241. 羽林大将軍
岐阜城に帰還した俺を待っていたのは、青く燃える瞳の官兵衛だった。
「見ろ。これが貴様の甘さだ」
そう言って、ばさばさと無造作に積み上げられる書状の山。
いつもなら無礼者と怒鳴る奴が一人や二人は出てくるのだが、既に大まかな情報は得ていたのだろう。青ざめる俺と似たり寄ったりの顔が並んでいる。
それらを一瞥し、官兵衛は鼻で笑った。
「反織田の旗印を掲げているのは上杉だけではない。西国の毛利輝元の呼びかけを受け、山陰勢と四国で同調する動きがある。上杉謙信には能登畠山、丹波国の波多野秀治、関東の北条氏政。紀州の雑賀衆は既に根来衆との睨み合いが始まっている。飛騨国の姉小路頼綱は立場を明らかにしていないが、警戒しておくに越したことはない」
書状を一つずつ手に取り、主要な名前と状況を頭に叩き込んでいく。
あの戦狂いの軍神が織田包囲網を前々から仕込んでいた、とは考えにくい。そういう仕込みが得意だったのは信玄の方で、謙信は戦場でこそ真価を発揮するタイプだ。ほとんどの戦は始まる前に勝敗が決まる、と言ってもいい。どれだけ念入りに準備を重ね、情報を集めて精査し、状況を把握できているかで結果が変わる。
だが、戦は生き物だ。
ほんの小さなきっかけで、思わぬ展開が起きることもある。些細な変化に気付き、即座に対応できるのが軍神と呼ばれる所以だと思っている。要するに奴は戦場限定で、空気を読むのが上手い。
(だから戦いたくなかったんだ)
秘蔵の酒一つじゃ足りなかった、ということか。
武田と和議を結んだことは単なる切っ掛けにすぎないだろう。上杉家臣で頭のキレる奴がいて、俺が断れない状況を見越した上で準備していたとも考えられる。もとより北条家は、相良油田に興味津々だ。氏真が
「波多野は、上杉かどこかと繋がりがあったか?」
「松永だ」
「はン?」
「貴様が爆弾正と呼んでいる男が裏で動いている」
またお前か。
思わず半眼になってしまった。
乱世の梟雄の名は伊達じゃあない。後世へ悪名轟かせるのが野望だと言わんばかりに、喜んで泥を被ろうとする。どうせ今回もそんな感じだろう。官兵衛は、俺に対する裏切りだと思っているようだが、それこそが奴の狙いだから仕方ない。
そういう男なのだ。あの松永久秀というド阿呆は。
「恒興、爆弾正はどこにいる」
「信貴山城です。
「うむ」
松井有閑は将軍家に仕えていた頃に、爆弾正と交流があった。
今では織田家の右筆の一人として重宝しているが、堺の津田宗及をはじめとする茶人とも仲がいい。細川様や光秀に任せるよりも上手くやってくれるだろう。もし俺の予想通りなら、有閑に無駄足を踏ませてしまうかもしれないが。
「根来衆は下手に手を貸すと怒るから、信雄に指揮権を渡しておく。もともと雑賀と根来は仲が悪かったしな。紀伊半島は、三十郎と相談するとして――…」
厄介なのは西国方面だ。
まさかの輝元くん登場に、毛利側の狙いが全く読めない。毛利側へ同調した四国勢に、長曾我部元親の名が入っていないことを祈るばかりだ。官兵衛が怒っているのは、阿波へ逃げ込んだ三好残党を放置していたことだろう。根絶やしにしておけば復活することもなかったという主張は理解できる。だが完全殲滅したところで「後片付け」するのは俺たちだ。
あの当時、阿波国まで抱え込む余裕はなかった。
三好長慶の子・義継は出家したので三好家は事実上なくなった。担ぐ神輿がなくなっても織田に刃向かおうとする気概は、ただの逆恨みだろうか。もし同盟を結ぶ予定の元親に対する牽制だとするなら、こっちを優先すべきだ。
(サツマイモのためには、九州への足がかりが必要なんだ。下手すると、まだ本土上陸を果たしていない可能性もある。琉球か、その先まで行ける船は鉄甲船しかない)
九鬼水軍と信興ならできる、という信頼もある。
だが寄港できる拠点があるのと、ないのとでは安定した航海に大きな差がある。何よりも不安すぎて俺が眠れない。父上の顔が怖い、ってお藤や永姫に拒絶されたら俺は死ぬ。
「朝廷から再度、官位を授ける話がきている」
「だがことわ」
「幕府なき今、日ノ本を支えているのは織田家だ。貴様はいつまで腑抜けているつもりだ。相応しい地位がないから、有象無象が余計なことを考える。天下布武を掲げ、民の平穏を願いながら、更なる火種を増やすのが貴様のやり方か」
