本能寺炎上編(天正4年~)
243. 春の嵐は予告なく
時は天正、季節は春。
我が娘のように愛らしい藤の花が咲き綻ぶ頃、俺はご機嫌で田植え唄を歌っていた。
皐月は五月晴れというが、
しかし秋にはたわわに実った金色の原になるのだ。
すっかり慣れた手つきで、塊からちぎった数本を泥に沈める。ずぽっと足を引き抜いて後退し、また数本を沈める。この繰り返しだ。単調な作業に見えるが、案外難しい。土中の栄養が全体に行き渡るように何度もこねくり回したので、自然発生する泥濘よりも粘度が高いのだ。
この泥がひ弱な苗をしっかり受け止め、根付かせる。
田んぼの苗がまばらだったのは栄養が足りないせいもあるが、せっせと植えた苗が水に流されてしまうからだ。種籾もタダじゃない。苗まで育てるのにも時間がかかる。それだけの労力を無に帰すなんて勿体ない。
それは人として、当然の心理だと思う。
俺が育てたコメを、俺の家族が美味しいと言ってくれる喜びは何物にも代えがたい。この田んぼは俺の原点だ。乾いてひび割れた土に水と栄養を与え、柔らかくほぐし、黄金の原を育むだけの土壌にまで成長した。
生意気な口を叩くようになった子らと違って、手塩にかけた分だけ応えてくれる。
ふっくらと炊いた白い粒を箸に乗せ、その年の新米を口に運ぶ。それだけで全てが報われた心地になる。自然にこぼれる「美味しい」と言う声が、疲れた心を癒してくれる。
半年後の俺のために、今の俺が田植え唄を歌っている。
「ノブさん、精が出るねえ」
「いい天気だなあ」
近所のおっちゃんたちがニコニコと話しかけてくれる。
最初のうちは遠慮がちだったが、今では通りすがりに雑談する仲だ。お互いに泥まみれの顔を藍染の手拭いで拭きふき、にやっと歯を見せ合う。
これだよ、これ。生前に流行ったスローライフってやつ!
のんびり農業やりつつ、ご近所さんとほのぼの会話、大自然に寄り添った生活。同じ手拭いを持っているのも、なんか連帯感があっていいよな。領内の村々には、戸籍登録してくれたお礼に手拭いを配っている。藍の発色にこだわり過ぎたせいで気後れするらしく、奥へ仕舞む者が多いと聞いていた。遠慮なく使い潰してくれるのが一番うれしい。
「おう。今年の苗はよく根が伸びているから、秋が楽しみだ」
「秋かあ。今年の祭りも賑やかなんだろなあ」
「当然だ。春祭りも盛大にやるぞ」
「おお、ノブさんがそう言ってくれるなら間違いねえ」
「皆に知らせてくらぁ」
おっちゃんたちが村へ走っていく。
いや、祭りは毎年やってるじゃん。
呆然と見送ったものの、期待されると張り切ってしまうのが俺の悪い癖。既に大半の準備が終わっているところに何をねじ込むか。サプライズでも面白そうだ、と田植えしながら考え込む。皆が笑って暮らせる世をつくる、などと宣言した若い頃。
誰に言われなくても、夢物語だと分かっていた。
それでも苦しむ民が一人でも減るなら、俺が生きた証はある……なんて。振り返ってみると、悲劇の主人公みたいな酔い方をしていて恥ずかしくなる。
俺一人ができることなんて、たかが知れている。
それでも俺は、やり遂げたのだ。
痛む腰を叩きつつ体を起こせば、長方形に区切られた水田に愛らしい苗が整然と並んでいる。朝早くから始めて、まだ太陽は一番高いところまで昇りきっていない。数回に一回は転倒し、苗を踏みつぶして泥まみれになった無様な自分は、もはや遠い過去の姿。
「ふう……っ、我ながら見事な田植えだな!」
ひと段落したので、近くの水路に入って泥を流す。
いつの間にか泥まみれになっていた手拭いも洗ってしまおう。汚れたままで持ち帰ると、問答無用で奪われるからな。愛用品というのは長く使ってこそだ。
