第1話
死。それは生の反対。人生の終着点。逃れることの出来ない絶対の終わり。
テーブルに置かれているナイフを手に取る。銀色の刀身に怯えた少年の顔が映し出される。切っ先を左胸、僕の意志とは関係なく動き続ける心臓の上にあてる。
ここ、ネヴァー・マインドの街では”死”は忌み嫌われている。三十歳を迎えることが出来なかった者は大いなる存在の寵愛から外れたもの、デラシネと呼ばれニルヴァーナに旅立った者が眠る静寂の谷に入ることは許されずに忘れることを推奨される。自ら命を絶った者は大いなる存在の寵愛を踏みにじった者、エーテンダーと呼ばれて公式な記録から存在自体が抹消される。
普通の人は二度死ぬと言われている。一度目は命の灯が消えた時。二度目は人々から忘れ去られた時。ニルヴァーナに旅立った人は二度目の生を永遠に生きることになる。死者の日によって必ず思い出されるのだから……。
一週間前に自ら命を絶ってエーテンダーとなった者がいた。それを知った街の人々は判を押したように言った。
「恐ろしいことだ」
「自ら大いなる存在の寵愛を手放すなんてとんでもない!」
「生き続けていればニルヴァーナに旅立てるのに……」
手に力を込めれば、僕はエーテンダーになることが出来る。街の人々は同じ台詞を口にするだろう。可能ならば僕は街の人に聞いてまわりたい。
「何で自ら命を絶つことは恐ろしいことなんですか?」
「本当にヒトに大いなる存在の寵愛があるなら手放すわけないんじゃないですか?」
「何故ニルヴァーナに旅立つことがいいことだと言えるんですか?」
彼らは少しでも考えたことがないんだろうか?もし僕らが彼らの言うような存在なのだとしたら、何故これほど”死”が忌み嫌われている街で死を選ぶ人間がいるのかと。自ら死を選ぶ人間がいるということが僕らは彼らの言うような存在ではないという証明じゃないだろうか?
力を込める。切っ先が布を破って肉に刺さる。鋭い痛みが”肉の生”を実感させる。大きく息を吐いてナイフをテーブルに置く。
僕は見つけなければならない。”死”でもなく、”ニルヴァーナ”でもない僕の答えを。消え去らないものを、変わらないものを、揺るぎないものを……それを見つけることが出来れば脆弱たる僕の人生に強度を与えることが出来る。
きっと、そうだ。
父様と共にネヴァー・マインドの街を歩いていく。父様を見つけた街の人は必ず敬愛の笑顔を浮かべて挨拶をしてくる。
「あら、領主さま。こんにちわ」
次に父様の隣にいる小さな存在、僕を見つけてこう言う。「未来の領主さま」と。
ここ、ネヴァー・マインドの街では長寿こそ最も尊いものとされており、僕の家系であるフェニックス家は代々長寿の家系であり、自然と領主を歴任するようになっていた。
「お父さんの仕事をちゃんと見て勉強するんだよ」
「私たちが安心してニルヴァーナを目指せるように未来の領主さまにはお父さんと同じように街を発展させてもらわなくちゃいけないからね」
誰もが何の疑問を持たずに僕が将来この街の領主となって、人々を導いていく存在になると思っている。長寿の家系の子どもというだけで……。
初めは戸惑った。僕は何の特別なチカラを持たない只の子どもでしかない。何か特別なことを成し遂げたわけじゃない。なのに道行く人誰もが言う。「未来の領主さま」と。そう言われてもどのように振る舞っていいか分からずに黙って俯くことしか出来なかった。
「あらあら、未来の領主さまは随分とシャイなお方だねー」
物心ついた頃から繰り返されてきた日常の一シーン。
視線が高くなってくると今まで見えていなかったものが見えるようになってくる。父様の仕事が、そして父様の仕事が街の人々にどのように受け止められているかが。
少し離れた所から重い咳の音が聞こえてくる。見るとお爺さんが苦しそうに口に手を当てて咳き込んでいる。僕の小さい頃、どんな理由があろうとも死を感じさせるものは忌み嫌われていた。重い怪我を負った者、重い病気を患った者は白い目で見られ、秩序を乱す者として街はずれにある療養所とは名ばかりの施設に押し込められていた。父様はそれを変えた。街の中央部に医者のいる療養所を作って街の人は何かあったら診断を受けれるようになった。
「大丈夫ですか?」
近くにいた人が咳き込んでいたお爺さんに声をかける。白い目ではなく暖かい言葉がかけられるようになった。父様の仕事が街の人々の意識を変えたんだ。
父様の仕事を間近で見ていると考えが変わっていった。
「ハイ、ちゃんと勉強します」
「ハイ、任せてください」
