2.
お母さんの住んでいた村は、ずっとずっと遠いところにあった。
砂漠を越えて、山を越えて、いくつもの国を越えて最後には海を渡らないと着かないような遠い遠いところだった。
わたしたちは一年以上、たくさんの時間をかけてお母さんの村まで辿り着いた。お母さんの村に着く前の日の夜、わたしたちを迎えに来てくれたシスターはわたしに少しだけお母さんのことを話してくれた。
――君のお母さんは、わたしたちにとって尊敬に値する人だった。君がこの先どのような道を歩むかわからないけれど、願わくばその道程に女神の祝福があらんことを。
そう言って聖印を切ると、シスターはわたしの身体を抱きしめてくれた。
お母さんの故郷に着いたわたしたちを、村の人たちは戸惑いながらも受け入れてくれた。
けれど、わたしの心はお母さんが死んでしまったあの日からずっと止まってしまっていた。自分の中にぽっかり穴が空いてしまったみたいで、何をしても楽しくないし、何も感じないのだ。
心配してくれた子供たちが話しかけてくれたけど、わたしにとってはそれがとても怖かった。楽しそうに笑っている子供たちに住んでいた村のみんなと重ねてしまい、気がつけばわたしはその場から逃げだしていた。
子供たちはそれからも何度かわたしのことを遊びに誘ってくれた。だけどわたしはそれが怖くて苦しくて、ついには家を抜け出して隠れるようになった。誰もいないところを探しているうちに、わたしは村はずれにある森の泉を見つけた。
そこはとても静かで不思議な場所だった。
聞こえるのは風で木の葉が揺れる音と鳥の鳴き声くらいで、わたしは森をぼんやりと眺めながら一日を過ごすようになった。
誰もいない森の中で、思いだすのは決まってお母さんのことばかりだ。
わたしの手を引いてくれた手のひらの温もり。泣いてるわたしを困ったように見つめながら、頭をなでてくれた時の笑顔。
そして、わたしを守るために鉾槍の男と戦って、傷つき倒れた最後の姿。
どんなに泣いても、どんなに名前を呼んでも、お母さんはもう戻ってこない。
そのことがどうしても受け入れられなくて、わたしはあふれる涙をぬぐうことさえも忘れ、ただ膝を抱えてうずくまることしかできなかった。
そんな風に過ごしていたある日、泉のほとりに一人の男の子がやって来た。
わたしが逃げようとすると、男の子はあわてた様子でわたしのことを呼びとめた。
両手を振りながら誰にも言わないと必死で話す目の前の男の子が、この村にやって来たときに少しだけ目が合った男の子だとわたしは思いだしていた。
ロットと名乗ったその男の子は、黙ったままのわたしに無理に何かを聞こうとはしなかった。少し離れたところで退屈そうにしながらも、わたしのことをじっと見守ってくれている。
あんなに村の子供たちが怖いと思っていたはずなのに、不思議とその男の子が隣にいるのは嫌じゃなかった。
そうしているうちに少しずつ心が落ちついてきて、わたしはいつの間にか周りの景色に目を向けられるようになっていた。今まで気にしてなかった緑でいっぱいの木や水辺に咲いている白くて小さな花は、砂漠生まれのわたしにはとても新鮮に映って見えた。
木の間を飛んでいる小鳥を目で追いかけていると、ロット君はそんなに野鳥がめずらしいのかと聞いてきた。わたしがうなずきながら質問すると、鳥の名前やどんな風に暮らしているのかをとてもたくさん話してくれた。
ロット君はとても物知りで、わたしの知らないことを何でもよく知っていた。ロット君が教えてくれる話がもっと聞きたくなって、わたしはあれこれと質問を繰り返した。
そうしているうちに、いつの間にかすっかり日が沈んでしまっていた。こんなに早く時間が過ぎたのは、ここに来てからはじめてのことだ。そろそろ村へ戻ろうというロット君の言葉に、わたしの胸がちくりと痛む。
もっともっと、ロット君に色んな話を聞いてみたい。そんなことを考えながら歩くわたしに振り返ると、ロット君はちょっと照れくさそうな顔をしながら、またこうして話そうと言ってくれた。
わたしはロット君の言葉にこくりとうなずき、それから森に向かうことが少しだけ楽しみになった。
ロット君は本当に色んなことを話してくれた。森の動物や植物のこと。村での暮らし。昔ばなしや星の話。そして、自分自身のこと。
彼の将来の夢は魔術師になることなのだという。いずれは大陸に渡って、たくさんの魔術師が集まる学校に通うのだと楽しそうに話すロット君の横顔は、わたしとほとんど変わらないはずなのにすごく大人っぽく見えた。
今まで将来のことなんて考えたことがないとわたしが言うと、ロット君はこれから先にやりたいことがきっと見つかるはずだと優しく励ましてくれた。
それからお昼になって、ロット君はお家から持ってきたパンをわたしに半分わけてくれた。その頃のわたしは何を食べてもまるで味がしなくて、食事をするのが嫌で嫌でたまらなかった。
断っても譲ろうとしないロット君に根負けしてパンを食べてみたけれど、やっぱり砂を食べてるみたいでちっともおいしいとは感じられなかった。
食べたくないとわたしがうつむいていると、ロット君は呆れたように笑いながら小さな妹さんの話をしてくれた。
シロップのついたパンじゃないと食べてくれないんだと笑うロット君の様子に、わたしは自分がからかわれているのだと気がついた。
いつになくいじわるな彼にむっとそっぽを向きながら、わたしは目の前のパンにもう一度かぶりつく。
そうすると砂の味しかしなかったパンから、ほんの少しだけ小麦のいい匂いがしたような気がした。
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