235. 幾久しく、永久なる、恒久の
※表記は永姫(ながひめ)ですが、呼ぶ時は「お永(おえい)」です
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天正二年(1574年)、6月――。
ふくふくとした頬は赤く、全力で泣いていたのだと分かる。
その温もりと確かな重み、自発的に動く体の一つ一つが「命」を主張している。その当たり前すぎる奇跡は、我が子を抱く度に実感する。俺が最初に抱っこした信忠は、何故か松姫を伴っていた。彼女の腹はまだ薄いようだが、既に仕込んでいるとか言わないよな……?
出産前から待ちきれなかった幼い子供たちは、左右から顔を覗き込んでいた。
「あかちゃん!」
「うわあ、かわいい。お藤と似てる」
「かあいー」
「ぼくたちの妹だよ」
お藤は目をキラキラさせて、於次丸はどこか誇らしそうに。
産後の穢れのためと近寄ることすら許されなかった反動か、俺が抱っこしている時はぴったりとくっついて離れない。だんだん好奇心に負けては触る、赤子の動きにびっくりしては離れるの繰り返しだ。
「信忠は弟妹に対して、よくお兄ちゃんぶってたよな」
「さすがに覚えていませんよ。そんな昔のこと」
「兄上が小さい頃の話、聞きたいです!」
「たいー」
「ええっ」
赤ん坊繋がりで興味をひいたらしい。
小さな弟妹にくっつかれた信忠が、戸惑いながら俺を窺う。しばらく見つめて助け舟が来ないと観念した後は、ぽつりぽつりと話し始めていた。おかっぱ頭を撫でられたお藤が嬉しそうに目を細め、おねだりするように於次丸が頭突きをかます。そんな兄妹の様子を、松姫がどこか羨ましそうに見守っている。
(なんだかんだで面倒見がいい兄貴なんだよなあ)
お市や信包たちからは祝いの品が届き、具豊・信孝・お五徳からは生まれたという報せを受けてからだと言付けがあった。信忠に言わせると、男か女かで贈るものが変わるからだそうだ。お冬はせっせと乳児用の衣を縫い、賦秀に懐妊したのかとぬか喜びさせていた。
おつやのため、一年は喪に服す。
そう通達しているから大々的な祝宴ができない代わりに、方々から贈り物が届けられた。城下町には号外が発布され、民からも祝いの言葉や品物が届く日々だ。受け付ける側もてんてこ舞いになる騒ぎに、帰蝶と二人で苦笑する。
「頑張ったな、お濃。毎度のことながら、ハラハラした」
「女の子が欲しかったの」
だからよかった、と嬉しそうに娘を見つめる眼差しは優しい。
「永姫、……いい名前」
「幸せな人生を送ってほしいと思うのは、子供たち全員に願うことなんだが。名は体を表すって言うし、幸せになれるお守りみたいな感じで。考えて、みた」
「ええ、きっと幸せになれる。そんな気がするわ」
俺は微笑んで同意しようとして、ふと真顔になった。
永姫は織田の娘だ。後見人は信純が務めてくれる――絶対断らせない――として、この時代における幸せとは「良縁に巡り逢い、子宝に恵まれる」である。俺は帰蝶に逢えてよかったと思っているし、できる限りの愛情を注いでいる。吉乃の最期を思えば、どうしても子供が欲しいとまで思わない。既に何人もの子宝に恵まれているのだ。
幸せすぎて怖い、なんて前世の俺が殺しに来そうなことを考えている。
「お藤も、お永もぜーったい! 嫁にやらねーからなっ」
「父上、お五徳やお冬の時もそう仰っていましたよね」
「ちーえ」
「お藤!」
父様感動しすぎて、全俺が泣いた。
最近、よく喋ってくれるんだよなあ。色々な言葉を覚えて、すぐ使おうとするところが可愛い。もともと可愛いが、可愛さレベルが天井知らずだ。吉乃は小動物っぽい可愛さだったから、ついついお藤のことも抱き潰しそうになる。永姫を抱えていない方の手を伸ばし、帰蝶の腰を引き寄せた。恥ずかしがり屋な彼女も、寄り添う程度なら許してくれる。
「うちの子たちが可愛すぎて辛い」
「そうね」
「お濃、愛してる。うちの嫁が美人すぎてつらい」
「そ……っ、知りません!」
「子供を産んでもプロポーションが変わらないところとか」
「ばかっ」
照れ隠しに叩かれてしまった。愛が痛い。