自然とそんな言葉が口をついて出るようになった。僕の言葉を聞いて街の人々も父様も嬉しそうに笑い、僕も嬉しくなった。十四歳になる頃には戸惑いは消えて領主という言葉は僕になら出来る、僕にしか出来ない仕事なんだと確信を持つようになった。
僕は人々を導く使命を負った”選ばれし存在”なんだと。
父様と並んで静寂の谷の入口に立つ。静寂の谷……ネヴァー・マインドに生まれニルヴァーナに旅立った者が安らかに眠る場所。父様も僕もニルヴァーナに旅立った後はここで永遠に生き続けることになる。
静寂の谷に入っていく。静寂の谷では縦横に規則正しく墓石が並べられている。左端まで歩いていく。そこには八つの墓石が並んでいる。一番前の墓石の前に立つ。墓石には『ネヴァー・マインドを作りし者、ジョン・フェニックスここに眠る』と刻まれていた。ジョン・フェニックスに始まる歴代の領主八人がここに眠っている。
「カート」父様が墓石に視線を向けたまま口を開く。「人は二度死ぬと言われている。この意味が分かるかい?」
人は二度死ぬ。父様の言葉を反芻する。一度目の死が一般的に言われている”死”だろう。じゃあ、二度目の死は?
「一度目の死は分かりますが、二度目の死は分かりません」
「一度目の死は命の灯が消えた時。二度目の死は人々の記憶から忘れ去られてしまった時。死者の日が何で設けられているか、考えたことがあるかい?」
死者の日。ネヴァー・マインドの住人が先祖全ての墓に祈りを捧げる日。ニルヴァーナで完全なる静寂の日々を過ごせるようにと。
「いえ、ありません」
僕にとってはこの街に住む者が守るべき決まりの一つでしかなかった。
「一般の家の出ならそれでも構わないが、フェニックス家の、人々を導く使命を負うべき家の出ならそれではダメだな」
「……すいません」
期待に沿う行動が出来ていなかった。激しい後悔が全身を襲う。
「まあ、おいおい出来るようになってくれればいいさ」屈んで視線が合わさる。「考えてみてほしい、何故死者の日という仕掛けが必要なのかを」
「仕掛け、ですか?」
「そうさ。死者の日は神や悪魔や大いなる存在が考えたものじゃない。ヒトが考えたものだ。私は幼い頃から父や母に連れられて歴代の領主、ジョン、バズ、スティーブ、ロバート、ジジ、ブライアン、ジャニスに祈りを捧げてきた。死者の日という仕掛けがあるからこそ私は歴代の領主の存在を身近に感じることが出来た」
「仕掛けというのは先祖を忘れないようにするために死者の日はある、ということですか?」
驚き、そしてすぐ笑顔になる。
「そうだ、よく分かったね。死者の日がなかったら直接会ったことのある祖父ジャニスと父フレッド以外の領主が私の中で生き続けることはなかっただろう。死者の日があるから私は彼らがこの世界に確かにいたんだという事実を記憶し続け、そのことが私たちに”永遠の生”を与えることになる」
「先祖に、でななく私たちにですか?」
「そうだ。これはとても大切なことだからよく覚えてほいて欲しい。ヒトという存在が最も恐れることは何だと思う?」
最も恐れること。それは、生の反対。絶対なる結果。
「死、ですか?」
「半分正解、かな。私が思うヒトという存在が最も恐れるものは自分という存在の軌跡がなくなってしまうこと。ヒトが死を恐れるのは死そのものではなく、死の先にあるもの……自分という存在が消えてしまうことだ。だからこそ、死者の日をつくったんだ。ジョンなのかバズなのかは分からないけどね」
「自分が死んでも、自分のことを覚えていてくれる人がいる。そう信じることが出来るから永遠の生が与えられることになるということですか?」
「そうだ。私がルールを決める時によく意識している言葉がある。それは『情けは人のためならず』という言葉だ」
「情けは人のためならず」父様の言葉を繰り返す。「どういう意味なんですか?」
「人に対して情けをかけておけば、巡り巡って自分に良い報いが返ってくるという意味だ。そうすることがいい事だと思っても自分に得があることではないと思うことを出来る人間は多くはない。だからこそ今からやろうとしていることは最終的には貴方のためでもあるんですよ、と多くの人に思ってもらうためにはどう伝えればいいかを私は強く意識している」
「診療所を建てる時もそうだったんですか?」
「そうだな」当時の苦労を思い出したのか口の端が吊り上がる。「私が診療所を街の中心部に作ろうと提案した時の反対はすさまじかった。もはやフェニックス家の者にネヴァー・マインドの街を任せることは出来ないとフェニックスから領主の特権をはく奪すべきだという者までいた」
