【閑話】 加賀動乱
空から白いものがちらつき始めると、人々はほっと息を吐く。
雪は音を消す。雪が積もれば、風が入ってこなくなる。暗い中で何が起きても、誰も気付かない。春になっても目覚めなくたって、誰も驚かない。雪は大いなる慈悲を以て、何もかもを覆い隠す。
北陸の冬は長い。
凍える北風が吹きすさぶ日も、食べ物を探して外に出なければならない。冬を越すための蓄えは、あってないようなものだ。幼子は春を迎えることができず、誰もが念仏を唱えながら枯れ果てていく。
搾取する者がいなくなり、穏やかに過ごせるのだと思っていた。
法主様がいらっしゃったと聞いて、いよいよ皆は救われるのだと思った。
日を追うごとに期待は失望へ変わり、歓喜の声は怨嗟の嘆きへと変わった。食料を分けてもらうために隣国へ旅立った者はほとんど帰らない。その土地に根付いたのならばいいが、領主に楯突いたとして殺されたのかもしれない。
もはや願うことも、望むこともしない。
どこそこで誰かが死んだと聞いても、涙の一粒も流れない。
無心に石を齧る我が子を、妻がぼんやりと眺めている。髪はぼさぼさ、擦り切れた着物は今にもちぎれそうで、裾から見える足は骨が浮き出ていた。出会った頃は、ほんのりと頬を染める様に見惚れたものだ。戦から命からがら帰ってきた時は、互いの髪がぐしゃぐしゃになっても抱きしめ合った。
囲炉裏に火がつかなくなって久しい。
親子で一塊になって、藁でぐるぐるに囲む。今年は不作だった。来年も同じかもしれない。子供の数は増えたり、減ったりしている。今は一人だが、来年はまた増えるかもしれない。あるいは妻が手にしたそれで、声も上げなくなるのかもしれない。
ごめん、ごめんねと謝ることもしなくなった。
一人でも多く浄土へ送ってやることが、それこそが救いだと思えるようになっていた。
「おっとう」
子供が呼ぶ。妻がびくりと跳ね、たちまち顔を歪めた。
「おっとう、おと」
「音?」
「そと」
小枝よりも細い指が、戸口を示した。
子供が「そと、おと」と繰り返す。あれだけ夢中になっていた石は、ごろりと下に落ちていた。ぱかりと開いた口は赤い。妻がそっと閉じさせて、小さな頭を抱きしめた。
男はのろりと立ち上がる。
どうせ何もすることがないのだ。動かなさ過ぎて体が固まっていたので、戸口へ辿り着くまでに何度も転んでしまった。その背を、妻がぼんやりと見ている。子供は何故か、食い入るように視線を向ける。
だから諦めず、戸口に手をかけた。
雪で閉ざされていたはずのそれは、あっさりと開いた。それどころか、一抱えもあろうかという荷物が無造作に放り出されている。反射的に、全身で覆い被さった。ぎょろぎょろと周囲を睨んで、近くに誰もいないことを確認する。
我ながら驚くほどの俊敏さで、その荷物を抱えて中に駆けこんだ。
「あんた」
妻の声は、久々に聞いた。さっき聞いた、子供の声もいつぶりだったか。
「ああ、ああ」
男はかくかくと頷きながら、包みを解いた。
誰のものか。忘れ物か。どうしてあんなところにと考えている余裕はなかった。これが自分たちに必要な物だと本能的に理解していた。
「なんだ、こりゃ」
出てきたのは木材と、綺麗な石。それから紙切れ一枚。
包みが大きかったのは薪のせいだった。紙切れには何やら書きつけてあるが、男には読めない。かろうじて理解できたのは文字のようなものと、絵のようなものがあるという二点だけだった。
ひょこっと子供が顔を覗かせる。そして顔をしかめた。
「くさい」
紙が臭い。男も嗅いでみて、油の臭いだと気付いた。