あまりの可愛さにニヤニヤしてしまう俺は、ふと信忠と目が合った。すぐに隣の松姫に視線を移したので俺もつられて見ると、彼女は真っ赤な顔を隠しながら逃げてしまった。於次丸たちがお互いの目を塞ぎ合いっこしているのは何故だろう。
(あー、早く孫が見たい)
仲睦まじさなら、お冬と賦秀も負けてはいない。
男顔負けの仕事量で日常を満喫しているのは横においておく。心配なのはお五徳だ。今までの愚痴まみれな内容から少し変わって、なんだか取り繕ったような印象を受けるようになった。信康と何かあったのか、姑の嫁イジメに悩んでいるのか。
(江戸幕府の二代将軍は家忠。ってことは、徳川家を継いだのは信康じゃない。義信事件みたいなことがあったような、なかったような気もする。少し探らせて……いや、だめだ)
余計な刺激を与えることになったら、お五徳にも悪影響が出るかもしれない。
何かあれば家康から言ってくるはずだ。それを信じよう。
「父上。さっきからお永に指を食べられていますが……その、大丈夫ですか?」
「ぬくい」
「そ、そうですか」
その後、美味しいのかどうか確かめるためにお藤が何本か齧った。
普通に痛かった。
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その日はいつになく、澄んだ青空が広がっていた。
城門を背凭れ代わりにしていると、だんだん眠くなってくる。
いざ隠居となったら、今度は仕事の引継ぎやら何やらで、余計に頭を使う機会が増えたせいかもしれない。さすがの信忠も机から離れられず、山のような書類と格闘している。慣れるまでが肝心だとはいえ、俺の時よりも早く片付けているように思えるのは少し悔しい。この出木杉君め。
松姫は松姫で忙しくしている。
まだ床に伏せていることが多い帰蝶の補佐をしながら、少しずつ仕事を覚えていっているようだ。奥様戦隊の結束は固いので、今の松姫は新隊員扱いか。美濃へ来たばかりの頃はおねねやおまつの世話になっていたというから、城の空気に馴染んではいると思う。
息子の嫁がイジメに遭っていたら、さすがに可哀想だしな。
信雄・信孝はそもそも婿入りしてからの家督継承と城主に封じられたため、向こうのやり方に準じる傾向が強い。信包は早い段階で家中を完全掌握したらしいが、息子たちに同じことをやれとは言えない。信包の場合、自分が色々やりたいから地盤を固めただけだ。あれの真似をされると俺が泣く。
それにしても、いい天気だ。
「お兄様っ」
愛する妹の幻聴まで聞こえる。
「お市ですわ。お久しゅうございます。忙しい中、わざわざお出迎えくださるなんて……あら? お兄様、お兄様ってば」
「う、うーん」
「きゃあっ、娘たちが見ているのに。は、恥ずかしい」
抱き心地が帰蝶じゃない。いや、お市の声がしていたから違って当然か。
いい匂いがする抱き枕にすりすりしていたら、顔を真っ赤にした美女と目が合った。大きな瞳が潤んでいて、大変色っぽい。傾国級の美しさだ。
「……お市?」
「はい、お兄様。あなたのお市ですわ」
「もーっ、母上はずるいのじゃ! 妾も伯父上に抱っこしてほしいのじゃ。いざ、熱烈ぎゅーはぐなのじゃー」
「父上、母上が嬉しそうです」
「喜んでもらえて何よりだ。お市を連れてきてよかったな!」
しきりに袖を引っ張って騒いでいるのはお茶々だとして。
やけに落ち着いた風の少女に、長政が抱っこしている赤ん坊は初めて見る。去年の夏くらいに生まれたと聞いて、祝いの品を送っているので赤ん坊は三女・お江与だろう。どちらかといえば活発なお茶々、お転婆が治っていないらしいお市、熱血系爽やかイケメンの長政と家族とは思えないくらいに、大人しい二人だ。赤ん坊の方は寝てるだけだが。
右にお市、左にお茶々をくっつけたまま、長政一行を出迎える。
しばらく滞在する予定なので、荷物も結構な量だ。ぞろぞろと城門をくぐっていく行列を眺めながら、心の中で長旅をねぎらった。声に出した途端に平伏しかねないので、うっかり喋るわけにはいかないのだ。
「お茶々。喜ぶ気持ちは分かるが、義兄上に挨拶をしなさい」
「茶々なのじゃ! 逢えて嬉しいのじゃ。ついでに側室へ迎えてくれるともご」
「ああああねうえっ」
「もごもがー」