「そこまでだったんですか?」まだ幼かったので、そんな強い反対があるなんて気付かなかった。「誰もが病気になったり、怪我したりするかもしれないのに……」
「ヒトは自分が健康な時はそれが当たり前だと思うからね。そして、それが崩れた時に『こんなはずじゃ……』と思う。結局、根気強く説明し続けるしかなかった。診療所を建てるのは特定の誰かのためではなく、この街みんなのためなんですよ、と」
「でも最終的には父様の想いが多くの人に届いたってことですよね?」
「必死に説明したからね。まあ、私のためでもあるわけだから必死にもなるさ」
父様がいたづらっぽく笑い、つられて僕も笑う。
「さて、と」父様が立ち上がり、大きな手で僕の頭を撫でる。「未来の領主さまへのレッスン一はこれにて終了。大事なことを伝えたので、ちゃん復習しておくように」
「ハイ、分かりました」
「いい返事だ。じゃあ、母さんがご飯を作って待っているだろうか帰るとするか」
「ハイ」
帰り道。僕はこの街のみんなのために何が出来るのか?そればかりを考えていた。
『怯えて生きるより、今消えてしまった方がいい』
三日前、そう遺書を残して父様が自殺した。父様は大いなる存在の寵愛を踏みにじった者、エーテンダーとして公式な記憶から抹消された。ドナルド・フェニックスという存在はこの世界にいない。今も過去も……。
『なぜ、なぜ、なぜ?』
三日前からずっと同じ言葉が頭の中を駆け巡っている。なぜ父様が死んだ?なぜ父様はいなくなってしまった?なぜ父様は自ら死を選んだ?
父様の死によって僕の世界は変わってしまった。
同じ家、同じ街、同じ空。にも関わらず初めて訪れた世界のように感じられる。ふらふらと十四年過ごしてきた街を歩いていく。街の雑貨屋。よく父様のつかいで買い物に訪れた。街の広場。よく父様と一緒に街の人々の様子を観察した。街の診療所。父様の仕事の結果。違和感があってもこの街には確かに父様の思い出が溢れている。もう父様はいないのに……。居たたまれなくなって気付いた時には逃げ出すように駆け出していた。
目的地もなく駆け出した先は街はずれを流れる川辺だった。
「川と街は似ている。川と街も一瞬たりとも同じ姿でいることはないが、確かに川と街も存在しているんだ」
生前、散歩で川辺を訪れた時に父様はそう言っていた。川と街も常に留まることなく変わり続けている。
変化。父様がいなくなってしまったことも街の人たちにとっても数ある変化の一つに過ぎないんだろか?あの瞬間、父様が自ら死を選んだ瞬間から、父様は消えてしまった。この街の人に「ドナルド・フェニックスのことを知っていますか?」と聞いたら誰もが同じ答えを返すだろう。「知らない」「そんな人間はこの街にはいない」と。
あの日、母様に「父様はどこに行ってしまったの?」と尋ねた。天寿を全うした者はニルヴァーナへと旅立つ。じゃあ、エーテンダーは?大いなる存在の寵愛を踏みにじった者をどこに旅立つ?街の人は無理でも、母様には覚えていて欲しかった。息子と二人きりの時には父様のことを話してほしかった。なのに……。母様は視線を反らしてぽつりと呟いた。
「そんな人はいない」と。
石コロを拾い上げて川へと投げる。石ころは表面に波紋を広げたものの何事もなかったように消えてしまう。父様は自ら死を選んだことによって二度死んでしまった。僕はもう誰とも父様のことを”共有”できない。僕は確かに父様の息子なのに。父様との思い出はこの胸に確かにあるのに……。
その時に誰かに肩を叩かれる。顔だけ向けると紅い瞳に見つめられている事に気付いて驚きが全身を巡る。この街で唯一の存在、光り輝く金髪に紅い瞳を持つ少女、不老不死だと言われているクリムゾン・ノーブルが立っていた。全く予期せぬ出来事に慌てて振り向くも何と声をかけていいのか分からずにただ彼女を見る事しか出来なかった。燃えるような紅い瞳が僕の全身を捉えた。
「お父様の事は大変だったね」
最初は何を言われているのか分からなかった。彼女はさも当然のように”お父様”と口にした。
「お父様は立派な方だった」
込み上げてくるものを抑えきれずに彼女に抱き着いていた。街の人々から”お館様”と呼ばれ、誰よりも高貴な存在と言われている彼女に。彼女の手が優しく背中に回される。
「君も大変だったね」
優しい声。その一言で色んなものが止まらなくなり、僕は彼女の胸の中で泣き続けた。どれほど彼女の胸の中で泣き続けていたんだろうか?泣き続けたおかげで少し気持ちも落ち着いてきた。彼女から体を離す。
「その、すいません。初めて会ったのに……」