薪と油と火打石。これだけあれば、この夜を越すことは可能だ。何本かを掴んで、囲炉裏に突っ込んだ。全部売れば、たくさんの食べ物と交換できると分かっていた。油のしみ込んだ紙は、かなり質がいい。綺麗な石はきっと価値がある。
カチカチ、と音がする。
男は何にも期待しなくなっていた。火打石から出た火花が、あっという間に紙を燃やした。紙から出た炎がめらりと広がり、妻と子供が悲鳴を上げた。
「はは、ははは」
薪がぱち、と爆ぜる。暖かかった。久々の熱だった。
怯えて縮こまっていた二人も、気が付けば囲炉裏の傍に来ていた。惹かれるように炎へ手を伸ばしかけ、びくっと引っ込めるを繰り返している。どこか緩んだ顔の片方が、何やらもごもごさせている。
「おい、何喰ってる」
「ん」
子供は石を喰っていた。
綺麗な石は、炎を受けて金色に輝いている。それを口の中へ入れる神経が分からなかったが、子供はとろけるような顔をしていた。その辺に転がっていた石のような硬い実をガリガリ齧っていたくせに、口の中でコロコロ転がしているようだ。
実に幸せそうな顔だと、思った。
「美味い、のか?」
「ど、どく……だよ。きっと、そうだ」
いつの間にか、妻もコロコロしていた。
「あんたも、ほら」
金色の石を口元に運ばれて、男は素直に口を開けた。
ころりと転がる石は冷たくて、得も言われぬ風味があった。これがそうだ、ウマイというやつだと確信した。美味いは、殿様たちの好きなやつだ。食べると幸せになる。
妻は毒だと言った。
もう限界だと悟った法主様が、最後の慈悲をお与えになったのだ。
三人は赤い炎を囲んで、にこにこ笑っていた。口の中も、頭の中も幸せいっぱいだった。これで浄土に行ける。もう苦しいことなんかない。みんな、最後の最期まで苦しんで逝ったが、自分たちは幸せだ。
知らぬうちに、泣いていた。ぼろぼろと水が溢れてきた。
ここらは雪が深いので、咽喉が乾くということだけはない。炎に炙られた顔が熱くなれば、外へ出て雪を被った。そしてびしょびしょのまま、炎に炙られた。口の中は、まだまだ幸せだった。金色の石がだんだん小さくなり、終わりが近づいていると知る。
子供はコロコロしなくなった。だが死にそうにもなかった。
妻は雪を食んだ。だが石が小さくなるのを止められなかった。
男は石を噛み砕いた。音を聞いた二人から悲鳴が上がったが、平気だった。何故か、まだ生きているのに救われた気がした。知らぬうちに、戸口へ両手を合わせていた。
もし、もしも今年の冬が越せなかったとしても――。
「南無阿弥陀仏」
男は何も恨みはしないだろう。
妻は包みをきちんと折り畳み、それに向かって両手を合わせた。子供は両親の有り様をきょとんとした顔で眺め、見様見真似で手を合わせた。
**********
尾山御坊は織田家臣・佐久間盛政によって攻め落とされたと、後の世は語る。
畿内は摂津国に本拠地を構える石山本願寺の拠点であり、加賀国における一向宗の拠り所でもあった。しかし加賀国内を統括していた守護職を失い、加賀一向一揆を煽動していた坊官・
一向宗の迷走には、本願寺内部の分裂も影響している。
本願寺顕如の息子、
更には越前、近江から一向宗が逃げてきたこと。
上杉謙信の越中侵攻に、信長が絡んでいること。
能登畠山氏の家臣と、信長が繋がっているらしいこと。
これらを鑑みて、信長は加賀国を武力にて包囲し、本願寺勢力を根絶させる意図があると教如は結論付ける。信長の坊主嫌いは有名だ。しかも、当てつけのように宣教師と親しくしている。今まで手を出さなかったのは、本願寺側が動くのを待っていたからだ。
信長は、己へ刃向かう者に容赦しない。
本願寺側が決起すれば、これ幸いと軍勢を差し向けるだろう。