俺は薄く笑った。
「分かった。隠居する」
「ほう?」
「昔からよく言われた。何でも一人で抱え込みすぎる、と。俺にできないことはあまりにも多いから、何でも丸投げしてきたが…………それじゃあ足りないってことだよな。だったら、俺をもう一人増やせばいい」
ようやく覚悟を決めたか。
鉄面皮のような顔が、そんな台詞を吐いたように見えた。こいつは今まで会った軍師たちと毛色が違う。俺のことを過大評価せず、おかしな勘違いもしない。それでいて俺が決断するのを、ずっと待っていた気がする。
「家督を信忠に譲り、織田家の権限の大半を奴に与える」
「おそれながら、若様にはまだ早いのでは?」
「権限を渡すだけで家を潰すような当主なら、下剋上でも何でもしろ」
そう言い放てば、何故か秀吉に視線が集中した。
涙目で首を振っている猿には悪いが、広く周知されてしまった噂をなかったことにはできない。いつか秀吉にも、俺と同じように覚悟を決める日が来る。
「まあ、そうだな。可愛い息子の首を狙うなら、まず俺が相手になってやろう」
「楽しそうですな」
「当然だろう、半介。念願の隠居生活だからな。これで自由に動ける」
ニヤニヤ笑いに色々察した成政が、頭を抱えて呻いた。
「この馬鹿殿、若様に責任を負わせて好き放題する気だ……」
「今までとどう違うんだ?」
「どう考えても大違いだろうが、馬鹿犬」
「分かんねえから聞いてんだろが、松ぼっくり!」
「あぁ!?」
「やめんか!!」
怒号と打突音を聞き流し、俺はこれからのことに想いを馳せた。
朝廷からの命令を二度も断るわけにはいかないので、今度こそ受けることになるだろう。いよいよお公家様に片足突っ込むことになりそうだ。俺の予想が正しければ、征夷大将軍の代わりになりそうな地位を与えられる。
「恒興、越前・加賀にいる奴らへ使いを出せ。軍団の再編を行う」
「はっ」
「蘭丸。桜が咲く頃に家督移譲の儀を行うと、信忠に伝えろ。若いのの選抜は任せる。将来有望なら、元服していなくてもかまわん」
「すぐに伝えてまいります!」
「お濃、聞いていたな」
「ええ」
後方の扉が開き、帰蝶が姿を見せる。
永姫がいないのは乳母に預けているからだろう。ちょっと残念に思ったが、最近はお藤も子供同士で遊ぶのが楽しいらしくて姿が見えない。帰蝶がこうして別室に控えているのは公然の秘密になっていたが、まだ知らなかったらしい官兵衛が目を見開いている。
「今回は長期戦になる。……頼むぞ」
「はい、あなた」
たぶん、これが最後の戦いだ。
今までとは規模が大きく違うし、領土を奪い合うだけでは済まない。東西の雄が「屈服させてみろ」と笑っている気がする。武力で認めさせなければ従わないと、暗に告げている。
朝廷としても、この状況は喜ばしくない。
俺に何らかの地位を与え、何とかしろと発破をかけたいところか。
(この時代は本当に、面倒臭い)
殴り合って、どっちが強いのかを明確に示さないと、お互いの気が済まない。
上がそんな奴ばかりだから、民もそんな感じになってしまう。戦いたくないと言えば腑抜けと罵られ、トドメをささなければ甘いと叱られるくせに、徹底的な戦を繰り返せば残虐と畏れられる。とんでもない時代だ。
そんな俺の、信長の「夢」はまだ終わらない。
**********
各地に散った側近たちが一堂に揃うまでに、なんと一ヶ月を必要とした。
もうすぐ雪解けだ。
進軍するのに季節を問わない越後の兵は、まだ動く気配を見せていない。加賀国が落ち着くまで待ってくれるつもりなのか、着々と軍備を整えている最中なのかは分からない。確かに言えるのは、上杉軍が他の軍勢と連携をとらないだろう、という一点のみだ。
(まあ、それだけでも十分すぎるが)
東西からまとめてこられたら、さすがにヤバイ。
もっとヤバイのは俺宛てに届いた書状の山を読んでからというもの、すこぶる上機嫌な信忠である。織田家次期当主様が戦狂いだったなんていう話、聞いてねえぞ。
そして俺は権大納言、右近衛大将に昇任した。
色々飛び越えている気がするのは今更か。