「気にすることないよ。我も君のお父様にはお世話になったからね」
改めて目の前にいる少女、クリムゾン・ノーブルを見つめる。黒い髪、黒い目、薄いオレンジ色の肌を持つネヴァー・マインドの街の人たちに対し、金髪、紅い瞳、白い肌を持つ彼女は一際美しく見えた。
「どう?少しは落ち着いた?」
「あっ、はい。ありがとうございます」
「それはよかった」
彼女がニッコリと微笑む。今更ながら、恥ずかしさから彼女の顔を真っ直ぐに見つめることが出来ずに視線を伏せてしまう。
「お父様のことを話したくなったら街外れにある我の屋敷に来るといい。街の人たちにとってはお父様は消えてしまったかもしれないけど、君と我の中には生き続けているんだから」
「あ、ありがとうございます」
僕の他に父様の事が生き続けている人がいる。そのことが無性に嬉しかった。
「じゃあね」
彼女がきびすを返し、レースが施されたスカートのすそが舞う。見えなくなるまでじっとその背中を見つめていた。
父様の自死から一週間が経った。世界が変わった日からずっと考えていることがある。”死”について、”死”は何かということを……。
今日も公園の隅で寝転んで考えていた。
ここ、ネヴァー・マインドの街では死には三種類あると言われている。エーテンダー、デラシネ、そして目指すべきニルヴァーナ。望ましい死と望ましくない死。望ましい死を迎えた者は人々の中で永遠に生き続け、望ましくない死を迎えた者をその瞬間から忘れ去られる。父様はその考え方を今を生きる人に”永遠の生”を信じさせるための仕掛けだと言った。父様は自ら永遠の生を手放してしまった。父様は人々から忘れられたかったのか?
僕にもいつか終わりがくる。どの種類かは分からないけど、必ず死は訪れる。僕はこの世界から消え、それでもこの世界は存在し続ける。そう考えるだけで、息がつまり、ぎゅっと心臓を鷲掴みされたような感覚になる。
怖い。僕がいなくても世界はあり続ける。その事実がたまらなく怖くなってくる。体が震え出して、自分の体をぎゅっと抱きしめる。僕は、消えたくない。
「クリムゾン・ノーブルは正体は吸血鬼?何だよ、それ?」
クリムゾン・ノーブルという言葉に耳が素早く反応する。
「俺の兄ちゃんが言ってたんだよ。クリムゾン・ノーブルの正体は吸血鬼だって」
「吸血鬼って、蚊みたいに血吸うってのか?」
体を起こして様子を伺うと少年三人がベンチに腰かけて話し合っていた。
「それで血吸われたところはかゆくなるってか?」
「かゆいどころじゃなくて、すごい効果があるみたいなんだよ」
「すごい効果?」
少年が周りを伺った後に得意気な顔で話を続ける。
「不老不死になれるんだってさ!」
「不老不死!」
一際大きな声が発せられる。不老不死。死ぬことがなければ消えることもない。僕の意識は三人の会話から一瞬も離せなくなる。
「ホントかよ、それ」
「だって、よく考えてみろよ。俺のばあちゃんに聞いたんだけど、クリムゾン・ノーブルって俺の婆ちゃんが子どもの頃からずっと今の姿のままなんだってよ。つまり不老不死なのは間違いないわけだ」
「不老不死なのは分かったけど、そこからどう吸血鬼で血吸われたら不老不死になるって話に繋がるんだよ?」
「お前、クリムゾン・ノーブル見たことあるか?」
「ない。お前は?」
「俺もない」
「おい!どういうことだよ!」
「まあ、落ち着けって。そんなにキレられちゃ落ち着いて話も出来ない。俺は会った事ないんだけど、俺の母ちゃんは見たことがあって、クリムゾン・ノーブルってすんごく綺麗らしいんだよ。それこそ、この世の者とは思えないくらいに。光り輝く黄金の髪、燃え盛る炎のような紅蓮の瞳、透き通るような白い肌。ああ、クリムゾン・ノーブル様。どうして貴方様はそんなにお美しいのですかって三日間うっとりしてたんだから」
「お前ん家の母ちゃん変わってんな。で、そんなに美しいなら吸血鬼でもおかしくないってか?」
「そうだよ。生き血を吸う美少女の伝説はお前んも知ってるだろ?」
「伝説ってか只の事件だけどな。五十年前くらいに多くの少女が血を抜かれた状態で死んでいたってんだろ。その事件の犯人がクリムゾン・ノーブルで、多くの少女の血を吸ったクリムゾン・ノーブルはお前の母ちゃんがうっとりするくらい美しいってか」
「間違いない!」
「お前の説が正しいなら、血抜かれた少女は死ぬんじゃなくて不老不死になってなきゃおかしいんじゃねえの?」
「あっ……」
「お前の説、穴だらけじゃねえか」
「いい説だと思ったんだけどなぁ」
「あっ、そうだ!クリムゾン・ノーブルと言えば、この前カートと……」
