【閑話】 武田の小倅
※いつもの他者視点です
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ふとした拍子に思うことがある。
己がこの世に生まれてきたこと、それ自体が間違いではなかったのだろうかと。これまでの生き方を悔いるつもりはない。それは同時に、己に関わった全ての人々を愚弄することになりかねないからだ。
しかし、それでも――。
「お受けいたしかねます」
「そんな権利ないよね、君には」
「はい、資格もございません」
「問答をしている暇はないんだ。君と、無駄な時間を過ごしたくない」
柔らかな声なのに、冷え冷えと心に響く。
まるで針のように小さな氷柱を、一本ずつ突き刺していくかのようだ。この人は変わってしまった、と思った。最愛の人を失い、それでも生きていくためには変わらざるを得なかった。モノを見るような眼差しに耐えられず、深く平伏する。
(私は二度、父に捨てられるのだろうか)
無能だと思ったことはないが、非凡であると自惚れたこともない。
己の立場をよくよく理解し、より精進に努め、皆が期待する姿にふさわしくあろうとした。それは次第に父の反感を買い、ついには縁を切られてしまった。
まだ「太郎義信」と名乗っていた頃、信玄に今川家との関係を進言したことがある。
国内に鉱山を多く抱えているとはいえ、日々の暮らしに困窮している地域は少なくない。土地柄のせいか、米作りに向かないところもある。それでも皆は団結し、力を合わせて生きてきた。外へ目を向けるのではなく、内側へ目を向けるべきだと考えた。
住みやすい環境や海を求め、どれほど領土を広げても、武田の本拠地は甲府だ。
対外貿易だけでは国が潤わない。
この国にはこの国なりの良さがある。それが分からない信玄ではないはずなのに。
いつ頃からか、先を急ぐように連日の戦に明け暮れた。名の知れた戦上手であるから、大きく負けることはない。同時に大きく勝つこともなくなった。戦をすればするほど国は消耗する。民は疲弊し、家臣たちの心も離れていく。誰よりも国を、民を、皆を愛し、慈しんで、全力で守ろうとしたはずの信玄は一体、どうしてしまったのか。
今ならわかる。
信玄は焦っていたのだ。若い頃に巣食った病魔が、その体と心をじわじわと追い詰めていった。その苦しみはいかばかりか。家臣たちにはおろか、実の息子にも悟らせなかった。全てを一人で抱え、そして死んでいった。
今なら思う。
信玄は多くの民に慕われ、厚い信頼と忠誠を捧げられながらも、ひどく孤独であったのではないかと。悩みや苦しみを訴え、弱音を吐いてもいいと思える存在がいなかったのではないか。夫婦仲のことはよく分からない。少なくとも子供の頃、両親は仲睦まじくしていたと思う。信玄の寵愛を巡って小姓たちが諍いを起こしたらしいが、男から見ても信玄が魅力的であったということだ。
その逆はどうだったのか、と考えてしまう。
(私は、父のことを見ていたつもりで、見ていなかった)
信玄は死の淵にあって、ようやく本音を吐いた。
怖い。おそろしい。すまない。後を頼む、と。
あのような場所で死にたくなかったに違いない。躑躅ヶ崎館でなくとも、せめて甲府の地に辿り着きたかったはずだ。道半ばで倒れる口惜しさは、もはや想像するしかない。
義父となった信純もまた、弱音を吐かない男だ。
ここに至るまでの経緯はまさしく「奇妙」としか言いようがない。幽閉された先の寺で出家した後、武田の行く末を見守っていけるとは思っていなかった。いずれ殺されると分かっていた。だから武田の兵に包囲されていると聞いても驚かなかった。
そこから連れ出そうとする手をとることに、躊躇いを覚えたほどだ。
結果、ほぼ強引に脱出したわけだが。まさか敵同士となった相手の身内になるとは思わなかった。末席に置いてもらえるだけでもありがたいのに、今の自分は織田姓を名乗っている。もはや、返上したくても叶わない。
「……信純殿、私の体には武田の血が流れております」
「そうだね」
「此度の戦の一因は、私にあります」
「守るべき民を殺した気分はどう? 武田の重鎮とも戦ったと聞いたけど」
「…………今までの私は、亡霊でした。行き場所を無くして彷徨っていた太郎義信は設楽原で、山県昌景と戦って討ち死にいたしました。今の私は正真正銘、又八郎信直です」
義信の名は、舅である今川義元と実父の武田信玄から、それぞれ一文字もらった。
信直の名には、織田家に連なる者が使う一文字が入っている。それは即ち、主君・織田信長の信頼そのものであると考える。信玄と信長がどういう関係であったのかは知らない。互いの立場を越えた、気安い関係であったことは疑いようもない。
どうすれば、そのようになれるのかは分からない。
親しく話しかけてくれる信忠にも、ついつい一線を引いてしまう信直には難しい。踏み込んだ先で何が待っているのかが見通せない。何よりも、関わりすぎることで信忠を危機に陥れるかもしれない。
(私は死神だ。謀反の疑惑がかけられた時も、岩村城でも、長篠の戦いでも、私に関わった者たちがたくさん死んだ。私が、殺した)
多くを巻き込み、それでも生き恥をさらす恐怖は筆舌に尽くしがたい。
だが「太郎義信」の死はいずれ赦されても、又八郎信直の死は許されまい。信忠は父・信長によく似た優しい人だから。いとも簡単に手を差し伸べるし、一度救った命を放り出すような真似はしない。