「しっ失礼いたしました、信長さま。わたしは、初ともうしましゅっ」
噛んだ。姉をの口を塞ぎつつの挨拶は難易度が高すぎたらしい。
落ち着きのある大人びた少女だと思っていたが、緊張していただけらしい。たちまち涙目になって、長政にしがみついている。よしよしと娘の頭を撫でてやる長政は、ちゃんと父親の顔をしていた。
「んで、その赤ん坊がお江与?」
「はい。おかげさまで、珠のような姫を三人も授かりました。これで浅井家も安泰です」
「娘は何人いても可愛いよなあ。そういや、万福丸の姿が見えないが」
「一日も早く信忠様をお支えできるように精進せよと、城代を任せてきました」
「要するに置いてきたってことだよな!?」
「ははは、冬姫様は九つで義兄上の名代を立派に務められましたよ」
それは俺の指示じゃねえ。
と言っても通じないんだろうなあ、長政には。何でもポジティブ解釈してしまう男だが、馬鹿じゃあないことは俺も知っている。わざわざ子供を連れてきたのは、喪中で祝うに祝えない織田家の事情を慮ってのことだろう。うちのチビたちは遊びたい盛りだ。
お藤にとってもいい刺激になる。
「留守番してるイイコには菓子でも送ってやるか」
「万福丸ばかりずるいのじゃ、妾もほしいのじゃ!」
「あねうえっ」
「織田家では、蜂蜜食べ放題と聞いたのじゃ。妾も織田家に入りたい。のうのう、叔父上ぇ~。茶々を側室にしてたもれ。伯父上の子供もたくさんうぶう」
「姉上、いいかげんになさいませっ。みっともない!」
「ううーっ、はちみつ……ほしいのじゃ」
うん、蜂蜜目当てで側室強請られたのは初めてだな。
紛れもなく高級品だし、贅沢の極みではあるから「金目当ての結婚」とも大差はないような気がする。伯父姪の婚姻は俺の中で成立しないので、そもそも許可できるわけもないが。
ちらりとお市を見やれば、さっと目を逸らす。
定期的に蜂蜜の壺を送っているはずなので、独り占めしてたらしい。乳児には与えるな、と厳しく言い含めたのを拡大解釈したか。
「お茶々」
「……ぐすっ、はちみつ」
「蜂蜜はないが、金平糖ならあるぞ。ほら、あーん」
「あー」
餌を待つ雛が三羽に増えたぞ。
もらえると確信しているお市、オトナゲナイ。そこもまた可愛いから許す。意味も分からず口を開けているお茶々と、おずおずと口を開けているお初に、金平糖をそれぞれ一つずつ放り込んでやった。
「!! おいしい、とっても甘くておいしいのじゃっ」
「おいひいれす」
ころころと口の中で転がす次女、カリコリと噛み砕いて歓喜する長女。
さて三女はどんな性格に育つのだろうか。淀殿と呼ばれるようになったお茶々と対立し、派手な姉妹喧嘩をしていたことくらいしか覚えていない。浅井家が今も健在だから、歴史が変わってしまっているかもしれない。そう思うと、少し怖い。
「そろそろ入るか。待たせて悪いな、長政。赤ん坊、重いだろ」
「いえ、さすがに三人目ですので慣れておりますが。……その」
「なんだよ、長政らしくもない。どうした?」
三女はすやすや寝ている。
何が気になるんだと、俺は小さな体を抱えてみた。すると、妙なにおいがする。まだ母乳をもらっている時期だから、赤ん坊はミルクっぽい甘い匂いがするものだ。それと似ているが、ちょっと違う。ここまで旅をしてきたからかと思いつつ、顔の前まで持ち上げてみた。
「まあ、お兄様ったら」
「あー……うん、分かった」
「義兄上っ」
すたすたと城内へ戻っていく俺の後を、長政たちが追いかける。
三女・お江与はうちの長利やお冬のように、マイペースなタイプらしい。ちょうど着替えるところだったらしい永姫の隣で、仲良く裸にひん剥かれる。真新しい衣に替え終わっても、お江与はくぷくぷと気持ちよさそうに寝息を立てていた。
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浅井三姉妹が揃いました
お茶々 6歳(永禄12年(1569)生まれ)
お初 5歳(永禄13年(1570)生まれ)
お江与 2歳(天正元年(1573)生まれ)
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