「おい!」
肘で小突き、二人で慌てて周りを見渡す。
「おい、気を付けろよ!誰かに聞かれてたらどうすんだよ」
「あ、ああ。悪い悪い」
「もう行こうぜ」
少年らがそそくさと公園から出ていく。が、もう少年らのことは気にならず意識は二つの事に吸い寄せられていた。
『クリムゾン・ノーブルは吸血鬼。血を吸われれば永遠の生を得る事が出来る。永遠の命を得れば死なない。死ななければ消えることもない』
その考えが死の恐怖という暗闇に光りを照らし、気付けば体の震えは止まっていた。
「どうぞ」
穏やかな優しい声と共に紅茶が置かれる。
「あ、ありがとうございます」
「ノーブル様はもうすぐ来られますので、しばらくお待ちください」
「は、はい」
初めて訪れた街はずれにあるバラに囲まれた大きな屋敷。門前払いされるかもしれないと震える手で呼び鈴を鳴らすと、今紅茶を出してくれたキオさんが暖かい笑顔で迎えてくれた。遠慮がちに部屋の様子を伺う。大きな屋敷の様子から屋内は豪華な調度品で溢れていると思ったけど、想像とは裏腹に部屋には最低限の質素な調度品しか置かれていなかった。
「おお、少年。よく来たな」
部屋の扉が開き、黒を基調とした豪奢なドレスに身を包んだクリムゾン・ノーブルが姿を見せる。
「と、突然押しかけて……」
慌てて立ち上がるも手で制してくる。
「いつでも来ていいと言ったのはこちらなのだから、そんなにかしこまらなくてもよい。気を楽にしてくれ」
正面の椅子に腰を下ろす。それを見て僕も腰を下ろす。
「少年は、と言えば名前を聞いていなかったな。少年は名を何と言う?」
「カート……カート・フェニックスと言います」
「カートか。ではカート。今日はどうした?お父様の事を話したくなったか?」
手を握りしめて息を小さく吐く。意を決して真っ直ぐに見つめる。
「僕の血を吸ってください!」
目を丸くした後に愉快そうに笑う。
「くくっ、最初聞いた時は半信半疑だったが、どうやらキオさんの言っていた事は本当らしいな」
気付くとすぐキオさんがすぐ隣に立っていた。
「ノーブル様に何と失礼な物言いを!」
今までの優しい雰囲気は一変して厳しい表情で手を振り上げる。これから起こることを察して身を縮こませる。
「キオさん!」ノーブルさんの声でキオさんの動きが止まる。「子どもの言っていることだ。そんなに怒ることではない」
「分かりました。カート様、失礼致しました」
不服そうではあったけど、頭を下げて離れていく。
「街の子ども達の間では、我が吸血鬼だという噂が流れているという話は本当らしいな」
「ち、違うんですか?」
「残念ながら、な。血を吸った事がなければ、血を吸いたいと思った事もない」
「そう、ですか……」
失望がハッキリと言葉に乗ったことが自分でも分かった。
「吸血鬼であるクリムゾン・ノーブルに血を吸われれば永遠の命を得ることが出来る、か。ヒトの考える事はいつも面白いな」
「……」
「随分とショックを受けておるな。我が吸血鬼じゃないことがそんなに嫌か?」
「あっ、いえ。そういうわけでは……」
「なぜ永遠の命を得たい?」
「死が、怖いから。僕は死にたくない」
絞り出すように願いを口にする。
「天寿を全うすればヒトはニルヴァーナに旅立つのだろう?我にはニルヴァーナが何なのかは分からぬが、そこへ行く事がお主らヒトの目的なのだろう?その目的を達するために必ず経なければいけないのが”死”だ。目的を達するために必要なものを恐れるのは理にかなっていないのではないか?」
「父様は言ってしました。何故誰も行ったことのない場所を目的に設定することが出来る?ニルヴァーナとは愚者の黄金に過ぎない。ニルヴァーナというアイデアを信じられるのであれば問題ない。信じられないのであれば無理に信じるべきではない。抽象的観念から生まれるアイデアはそのアイデアを信じる者に多大な災いをもたらすかもしれないのだから、と」
「なるほど、な」口の端が吊り上がる。「その言葉をジョンに聞かせて反応を見てみたかったな」
「あの、ジョンというのは?」
「ジョン・フェニックス。君の家系の始祖であり、君のお父様の言葉を借りればニルヴァーナというアイデアを思いついた人物。そのアイデアは多くの人に受け入れられたわけだが、その子孫が否定するというのは面白い因果よの」
「ノーブルさんは僕の始祖であるジョン・フェニックスを知っているんですか?」
「我は長生きだからの。ジョンだけじゃない。ジョン、バズ、スティーブ……君の祖父であるフレッドの事も知っておる。一人の男の頭から発せられたアイデアが多くの人に受け入れられていく様子を見るのは大変興味深い体験だった」