「なんで理論が破綻してるって気付かねーの? オマエ、馬鹿なのか?」
「んなあ!?」
「あ、違った。頭良すぎて変な方向に突っ走るやつだ」
うんうんと頷く利家は、赤入道のようになった教如の様子に気付いていない。
顕如はどちらの味方をすることもなく、腕組をして瞑目したままだ。瞑想しているように見えなくもないが、今は協議の真最中である。
ちなみに盛政は爆睡していた。腕組をして瞑目したまま。
もう五日ほど不眠不休で働いたのだから仕方ない。上座で頬杖をついている利家も、目の下のクマがひどいことになっていた。眠すぎて半眼になっているのだが、生え放題の無精髭と申し訳程度に羽織った女物のせいで「バカ殿様」にしか見えない。
バカに馬鹿と呼ばれる苦痛は筆舌に尽くしがたい。
屈辱に震えながらも言い返せない理由は、広間に揃った面子にある。本願寺側の者として下間頼廉も末席に控えているが、かなり顔色が悪い。加賀国人衆は、顕如の名前で呼び出されたために不機嫌さを隠そうともしない。
そんな彼らを睨みつけているのは柴田勝家。
信長から文をもらって若狭国からすっ飛んできたので、状況はだいたい把握している。丹羽長秀、佐久間信盛、羽柴秀吉、浅井長政、と織田家の重鎮たる顔触れが揃っているのだ。たかが国人衆、地方豪族ごときに何が言える。
そして一様に、人相が悪かった。主に、寝不足が原因で。
「今更……っ出てきて、何を偉そうに」
「だぁから忙しかったンだって。まさか、ここまで酷いとは思わなかったしさー。つうか、なんで民が飢え死に寸前まで追い詰められてンのか、こっちが聞きてえよ」
「それは、貴様らのせいで!」
「必要な物資やら何やらくれって言われたら、送ってた」
「見返りに何を要求されるか分かったものではないのに言えるか!」
「テメェのちっちぇえ矜持のために何人……何千人を浄土送りにしたンだ?」
利家は怒っていた。一目憚らず大声で泣き喚きたいくらいだった。
勝家たちが何も言わないのは、言えないからだ。加賀の状況を少なからず察した上で、何もしなかった。横から手出しをすれば、信長から信任された顕如に泥を塗ることになる。顕如だって、今まで何もしなかったわけではない。
加賀の民を救おうと、必死になった。
出来る限りの人手を用いて、考えうる限りの策を尽くして、真宗王国を名実ともに立派な国にしようと奮闘した。だが顕如の志は末端にまで伝わらなかった。檄文は文字が読めなければ意味がないし、素直な農民たちは坊官の言うことを鵜呑みにする。
そして長男が、顕如のやり方に反発した。
三条家から嫁いできた妻が不自由しないように、家族にはできるだけ豊かな暮らしをさせた。長男・教如は坊官の言葉を信じ、民を憐れんだ。今も圧政に苦しむ民が要るのは、時代の所為だと考えるようになった。
信長は自国の民しか大事にしない、愛さない。
加賀国は、見捨てられたのだ。
「ふがっ」
いきなりの間抜けな声に、視線が集中する。
盛政は鼻をふがふがさせながら、きょとんとした。身の丈八尺の偉丈夫がそんな顔をしたところで、ちっとも可愛らしくはない。
利家に反論できなかった教如が、それっとばかりに矛先を変えた。
「大事な協議の間で居眠りするとは、不謹慎極まりないぞ貴様!!」
「話は進みましたか?」
「恨み言は腹いっぱい聞いた」
「なるほど」
「私の話を聞け!!」
「又左殿が聞いてくださっただけでも感謝してください。それでは、さくさくと話を進めますかね。五日かかってまだ終わっていませんが、皆様のご協力に感謝いたします」
盛政がぺこりと頭を下げれば、加賀国人衆はしきりに顔を見合わせる。