2月の上洛で信忠も連れていって、秋田城介を名乗ることを認めさせた。勝手に名乗ってもいいんだが、朝廷に話を通しておくのがミソである。出羽国の最上義光には事後報告するらしい。いつの間にか鮭様と文をやり取りする仲になっていた。さすがは俺の息子。
どうやら東北はまだ、一強でまとまっているわけではない。
だから上杉も北条も、西へ進路を向けることができる。見方を変えれば、東北で無視できないくらいのゴタゴタが起きれば俺たちに構っていられなくなるということだ。
(で、そういう作戦を始めちまうと、なし崩し的に織田家による天下統一しなきゃならなくなるわけだなー。あー、やりたくねー。腑抜け上等だコラ)
軍事面での最高位は右近衛大将。宮中を守る右近衛府の長官で、武官で一番偉い。朝廷が室町幕府の代わりは織田家である、と正式に認めたことになる。
ぶっちゃけ、このまま織田幕府ひらけるって。
ヤラナイカ? やりません。断固拒否。
名実ともに朝廷が後ろ盾についてくれたので、権力をかさにきて「全員、平伏せよ」と号令できちゃうのだ。やらんけど。俺に従えって叫んだところで、半分も来てくれないだろうし。そんな無駄なことをしている暇があったら、サツマイモを求めて旅に出たい。
何でも知ってる宣教師に聞いたら、フィリピン辺りで見たことがあるかもしれないような、ないかもしれないようなヒジョーに曖昧で頼りない返答をいただいた。琉球にすら伝来していない事実に愕然とした。当然、薩摩国にも存在していない。薩摩芋なのに。
これは由々しき事態である。
俺、サツマイモ食べずに死ねない。正直言ってそこまで薩摩芋好きってわけでもないが、ここまで入手困難だと思っていなかったからガッカリ感がひどい。薩摩芋の為なら決死の覚悟で九州に渡って、噂の
(どっちにしても太平洋側の港を確保するのに、四国や九州は必要なんだよなあ。海賊船と間違えられたくないが、南蛮船のフリをして向こうの国に借りを作りたくない)
と、うだうだ考えていても仕方ない。
すっかり見慣れたオッサン連中の顔を順繰りに眺めていく。しみじみと感慨にふけってしまうほどに長い付き合いだ。長秀なんかは特に、貫禄が出てきたなあなんて思ってしまう。相変わらず痩せっぽちの俺と違い、どいつも体格がいいから見栄えもする。
中には秀吉みたいに、ちんまいのもいるが。
「――…以上だ。内容に関する質問は、後から受け付ける」
ざわつきだした広間の様子に、ようやく終わったかと内心でぼやく。
多忙を極める側近たちを全て呼び寄せるのだ。軍団の新編成だけなら書面での通知でも事足りるので、織田包囲網と予想しうる各地の状況についての情報共有、それから安土城をはじめとする普請の進行度合などの報告が行われた。
各軍団の編成はそのまま平時でも運用できる。
軍事面での指南役は宿老衆や先手衆に務めさせ、新編成に対応させる。俺の親衛隊や直属部隊の一部も信忠に渡すことになっているので、しばらくは連携のための訓練に専念することになるだろう。
くるくると紙を巻く恒興と目が合う。
「それでは上様、お願いいたします」
「うむ」
誰が上様やねんと叫びたいのをぐっと堪え、鷹揚に頷いてみせた。
幕府じゃないのに、征夷大将軍でもないのに、右大将に任ぜられてからは何故か「上様」と呼ばれるようになった。天下人じゃねえと何度も言ってるのに誰も聞いてくれない。
「まずは美濃・尾張・飛騨の抑えに、信忠」
「はっ」
「利治は信忠の補佐をしつつ、姉小路を説き伏せてくれ」
「お任せください」
「一益は信忠軍団と共に、対武田方面につけ。滝川衆は関東方面へ探りを入れろ。あ、深入りはするなよ?」
「承知」
「畿内は内蔵助と半介に預ける。顕如が大坂に戻ったことで動きがあるかもしれないが、お前たちなら上手くやれるだろう」
「はっ」
「ええ。又左ほど甘くはないと、教えてやりましょう」
「……やりすぎるなよ? 北陸方面は勝家に任せる。馬鹿犬の手綱も預けておく」
「御意」
「十兵衛は、長政たちと共に近畿方面にあたれ。安土のことは五郎左に任せているが、何かあったらフォロー……補佐できるようにしておけ」
「もちろんでございます」
「猿は西だ」
「へ?」
