第12話 彼女の名前
軍の訓練は相当疲れるし、体力が必要。本番はいつだって命がけだから、訓練で怪我をすることなんて日常茶飯事。
今日の訓練は、ウォーミングアップが足りていなかったのか、着地の時の足の位置が上手くいかなかった。訓練後、足を引きずりながら『医務室』に向かった。
向かう途中、あまり好いていない同じ歳の中佐とばったり会ってしまった。確か名前は、イ・テヒョン。彼も怪我をしているのか、腕から血が出ていた。
彼は、すごく幼稚だ。初めて会ったときは、自分も若い中佐だと言うことを自慢しに来たし、今だってそう。自分が先輩だとか何とか言って、先に医務室に入ろうとした。いつもなら無視するけど、今回は黙ってられなかった。
「俺が先に入る」
「おい!待てよ」
医務室の白いドアを開けると、俺は椅子に座っていた白衣を着た女性が目に入った。
彼女だ。
あの日、一目惚れをした女性、ホームレスに駅で食べ物を与えていた女性。僕にとって、出会ったことのないような美しさを持った彼女。
「…」
彼女は、あいつと仲が良いのか、知り合いなのか親しそうに話していて、僕に目もくれなかった。
「そちらの方はどちら…え、」
やっと、僕に視線を向けたあなたは、顔を向けた途端に顔色を変えた。
そして、一歩一歩ゆっくり近づいて来ては、こう言った。
「ソヌ…?」
「え?」
知り合いにでも会ったかのように驚いていたあなたは、僕を『ソヌ』と呼んだ。
「…ご、ごめんなさい。あなた、名前は?」
「中佐のチャ・ジフと申します」
「そうですか。手当するので、座ってください」
部屋に大きなソファのようなところに座った。
僕は戸惑った。ずっと会いたかったあなたは、僕を見て悲しそうな顔をしていた。ソヌとは誰なのか、気になったけれど、そんな顔をされては、聞きたいことを聞く気になれなかった。
彼女は度々、僕の顔を見ては、視線を反らし、動揺していた。僕の足を手当てするため、しゃがみ込んだ。
座っているここからは、しゃがみ込む彼女の顔が見下ろせる。長く伸びたまつ毛、透き通ったような白い肌、この世の人だとは思えないほど、魅力的だ。
「あの、先生の名前は?」
彼女のことを知りたかった。けれど、白衣の胸の部分には名札がなかった。
「名前…」
少し困った顔をする。名前を聴くのは普通のことだと思っていたけど…
「イ・ユナ」
僕は、あいつの方を見た。
「なんでお前が答えるんだ?」
「え?いや、その、世話になってる先生だから俺が答えてやった。悪いか?」
「僕は先生から聞きたかったんだ。…ここで働いてたんですね」
「ん?前に会ったことでもあるのか?」
初めてユナさんを見た日、僕は恋をしたから。しっかり覚えている。
「私を見たことが?」
「はい。勤務初日、駅であなたを見かけました。駅のホームレスに食べ物を分けていたこと、覚えてませんか?」
すると彼女は、険しい顔をして、
「…人違いですね、きっと」
「あなたでした。よく覚えています」
そんなはずがない。僕はしっかりと覚えているのだから。あなたのような美しい人を、見たことがないから。
「違うって言ってるんだから、違うんだよ。お前が見た人は先生じゃない」
「お前には関係ない」
「何だよ、無愛想なやつ」
「…用が済んだら、戻った方がいいのでは?私は仕事があるの」
何か悪いことでも言ってしまったのか。僕は彼女のその言葉で、一旦部屋を出ることにした。
「長居しすぎましたね。僕はこれで。じゃあ、また」
医務室から出て行った。
名前を聞いただけなのに、見かけたことがあると言っただけなのに。彼女は予想外の表情と反応をするから、考えが全く読めなかった。
「イ・ユナさん、か」
僕は、仕事に戻った。
彼女をそれから基地で見かけることはあまりなかった。もちろん彼女は医務室の先生。頻繁に外を出歩いているわけではない。
何度か医務室の前を通りかかっても、彼女はいなかった。
「あの、ユナ先生は?」
「…ユナ先生?誰ですか?」
「え?女性の先生です。黒髪の」
「…ここにそんな先生いらっしゃらないよ」
医務室から出てきた、めがねを掛けた明らかに医者って感じの人に尋ねた。
「…そうですか」
彼の返答には少し戸惑った。