何も言われていないし、何もしていないからだ。対照的に織田家重鎮の方々は渋面になった。何しろ、寝不足の原因は盛政と利家にあるのだ。一番働いたのが、この二人であると知っているから何も言えない。
加賀国中の村落に、一戸ずつまわって施しをした。
この道すがらに地図を作り、早急に対策をしなければならない事案をまとめ、文字の読める者を招致して仕事を与え、豪農の米倉を開放させて人々の避難場所とした。今年の冬を越すだけの急ごしらえとはいえ、雪の中の力仕事は大いに体力を奪う。
一揆鎮圧のために来たはずの軍勢は、一人残らずコキ使われた。
誰も死なせないために。
かつて、とある村落の窮乏を目の当たりにした信長がそうしたように。
「先に言っとくぞー。来年の年貢は免除な」
「そんな横暴が通用すると!?」
国人衆の一人が思わず立ち上がりかけた。
領主は年貢(収入)がなければ立ち行かない。だが、その年貢がなければ取り立てもできない。できないのに取り立てようとしていたことこそ横暴であると気付いていない。
利家はひどく眠かった。説明するのが面倒だった。
「米がなけりゃ石でも齧ってろよ」
「ふっ、ふざけるのも大概に……!」
「オレが見た子供は、そうしてた」
同じ光景を見た者は俯き、そうでない者は悔しそうに口を噤んだ。
「雪が降ると嬉しい。雪は食えるから。でもすぐ溶けちまうから、石齧ってる。暇潰しと、空腹紛らわせるために」
家族は一塊になって震えていた。
子供は必ず一人以上はいる。子供は大人よりも温かいから。増えると減らす。減ると増やす。隣国の境へ行くのは、食べ物を得るためだった。山林に棲む獣よりも貧しい生活だった。とうに死に絶えた村もあった。飢餓ではなく疫病が原因だった。
城や砦から遠のくほど、その落差は酷かった。
盛政は知っている。
ごめん、ごめんと泣きながら利家は荷物を配って歩いた。誰が何と言おうと、自分で配るのを止めなかった。まだ終わっていない。一晩だけの施しでは冬が越せない。豪農たちにはさんざん脅しておいたが、ちゃんと守るかどうか分からない。
盛政は聞いた。
若き日の利家たちが見た地獄の顛末を。
そして、信長をあれほどまでに心酔する理由が理解できた。昨日、荒子衆と正室・まつが加賀国に到着した。どこぞで情報が漏れたらしい。綺麗なお姫様はきりりと顔を引き締め、割烹着を纏って厨へ飛び込んだ。
どこからか大鍋が持ち込まれ、加賀国のあちこちで白い煙が立ちのぼる。
余計なことを、と憤る国人衆を片っ端から殴り飛ばしたかった。施しをすれば民がつけ上がる、甘やかすと腐ると訴える輩に言ってやりたかった。腐っているのはどちらだ、と。
小谷城から加賀国内に入った途端、民の為に奔走する利家のために盛政は動いた。
尾山御坊は織田軍が占拠し、真宗王国は終わりを告げたと歴史は語る。
天正年間の加賀侵攻において、17名もの国人衆が謀殺された。これは柴田勝家によるものだと綴られる。加賀一向一揆の最期は、あっけなかった。
戦をするための兵士が戦をせずに数か月働いて、加賀国は織田領となった。
新しい国主は前田利家。尾山御坊は改修され、金沢城となった。そして本願寺顕如と教如は加賀国から、摂津国へ戻ってくることになる。
佐久間盛政は生まれて初めて、武力を使わずに国を制する様を目の当たりにした。
戦働きこそが武士の本懐と信じていたものが、根底から覆された。
********************
利家「織田流人海戦術(キリッ」
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