ざっくりすぎて理解できなかったのか、秀吉はぽかんとしている。
「西国の対策を任せると言った」
「わ、わしがですか?!」
「できないとは言わせんぞ。両兵衛と直家もつけてやろう。長曾我部はこっちの味方だが、四国統一にはまだまだ時間がかかる。もし本当に毛利が反織田勢力に回ったのなら、遠慮することはない。尼子衆を率いて(出雲国に)織田の旗を立ててこい」
「ははあっ」
「五郎左は猿の補佐をしてやれ。九州への足掛かりになれば上々だ」
「仰せのままに」
あとは東海道か。
北条家が動くとしても、織田領との接点がない以上は甲斐国か駿河国のどちらかに軍勢を進めてくるだろう。武田勝頼が織田との和議を捨てるなら、それはそれでいい。
「油田は何としても守らねばならないが、さて……」
「父上! 私にお任せください」
「信孝?」
「伊勢・紀伊方面は信包叔父上や三介がおります。あの二人がいると、おれ……じゃなくて私の出番がありません」
「加賀国に、お前たちとよく似た工作兵がいたという報告がある」
ぼそりと呟けば、キリッと凛々しい顔が若干ひきつった。
信包に麦芽飴の大量発注をした経緯から、加賀国の事情を聞いたのだろうとは思う。政務でてんやわんやだった信忠とは違い、伊勢国はまだ先代たちが健在だ。何かと留守がちな信包に代わって信雄・信孝が分担統治している……というのは表向きの話で、ジジイどもにかなり甘やかされているらしい。
長篠の戦いに参加できず、初陣の機会を狙っているのかもしれない。
(あるいは三十郎に感化されたか)
子供時代からインドア派だった信孝のことだ。
油田の護衛より、油田の調査が主な目的のような気がする。劇物だから近づけたくないという本音を飲み込み、まずは家康へ預けることにした。
「無断で実験したら即勘当だからな」
「わ、分かってます!」
こくこくと頷く三男坊に溜息を吐き、俺はひらりと手を振った。
今回は五色の母衣衆に加えて、各親衛隊と馬廻衆もそれぞれ再編する。奥様戦隊こと、側近の奥方衆で構成された医療班を軍団単位で組み込むためだ。信忠につける小姓衆にも医療知識を叩きこむ。こっちはお冬が筆頭になりそうな気もするが、松姫も真似するようになったら大変だ。
看護兵の募集もしているが、あまり芳しくはない。
いくつか誤解もあるようだ。前例のないことに疑問を持つのは当然のことだし、むしろ今までが何でも上手く行きすぎた。どうしたものかと考えていたら、長益と目が合った。にんまりと笑う。
「源五郎」
「嫌です」
「まあまあ、そう言わずに」
「お断りします」
「当主命令」
滅多にやらない伝家の宝刀を抜けば、長益は渋い顔で頷いてくれた。
信興はこれまで通り、九鬼水軍と行動を共にすることになる。目指すは長距離航海だ。軍事方面での鉄甲船運用は控えたい。反織田勢力にアレが導入されると泥沼になるからだ。
長利は甲賀衆と織田の連絡役が定着しつつある。平時は甘味蔵の主として、尾張国のどこかで茶屋を営んでいる。俺はまだ行ったことがないが、ときどき消えるので幻の名店と呼ばれているらしい。店まで神出鬼没とか意味が分からない。
「三郎! 一番大事な誰かを忘れているぞ。おいっ」
「いいか、くれぐれも物資の確認・管理は怠るなよ。各方面の責任者は必ず、俺の所へ報告を上げること。事後報告でも構わんが、嘘を吐いたら権限を剥奪する」
「はっ」
「俺からは以上だ。解散! ……兄貴は、信忠んトコの若い奴らを鍛える役目があるだろ」
「!! うむ、そうだったな。大船に乗ったつもりでいろ」
「お、伯父上……く、首が締まっ――」
ふはははと笑いながら、信忠を引きずっていく信広。
それを慌てて追いかけていく信栄たちを見やり、それから視線を遠くへ投げた。泥船じゃないといいなあって、前にも思った気がする。いつだったか忘れた。
********************
松井家は代々足利将軍家に仕えていたが、13代将軍・義輝の暗殺後に織田家へ仕官。茶道にも造詣が深く、信長が開く茶会ではたびたび茶頭を務めた。
村井貞勝、武井夕庵と並んで織田家の吏僚(役人)トップ3に入る
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