「信純殿」
「なに」
「義父上、と呼ぶことを許していただけないでしょうか」
「嫌だよ」
お艶の方は養子として迎える時、信直のことを喜んでくれた。
その本心はともかく、信長が参謀と頼む存在だ。
信直に利用価値があると認めたからこそ、岩村城に居場所をつくってくれた。それが悲劇を生むとは予想だにしなかったのだろう。武田家臣内の事情は、彼らの想像を超えるものだった。まさか城主とその子供を攫い、長く幽閉した末に殺すなど――。
織田軍への挑発行為にしても行き過ぎている。
さすがに勝頼の指示とは思えない。信直が疑問視するくらいだから、信長や信純も不審な点があると気付いているはずだ。奇しくも織田家の身内として迎え入れられたから、信直は知ることになってしまった。
(信長様には何かがある。まるで、父を苦しめた病のような……)
持病があるとは聞いていない。隠されているだけかもしれない。
医学・薬学にも精通していると聞くし、精力的に働いている姿に病の影は見当たらない。だから別の何かではないかと睨んでいる。信忠も知っている織田家の闇。
「義父上と呼ばせていただけないのであれば、私が城主を務めることは叶いません」
「異論は認めないと言ったはずだけど」
「城主を勝手に名乗れば、私は織田家への反逆罪を問われます」
「…………虎の子は虎、か」
「え?」
「いいよ。好きに呼べば? おつやが怒って夢枕に立ってくれれば、それはそれで嬉しいけどね。武田家を潰すまで、岩村城は東美濃の要だ。若君の側近で城持ちなのは娘婿だけというのも心許ないから、仕方なく譲ってあげる」
「あ、ありがとうございます!」
言われて初めて気付いた。
信忠は近いうちに織田の家督を継ぐ。広大な領地を統治する織田家当主になるのだ。その側近がそれなりの地位でなければ、信忠を支えられるわけがない。早くに家督を継いだ信栄や、より多くの戦果を求める長可たちのことを考えれば納得だ。
(私はなんと狭い視野で物事を見ていたのか)
恥ずかしさで地に埋まりたくなった。
ますます畳に額をこすりつける信直のところに、信純が歩み寄る。すぐ傍でしゃがみこむのが気配で分かった。叩くでもなく眺めているだけの時間に耐えきれず、おそるおそる顔を上げてみる。
そして、息を呑んだ。
深淵の闇を思わせるような、昏い瞳があった。
「小木村へ行ったことは?」
「ありません」
「じゃあ、行こう。織田を名乗るなら、知っておくべきことだからね」
「お、お待ちください。秘事であるなら、私のようなものが知るわけには」
「なに、病死するの? 転落死でもいいけど。轢死、圧死、焼死、溺死、中毒死、爆散…………まあ、頓死にも理由が必要だからさ。あまり手をかけさせないでほしいなあ」
するする出てくる死に方の羅列に、たちまち蒼白になる。
何かあるだろうとは思っていたが、それほどの大事ならば余計に知らない方がいいのではないか。いや、知るべきではない。養子縁組したとはいえ、信直は織田家の血が一滴も混ざっていないのだ。今後、織田家ゆかりの姫をもらう予定もない。
「義父上のお願い、聞いてくれないの?」
「い、いえ、それとこれとは」
「ああ、大丈夫だよ。君が城主になる話は、三郎殿も知ってる。固辞したら謀反と同じになっちゃうのに、変な条件出してくるから本当に困ったよ」
「それを先に言ってください!」
「なんで」
「えっ」
「なんで言わなきゃいけないの。君のせいで、おつやが死んだのに」
はっきりと突きつけられた殺意と憎悪に、咽喉が鳴った。
もしここに抜身の刃があれば、滅多斬りにされている。本能的に、この話題はダメだと悟った。たとえ原因が己にあっても、口に出すべきではない。信純は、信直が想像する以上の危うい均衡をかろうじて保っているのだ。
薄氷が割れた後のことは、言うまでもない。
だが同時に、信直は喜んでしまった。
信忠とその側近たちは、なんとかして信直を庇おうとする。武田の嫡男だったと知らない織田家臣たちは、太郎義信を忌々しい存在として罵る。と同時に、信直を騒動に巻き込まれた存在として憐れむのだ。正直、居た堪れない。
信純は、信直へ殺意を隠さない。庇わない。羅列した死に方のどれかを用い、いつでも切り捨てる用意がある。今はまだ利用価値があるから生かしているだけで、信長が止めても殺しに来る。そんな気がした。
「義父上」
「……はあ。今度はなに?」
「ありがとうございます。御坊丸君がお戻りになるまで、又八郎信直。いただきました名に恥じぬよう、岩村城主として務めさせていただきます」
「最初からそう言えばいいんだよ。ああ、疲れた」
「小木村にはいつ発たれますか?」
「そうだね。止められると面倒だから、今晩には」
「ええっ」
「文句あるの」
「ありません! 謹んでお供させていただきます」
再び平伏した信直は知らなかった。
信純がほんのちょっぴり、曇りのない微笑みになったことを。
尾張国の小木村にある立派な菩提寺が、飛ぶ鳥を落とす勢いの織田家が抱える闇であることを、本当の意味での織田家末席に並んだばかりの信直に予想できるはずもなかった。
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そして信純が一足先に隠居したことも、当然知るはずもなかった
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