たまたま近くを歩いているテヒョン中佐を見かけた僕は、彼に聞くのが一番早いと思い、その場は切り上げ彼の後を追った。
「おい!」
食堂へ入っていく彼を引き留めた。
「なんだよ」
相変わらず、いけ好かない奴だ。
「ユナ先生は?」
「…何で俺に聞くんだよ」
「さっき医務室の医者が、そんな人はいないって。どういうことだよ」
彼は少し困った顔をした。少し食堂を見回し、今度は、ハッとした顔で
「あそこにいるだろ」
指さす方には、テーブルに頬杖をして、食堂にいる人たちをじっと見つめる彼女がいた。
「あぁ、サンキュー」
「お前さ、」
彼女の方へ向かおうとする僕を今度は、彼が止めた。
「お前、なんでそんなにあいつのこと気にすんの?」
「関係ないだろ」
質問を無視して、また先生の方へ向かおうとすると、
「好きなの?」
彼からのただの冷やかしの質問に思わず足を止めた。
「だったらなんだよ」
彼の方に視線を戻すと、じっとこちらを見ていた。男でも見つめられると少し緊張してしまうような彼の顔。軍人の女性が彼を推しだの、何だの言っている理由は理解できる。
しかし、僕は彼を好かない。いつも偉そうな態度が気に入らないのだ。
「あいつは辞めといた方がいいぞ」
彼は右の口角を上げて、悪そうに笑った。
「お前こそ、なんでそんなこと言うんだ?好きなのか?」
負けじと質問し返すと、
「俺には婚約者がいるんでね」
「だったら、俺に口出す必要は無いな」
「あ!ちょっと、待てよ」
彼を今度こそ無視して、彼女が座るテーブルの椅子に座る。隣に座るも、彼女は僕に気がついていないのか、どこかを見ていた。
視線の先には、他の人と楽しそうに笑っているテヒョンがいた。入ってきたばかりだが、テヒョンという男は、後輩や同期にすごく慕われているようだ。
「ユナ先生…」
声を掛けるも、視線はまだ彼を捉えて、僕の方に振り向いてはくれなかった。
彼女の肩をトントンと叩くと、やっと僕に視線を向けた。
「あぁ、ソ…ジフさん」
「ここ、座っても良いですか?」
「どうぞ」
食堂なのに先生の前には、何も食べ物が置かれていなかった。今日のメニューは唐揚げなのに。
「何か食べないんですか?」
「あ、はい」
「持ってきましょうか?食べないと元気つきませんよ?」
「いえ、結構ですよ」
「そうですか」
彼女の冷たい態度に、心がぎゅっとなる。
「優しいですね」
「え?」
彼女の言葉に一気に、高ぶった。こんなに感情が忙しいのは初めてだ。
「あなた、もしかして絵を描くのは好きですか?」
突拍子のない質問だけど、彼女が自分に興味を持ってくれたのがまた嬉しかった。
「はい!描くのが好きです」
僕の趣味は、絵を描くことだった。
「ふっ、そうですか」
表情を柔らかくし、少し笑ってくれた。
「もしかして、先生も?」
「私はあまり。でも、友人の描いた絵を見るのは好きでした」
「そうなんですね」
「ボナ先生」
すると、あの男が僕たちの間に割り込んできた。またイ・テヒョンだ。
「…ボナ先生?」
テヒョンは、ユナ先生に向かって『ボナ』と呼んだ。その名前に彼女は反応した。さっきの僕の時とは大違いだ。
「なぜボナ?」
彼に聞くと、
「えっ」
彼を疑いの目で見つめた。
「…彼女の名前はボナだけど?」
「この前ユナ先生だって言ったろ?君が」
「何言ってんだよ。ボナだよ!お前が、その、聞き間違えただけだろ」
「そうなんですか?」
こいつは言ってることがいい加減だから。彼女に聞くと、
「えっと、そうです。ボナです、名前」
「そうなんですね。だからさっきは、名前を呼んでも気づかなかったんですね」
あんなに至近距離で名前を呼んだのに、彼女は見向きもしなかった理由がわかった。それにしても、前に聞いた時は、ユナだとはっきり聞こえたのに。
「なんでお前が来たんだ?」
突然、割り込んできた彼を睨み付けた。
「無愛想な男に絡まれてると思って、俺が助けに来たんだよ、先生を」
「はぁ、」
僕は大きなため息をついた。
「僕は失礼しますね」
「じゃあなー」
彼がいてはまともに会話なんて出来ない。呆れた俺は、他の席に移った。
――――――彼女の名前は『ボナ』
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