「あの、父様は死者の日も仕掛けと言っていました。死者の日もジョンのアイデアだったんですか?」
「いや、死者の日はジョンの孫であるスティーブが考えたものだ。死者の日、デラシネ、エーテンダー。歴代領主の考えたこれらのアイデアがニルヴァーナというアイデアを強化したと言っていいだろう」
「そうだったんですか」
「カートはニルヴァーナを信じていないのか?」
「僕は……」胸に手を当てる。「分かりません。父様の言うように何故誰も行った事のない場所を目標に設定出来るのかという疑問はあります。でも、ないと言い切ることも出来ません。本当にないならばあれほど多くの人が信じるだろうかとも思います」
「天寿を全うした者はニルヴァーナ。全う出来なかった者はデラシネ。自ら命を絶った者はエーテンダー。それがこの街の住人が信じている死の先にあるものであろう。このアイデアを信じるならば、死はそれらの場所へ旅立つ途中の一過程に過ぎなくなる。では、カートよ。これらのアイデアを信じきれないそなたは死は何だと思う?」
「分かりません。僕には分からないんです!」
「うむ。先ほど言うたな。『死ぬのが怖い』と。何故分からないのに怖いと思う?」
「わ、分からないことを怖いと思っても別に不思議じゃないでしょ?」
「なるほどな」ノーブルさんがテーブルの上に置かれていたスプーンを手に立ち上がる。「よく見ておれ」
スプーンから手を離す。スプーンが床を跳ねて甲高い音が響く。
「そなたは何故スプーンから手を離すと床に落ちるか分かるかの?」
「……分かりません」
「では、その事を怖いと思うか?」
「思いません」
「なるほどな。分からないことでも怖いものと怖くないものがあるようじゃの。ではもう一度聞こう。何故分からないのに怖いと思う?」
「……死は消えることだと思うから。僕は、消えたくない」
「うむ」ノーブルさんが再び椅子に腰を下ろす。「では、我とカートで考えてみることにするかの。死について」
「死について、考える?」
「分からないからこそ考える。そんなにおかしいことではないであろう?」
「そうですね」
死について考える。僕が消えることを考える。僕がいない世界のことを……。そう思うだけで吐き気を覚えて体が震え出す。
「カート」優しい声と共にノーブルさんが手を伸ばして頬に触れる。「大丈夫、大丈夫じゃ。我がすぐ傍におる」
ノーブルさんの手に自分の手を重ねる。
「すいません。もう少しこうさせてください」
首を縦に振る。目を閉じてノーブルさんの体温だけに意識を集中させると気持ちが落ち着いてきた。ゆっくりと手を離す。
「すいませんでした」
「落ち着いたかの」
「はい」
「どうする?考えるのは止めにしとくかの?」
「いえ、とても大事なことだと思うので考えたいです」
「では、始めるとするかの。始める前に我とカートの立ち位置を確認しておこう」
「立ち位置、ですか?」
「うむ。スタート地点が間違っておったら、とんでもない所に行ってしまうかもしれないからの。我は死んだことがない。カートも死んだことがない。間違いないかの?」
「はい」
「我もカートも死は体験したことがない。では次じゃ。カートは死んだ人と話した事はあるかの?」
「ありません」
「我もない。当然じゃの。さて、これで我たちのスタート地点がはっきりとしたわけじゃ。我たちは死を体験したことがないし、死を体験した人に会ったこともない。そして、これから先もそれは変わらない。つまり、分からないかもしれない……ってそんな顔をするでない」
不満が顔に表れていたのか、ノーブルさんが苦笑する。
「カートの気持ちは分かる。『何でそんなこと言うんだよ」ってところかの。だが、物事を考えるということはしっかりと事実を、分かっていることと分かっていないことを一つずつ区分けして積み上げていく必要がある。いいかの?」
首を縦に振る。
「つまり、僕たちは死について分からないことが多いということですね」
「そうじゃの。分からないことが多いから分かりませんではどうしようもないので、数少ない分かっていることから死は何かを推定していくことになる。我は多くのヒトの死を見てきた」
「あの、すいません」
「ん?」
「話を遮ってしまってすいません。一つ聞きたいことがあるんですけど……」
「何かの?」
「ノーブルさんは吸血鬼ではないんですよね?」
「違うの」
「不老不死ではあるんですか?」
