顔だな」
「……。もう変なことを言わないでいいから!」
すっかり頬を赤らめてしまった顔を隠すように、僕に背を向けると美華は歩いていってしまった。
どんなにかわいい笑顔だったとしても、今の話を聞いてしまうと美華の——心の仮面のように思えてならない。
それなら、照れている顔のほうが素の美華の表情に近いような気がしていいなと思う。
「遅刻するよ、冬馬」
「今いくよ」
美華の秋冬の雲一つない空のような、透き通った声に僕はやっと聞きなれた気がした。
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