「おっ魚」
きらりと光った背びれは、あっという間に見えなくなった。
溜め池から逃げ出したやつだろうか。ここの水路はかなり初期に作ったもので、わっさわさに茂った水草が足首をやさしく撫でる。
海藻は食えるが、水草は食べたことないな。
好奇心が囁くままに手を伸ばしかけた、その時。
「見つけましたよ、父上!!」
「げ」
見事な葦毛の馬を駆り、土埃とともに接近する若武者。
こっちは髷も歪んで、袖や裾をまくった着物や顔は泥はねだらけ。何故かつるんとしている両足は水につかったままで、洗ったばかりの手拭いをぎゅっと絞って肩にひっかける。
「城にいないと思ったら……どうして、こんなところにおられるんですかっ」
妻によく似た顔で怒られても嬉しいだけなのだが。
ぎゃんぎゃん煩いところは乳兄弟を思い出させるので、少し面白くない。
「恒興に似てきたな、お前」
「誰のせいだと……!」
「今日は晴れると分かっていたからな。田植えしていた。見ろ、この美しい仕事ぶりを」
「父上の仕事は城での政務であって、農業ではありません!」
「わし、隠居したもん。実務の大半は委譲したもん」
ぷいっと横を向く。イラッとする気配を察したが無視だ。
オッス! 俺、ノブナガ。長男・信忠に家督を譲って一月ほど、未だに「上様」と呼ばれ続けている織田上総介信長とは、俺のことだ。
「いいから帰りますよ!!」
キレた息子の声がして、俺は空を飛んだ。
久しぶりのアイキャンフライ。
どこのマッチョかと思ったら、森さんちの次男坊だった。信忠の家督相続に合わせて、森家の当主になった新進気鋭の若武者だ。父と兄が存命なのにいいのかと思ったが、それでいいらしい。槍術が得意で、戦場においては十数人をまとめて挽き殺した実績を持つ。馬で轢いたんじゃなくて、大身の十字槍でやらかした。森家ヤバいコワい。
だから俺の一人や二人をぶん投げることくらい造作もない。
いや、おかしいよね? 隠居したとはいえ、織田家の元当主ぞ?
「アッ――!」
つかの間の空中遊泳、からの尻から着地。
脳天まで貫く、懐かしい衝撃。あっ、なんか色々思い出しそう。だが迷惑そうにチラ見してきたお馬様の視線で大半忘れた。そういうこともあるよね。
「すみません、ひらにすみません。本当にすみません」
「三左ァ! 落とすなよ、ぜったい落とすなよ!」
「ヒャッハァー! 当然だ誰に言ってやがる、鬼武蔵様だぜぇ!!」
「申し訳ありません。ちょっとかなり急いでいるので、ご無礼は承知の上で失礼いたします。乗り心地は最悪でしょうが、ご辛抱いただきたく」
「……である、か」
さすが信忠、我が息子。
こんな辺鄙な村まで側近連中引き連れての登場だった。護衛は必要なのは分かるが、ふつうに過剰戦力だと思う。胃を抑えている信栄には後でよく効く薬を渡すとして、ストッパー要員として採用したはずの元坊主が必死に笑いをこらえているところにツッコミたい。
「ときに利治」
「はい」
「ちょっとかなり急ぐ案件とは?」
それ、俺が必要な案件か。現当主は信忠だぞ。
そりゃあ家督譲る宣言してから間もないから、信長出しやがれと暴れる輩がいることにはいるだろう。それを何とかするのが新当主として、最初のお仕事だと思うのだ。
「
うん、……うん? 誰やそいつ。
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序幕なので、ちょっと短め。
新章、はじまるよ……!
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