「不死かは分からぬ。試したことがないし、試してみようとも思わないからの。不死だと思って試してみたら死んでしまいましたでは洒落にならぬからの。で、不老はずっとこの姿形じゃから恐らくそうなのじゃろう」
「その、ノーブルさんはどうやって生まれたんですか?ご両親は?」
「分からぬ」
「分からない?」
「我は”いきなり”この世に現出したからの。きっかけも兆候もなく気付いたら我はこの世界にいた。そしてすぐに知った。我はこの世界の誰とも違う存在だということを。カートらは死者の日に静寂の谷に赴いて先祖に祈りを捧げるのであろう?」
「そうですね」
「単身であることを寂しいと思ったことはないが、受け継がれていくものがあるということには憧れるがの」
声が少し、ほんの少しだけ湿りを帯びる。
「ノーブルさん」
「話が反れてしまったの。話を戻すと不老の我は多くのヒトの死を見てきた。そして、自然と死は二つのうちのどちらかではないかと思うようになった。
一つは純然たる虚無に帰することを意味し、死者は何れの感覚を持たない。
もう一つはこの世界から別の世界へ何かの移転である。
前の説を信じるのであれば、カートの言う消えるということだろうし、後の説を信じるのであればこの街で信じられている何処かに旅立つということだろう。カートは『九相図』というものを知っておるかの?」
「九相図、ですか。聞いたことないですね」
「まあ、あれは刺激が強過ぎるからの。フレッドが禁止したのも分かる。昔、大変仲睦まじい夫婦がおっての。何をするにも二人一緒にしておったのだが、妻が病気でデラシネとなってしまった。デラシネとなった者は静寂の谷に入ることは許されずに街はずれにある墓地にまとめて埋葬されることになっておるが、夫は何を思ったのか家のすぐ横に寝台を設けて妻の死体を寝かせおった。そして、来る日も来る日も妻の死体を描き続けて、家の前に絵を展示しておった」
「その人は何でそんな事を?」
「分からん。多くの人が理由を尋ねたが、男は何も言わずにただ描き続けた。妻だったものの体が変化していく様をな」
「女の人の体はどうなっていったんですか?」
「大まかに八つの段階を経たと言われている。
一段階。死体が腐敗していき、膨張し始める。
二段階。死体の腐乱が進み、皮膚が破れて壊れ始める。
三段階。死体の腐敗による損壊がさらに進み、溶解した脂肪、血液、体液が体外にしみ出す。
四段階。死体自体が腐敗により溶解する。
五段階。死体が青黒くなる。
六段階。死体に虫がわき、鳥獣に食い荒らされる。
七段階。死体の部位が散乱する。
八段階。血肉や皮膚がなくなり骨だけになる」
「愛した人が朽ちていくのをずっと描き続けたんですか?」
「そう。その様子はまるで何かに取りつかれているかのように鬼気迫るものだったらしいがの」
「男の人は愛した人が骨になってしまった後はどうしたんですか?」
「自ら命を絶った」
「そんな……」
「そして人が朽ちていく様を描いた絵だけが残されて、いつからか九相図と呼ばれるようになった」
「八相図じゃないんですか?」
「男が描いたのは骨になるまでだが、誰かが焼かれて灰になる過程を加えて人が朽ちていく九段階を描いた図、九相図と呼ばれるようになった。この九相図は人々に二つの反応を引き起こした。一つは無視する者、もう一つは強く惹かれる者。そして強く惹かれる者の中には様子がおかしくなる者もいた。九相図の影響を重く見た八代目領主フレッド・フェニックスは九相図を押収し、以降描くことを禁止した。だからカートが知らぬのみ無理はないがの。我はことの成り行きを見守っていて強く興味を惹かれたことがある」
「何で男の人は愛した人が朽ちていく絵を書いたのか、ですか?」
「それもあるが、我が強く興味を惹かれたのは、それを見た人々の反応じゃ。無視した者も惹かれた者も強い影響力を持つ物という点では一致しているように見えた」
「強い影響力を持つがゆえに無視していたと」
「そう。無視と言ってもただ見なかったわけじゃない。意識的に見ないようにしているように見えた。排除を求める者までいた。我にはその強い反応が不思議でしょうがなかった。我も男の描いた九相図を見たが、只の絵としか思えなかった。特に技巧に秀でたとは思えないあまたの点の集まり。夫婦の知り合いならあの絵が特別な感情をわき起こすのも分かる。ただ、あの絵は夫婦と知り合いじゃないものの感情も強く揺り動かした。カートには何故か想像がつくかの?」
僕は想像する。いつか必ず訪れる死とその先を。僕だったものは膨張し、腐乱し、損壊し、溶解する。それが死か、それとも死がもたらすものか?
「語りかけてくるんじゃないですか?お前もこうなるんだぞ、と」
「ニルヴァーナに旅立つと信じているのならば、体はどうなろうと関係ない気がするが、そうは思わないのかの?」
「ノーブルさんがさっき言ってたじゃないですか。僕たちは死んだことがないし、死んだ人と話したこともないって。街の人たちもニルヴァーナに行ったことはないし、ニルヴァーナに行ったことがある人と話したこともない。だから、心のどこかでは不安があると思うんです。”ニルヴァーナ”は本当にあるのかな?って。その不安を抱えている人が九相図を見たら絵が語りかけてくるんじゃないですか?お前が信じているものが実際にあるかどうかは知らないが、お前だったものがこうなるのは確実だからなって」
「なるほど。見ないように気付かないようにしていた不安を直撃しているわけか。つまりじゃ、どちらの説、虚無なのか旅立ちなのか、いづれを信じていようとも確証はないわけじゃ。事前に体験することは出来ないわけじゃからな。確証がないからこそ不安が生まれる。自分が信じている説は正しいんだろうかと。ここまでの考えをまとめよう。”死”が何かを我たちは事前に知ることは出来ない。知らないながらも推測すると死は虚無なのか旅立ちかのいづれかである。ただし、いづれの説を取っても確証を得ることは出来ないから正しいのかという不安が生まれることがある。こんなところかの」
「そうですね」
「で、じゃ」ノーブルさんが真っ直ぐに見つめてくる。「ここからが本題じゃ。死が虚無か、旅立ちか、それとも別の何かだったとして、どうしてそれが重要なのかの?」
「どうしてって……」
「死が何かだったとして、それが分かれば何か変わるのかの?」
死がニルヴァーナだったとしたら、僕はどうする?死が虚無だったとしたら、僕はどうする?死が旅立ちでも虚無でもなかったら僕はどうする?
「……僕は何で、死について考えているんでしょうか?」
僕が死について考えるきっかけ。それは父様の死だ。でも……。ノーブルさんはじっと僕を見つめている。
「父様の死といつか訪れるであろう僕の死は同じものなんでしょうか?」
「かつて、我に言った者がおった。死は三種類だと。自分の死、親しい者の死、知らぬ者の死。そして意味があるのは親しい者の死だけだと」
「……父様は何で死んでしまったんでしょうか?僕と母様を残して」
「分からぬ。もしかしたら、ドナルド自身もはっきりとした理由は分かっていなかったのかもしれぬ」
「僕は、僕のせいだったんでしょうか?」
気付けば涙が溢れていた。
「カート」ノーブルさんに抱きしめられる。「自分を責めてはならぬ。ドナルドの死は誰のせいでもない。ドナルドもこんな可愛い息子を残して死にたかったわけではないと思う」
「本当、でしょうか?」
「勿論じゃ。ただ、”何か”に追い詰められて誤った選択をしてしまっただけじゃ。決して、死にたかったわけではない。我はそう思う」
ノーブルさんから体を離して涙を拭う。
「ありがとうございます。僕も、そう思います」
「うむ。あまり遅くなると家の人が心配するだろうから、今日はここまでにするかの」
「ハイ」
「何か話したいことがあったら、いつでも来るといい。話しを聞くだけで何か気のきいたことを言ってやる事は出来んがの」
「いえ、話しを聞いてくれてありがとうございます。気が、楽になりました」
軽くなった気持ちと足取りで館をあとにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます