233. 限りなく黒に近い疑惑

 武田軍が退いていく。

 その様子をまず物見が知らせ、各々が肉眼で確認した。信忠の啖呵が効いたのかどうかは分からないが、潮がひくように素早い撤退だった。

 まだあれほどの機動力を残している。武田軍侮りがたし。

 夜陰に乗じての砦攻略、騎馬軍団の殲滅。勝頼が長篠城を落とすために率いてきた軍勢の大半を失った、と考えてもいいだろう。両軍がぶつかった川と堀は、元の美しい風景が思い出せないくらいに悲惨な有り様だ。

 織田・徳川連合軍からは何度も、何度も歓喜の声が上がっている。

 死傷者は改めて確認しないと分からないが、誰が見ても圧倒的な戦果だ。開戦してからの実質的な時間は、半日にも満たない。甲斐信濃の地が育てた優秀な馬も、それを自在に操る熟練の騎兵たちも、あっけなく死んだ。

 馬房柵の後ろに本陣を構えた家康には驚いたが、守りきれてよかった。

 本陣の前につくった堀の中にいた俺が言うな、って話かもしれないが。後方でのんびり座っているのだけは、どうにも性に合わないらしい。俺が前線に出向くせいで、側近たちも前に出てきてしまう。皆が、俺を守ろうとする。

 俺が、織田の総大将だから。

「早く隠居してえな」

「織田尾張守様が戦に勝っても喜ばない、というのは本当なのですね」

 静かな声が斜め後方から飛んでくる。

 またか、と内心思わなくもない。何故か彼女は、ちょくちょく俺に話しかけてくる。

 大事な主君である家康と懇意にしているのが気に喰わないのだろう。あいつは昔の口癖が治らないだけで、兄弟の契りなんか交わしていない。家康が俺の言うことに従うのは、力関係の差だ。織田と友好的でありたいなら、俺に逆らおうなんて普通は考えない。やられたらやり返す。その姿勢は、昔から変わらない。

「嬉しくないのですか? 過去に例を見ないほどの大勝ですよ」

「ああ、大勝利だったな。飛び上がって喜べよ」

 怒らせるつもりはなかったのに、柳眉がみるみる吊り上がる。

 今気付いた。直虎も返り血と泥まみれで、ちょっとすごい姿になっていた。兜にきちんと収まっていた髪はぐちゃぐちゃ、顔はまっくろ、職人が精魂込めて磨き上げた姫鎧はあちこち傷だらけ。しゃんと立っているので幸い、大きな怪我はないようだ。

(女の子が跡が残る傷を、って言ったら余計怒りそうだしなあ)

 そっちは総大将でしょう、とか言い返されそう。

 目の前の川では死体の移動が始まり、上流では戦の汚れを落としている。赤く濁った川が清流に戻るには数日かかるらしい。兵たちが隠れるために掘った横穴は今、馬や人間の屍がどんどん放り込まれていた。

 名のある将を多く討ち取ったので、首実検も行う。

 山県昌景を討ち取った。俺にとって今回の戦果は、それで十分だ。

 俺は重鎮の何名かしか知らないが、小隊のリーダー格の首でも十分な褒賞対象だ。労働には対価が必要で、戦働きに応じた支払いが滞ると不満が募る。離反者が出る原因になる。戦は開戦するまでと、終わってからの時間がとても重要だ。

(あー、戦後処理めんどくせえ。今回の評定は信忠にやらせるか)

 といっても俺は欠席できないので、黙って見てるだけ。

 一つ一つ確認して、是非もなしって頷いていればいいのだが、これが本当に面倒くさい。うんざりした顔は絶対に見せられないし、よく頑張った褒めてやるぞ的な空気を醸していないとダメなのだ。忠誠心が高い奴ほど、主君のご機嫌に敏感だ。

 直虎も、井伊家への責任感を強く感じているはず。

 三方ヶ原で見せたように、三河武士の結束はとても固い。だが、駿河・遠江国はそれほどでもない。元今川家臣だった者たちが多いせいだ。織田と仲がいい徳川家に逆らうのは得策じゃないと分かっているから、今は大人しくしている。

 現当主・氏真もまあまあ織田に友好的だ。

 北条家の統治する領土に近いところは、ちょっと微妙なところかもしれない。

「それで?」

「え」

「こんなところまで来てどうした。家康が呼んでるとかか?」

「違います」

「じゃあ、信忠か。一日も早く当主になりたがってるくせに、俺がいないと怒るんだよなあ。これ幸いと自由に采配しときゃあいいのに」

「……私がっ、貴方と! 話したいと思って、探しに来たのです!」

 一瞬、反応が遅れた。うん、何を言われたのか分からない。

 俺の間抜け面をどう受け止めたのか、直虎がキッと睨んでくる。しかも涙目で。あちこち汚れて酷い有様なのに妙な色気があって、思わず咽喉が鳴った。

「以前の非礼もきちんとお詫びできておりませんし、本来ならば図々しく顔を見せることも赦されないことだと承知しております。それでも私個人の気持ちが収まらず、お話をさせていただける機会を狙ってまいりましたっ」

「いや、別に話くらい……」

「ないとか言われたら泣きます!」

「泣き落としかよ!!」

「ま、正信殿が、尾張守様は女の涙に弱い、と言っていたので」

 もごもごと口の中で濁しているが、大体わかった。

 もう一年以上前のことだ。相良油田のことで、井伊谷城にお邪魔したことがあった。

 その一件を未だに根に持って、じゃなくて激しく悔いているわけか。井伊家当主として色々考えた結果だと理解しているし、民を犠牲にしたことは許せないとは思う。だが謝罪を受け入れないと言った覚えはない。

 お五徳にも後からさんざん怒られたし。

 こっちは苛めたつもりがないのに、相手がそう感じる戦国パワハラこわい。三英傑の一人っていうチートな器の中身は、どーしよーもない凡人なのに。女好きな噂はともかく、女の涙に弱いのは合っている。正信の奴、余計なことを言いやがって。

「で? 話ってなんだよ。今しなきゃならんこと、か……ってぇ、泣くな!! 俺が悪かったから、謝るから泣くな!!」

「せ、せきにんとって、そくしつにしてくださいぃ」

 目を見開いたまま、ぽろぽろと涙を流す直虎。

 吉乃のことを思い出して、スンッとなる俺。あいつも泣き落としが得意だった。二度も同じ手は食わない。妊娠中の妻がいるのに、新しい嫁を迎えるほど甲斐性なしじゃないつもりだ。

(それに……)

 置いていかれるのはもう、嫌なんだ。

「家康に言え」

「何故ですか!!」

「そのまま嫁ぐと井伊家がなくなるだろ? 当主になれそうな男児はまだ小さいから、中継ぎで女城主になったって聞いたんだが」

 違ったっけと言えば、こくこくと頷いている。合ってるっぽい。

 でっかいお椀の前で両手を握り合わせた直虎は、潤んだ目でじっと見つめてくる。

「尾張守様が相良村のことをとても大事にしていらっしゃるのは承知しております。かの地に派遣された皆様のおかげで、遠江国も少しずつ豊かになってまいりました」

「そりゃよかったな」

「正式に織田領となれば、よりよい未来が導けると思うのです!」

「ない」

「何故ですかっ」

 いや、なんでと言いたいのはこっちである。

 家康に嫁ぐんじゃなくて、俺に嫁ぐ話だった。びっくりだ。

 以前にも別の奴から似たような話をされた気もするが、遠江国なんかもらったら飛び地になる。まさか甲州討伐前提の、甲斐信濃が織田領になる話を踏まえているのか。だとしたら狸の皮算用である。そもそも井伊家が統治している領地は遠江国の一部であって、直虎が嫁いだら遠江もらえるっていう話にはならない。

 じゃあ武田家潰したらどうするのって、地元の国人衆に任せるに決まってる。

 このままの勢いで支配域を広げたら織田家の未来が真っ暗だ。信忠が立派に成長しているのは認めるが、その子供はまだ生まれていない。織田家臣の忠誠心を疑うわけじゃない。乱世が終わった、その先までを俺が見通せないだけだ。徳川幕府だって、三代目家光の治世になるまで色々あった。ような、気がする。その辺りはもともと詳しくない上に、ほぼ忘れた。

「尾張守様は、私の顔はお嫌いですか?」

「返り血浴びて、泥と煤まみれのアマゾネスみたいでカッコイイと思うぞ」

「で」

「で?」

「出直してまいります……」

 全力で褒めたのにガッカリされた。うーむ、女心はよく分からん。

 肩を落として、とぼとぼ帰っていく。戦っていた時の凛々しい姿とは大違いの去り様をしばらく眺めてから、俺も織田本陣へ戻るべく足を向けたのだった。


**********


 はーい、こちらは帰還準備が進んでいる織田本陣であります。

 城での雑務はめっちゃやらされる織田当主――つまり俺のこと――は手出し無用っていうことで、万事滞りなく済むまで待機中。

 一言で表すと、暇。さっさと城へ帰りたい。

「帰りたい」

「ひーっ、ひー……ああ、しんじゃう。川の向こうで、おつやが手を振ってる」

「ビンタくらって戻ってこい」

 むっすりとへの字口の俺が見下ろすのは、地面にのたうつ参謀殿。

 頬杖をついて不機嫌な面を晒しているせいで、個人的な折檻後だと思われそうだが実際のところは違う。信純は笑い上戸だ。今まさに笑いすぎて死にかけている。

 戻ってくるのが遅いと言われたので理由を話したら、こうなった。

「鈍い鈍いと思ってたけど、ここまでとは思わなかったよ」

「往復ビンタしたら正気に戻るか? 笑うの止めるか?」

「おつや以外の平手打ちは嫌だよ。まして、男なんて論外」

 きっぱりと言い放つ奴はたぶん、俺と同類。

 生まれてこの方、嫁一筋で生きてきた。よそ見している暇もなければ余裕もない。俺の場合は側室が二人いたし、彼女たちもそれぞれ愛しているから一筋とは言えないかもしれないが。タイプが違う三人の嫁に恵まれた俺は本当に幸せ者だ。

 笑いの発作が収まってきたらしい信純が、適当な椅子に座る。

「今はお濃がいればいい」

「話を聞くだけでも、かなり面白い子だとは思うけどねえ。ついでに遠江を統一してほしいと言ってしまっている自覚は、あるのかな。ないのかな」

「どっちでも知らん。家康にくれてやる」

「元許嫁が他の女に産ませた子供をしっかり育てているみたいだし。城主としても、徳川家臣としても立派に務めている、良き人材……ではあるけど」

「織田には不要だ。徳川家は織田家に臣従しているわけじゃない。あの台詞は、家康を裏切ると言っているようなもんだぞ。鋼の忠誠心どこいった」

「そこはさ、三郎殿に女として惚れちゃったんじゃない?」

「余計悪い」

 信純によれば、相良油田の視察に向かった時点で話があったらしい。

 同行していた信包から聞いたというから、信ぴょう性は疑うべくもなかった。気付いていたなら俺にも話せと言いたいところだが、直虎渾身の色仕掛けが全く通用しなかったので「大丈夫」だろうと判断したとか。

 お五徳が怒っていた真の理由は、憧れの直虎ジャンヌ様を袖にしたからで。

 男の名前で、男と同じように戦場に出ているから「女扱いしない」ように心がけていた俺は、思いっきり方向違いのことをしていたわけで。直虎は奈江に似たきつめの美人で、性格は帰蝶とタイプが似ている。案外イケるんじゃないかと、家康たちは考えたらしい。

「又六郎」

「なあに?」

「もし女扱いしてたら、側室か」

「なし崩し的に迎えちゃた過去があるよね」

「うぐ」

 返す言葉もない、とはこのことだ。

 意図しなかった行動とはいえ、直虎を何度となく傷つけたことも申し訳ない。そんな気は全くないのに、じろじろ見てしまった。頭を抱えた俺にぽんぽんと肩を叩く者がいた。

「大丈夫だよ、三郎殿。泣かれても絆されなかったんでしょ?」

「されるかあ! もうすぐお濃に、子供が生まれるんだぞっ」

「うんうん、だからさ。私も、その子がお嫁に行くまでは傍にいようかなって」

「嫁になどいかない。男かもしれない」

「三郎殿の血が欲しい人はたくさんいるから、どっちでも無理じゃないかなあ。二人も養子縁組してるよね。なんだかんだでお願いされたり、子供の方から惚れこんだりしたら」

「そんな未来はこない!!」

「うんうん、だからさ。あの坊主、殺してもいいよね」

「…………は?」

 信純は笑顔だった。いつも通りの微笑みを浮かべているようでいて、どこか違う。

 肩に置かれたままの手が、やけに筋張っている。武装の上からでも、ぎりぎりと力が加えられていくのが分かる。とんでもない握力に、血の気が引く。

 だがそれは興奮状態から、冷静さを取り戻す程度の変化だった。

「ダメだ」

「なんで庇うの? どう考えても黒でしょ」

 何がと聞くまでもなかった。

 またか、と思った。

 ふいに思い出すのは嘘を吐き続け、誰にも信じてもらえなくなったオオカミ少年の話。沢彦を「少年」と呼ぶには年を取りすぎているが、これまでの暗躍を考えれば信純が疑うのも無理はないと思える。俺だって可能性を考えなかったわけじゃない。

 そうであれば、どんなに

 もしかしたら俺以外の転生者かと疑ったこともある。俺とは違う理由で歴史通りに進めるため、こっそり暗躍していたのだとしたら納得できるからだ。

(何を考えているのかは分からないが、何を狙っているのかは分かる)

 奴は、あの男はやり直したいのだ。

 今の人生に絶望し、新しい世界を望んでいる。勝手に自死でも何でもすればいいと思うが、なんでか俺に殺されたがっている。俺が時代に絶望し、世界を滅ぼすのを期待している。

 沢彦宗恩という黒い澱が、織田家の結束を危うくしていることは否定しない。

 だから信治は死んだ。俺の所為だ。

「ねえ、三郎殿。先の『演習』で鉄砲隊の出陣はなかった。それなのにどうして、鉄砲を携えた足軽なんてのがいたんだろうね?」

「鉄砲なんざ、今はどこでも軍備として数を揃えている。足軽のことは、真木島の采配ミスだろ。そういうことになったはずだ」

「三郎殿が撃たれていたかもしれないんだよ?」

「あの足軽が雑賀の者だったら、その可能性も考えただろうな」

「でも」

「いい加減にしろ、又六郎」

 俺の参謀として、他でもない信純が対外的にそれっぽい言い訳を整えた。

 しかし本音は違っていたらしい。側近に弟たちや子らを強引に納得させたつもりになっていたが、誰も『なかった』ことにしてくれない。あいつならやりそうだ、という疑念すらも思惑の内だと何故気付かないのか。

「証拠がない。監視からの報告もない」

「直接関わらなくたって、人は動かせるよ」

「……又六郎、それ以上言うな」

「おつやは、沢彦あの男に殺されたんだ。信治殿や、平手政秀と同じように。だって彼らは、君の大切な存在だから」

 ぽちゃん、と水音がする。黒い雫が、波紋を広げていく。

「…………信純。お前だけは、分かってくれていると思っていた」

「一番大事なことも話してもらえていないのに?」

「それ、は」

「嫡男ならいいよ。どうやら運命共同体らしいから。でも、風来坊は違うよね。どうにも昔から特別扱いしているみたいだけど、それが織田一門の者にどう映っているかを一度でも、ちゃんと考えたことはあるのかな?」

 俺が転生者であること。前世の記憶があることを、慶次に話した。

 信純はそのことをどこかで知り、静かに怒っていた。身内や一族を重んじるのは当たり前のことだ。信純は傍系の末だが、おつやとの婚姻で本家筋に名を連ねることになった。弟たちや信忠を除けば、織田姓を名乗る最も近い身内である。

 昔から俺と対等に話せる唯一の存在だった。慶次を除けば。

「ちが、違うんだ。お前のことをないがしろにしたわけじゃ……」

「浮気が見つかった駄目夫みたいな言い訳しないでくれる? それとも井伊殿のことを御方様に話しちゃおうか」

「や、やめてくれ!」

「うん、辞めてあげる」

「……は?」

「もうすぐ隠居するんだし、僕がいなくても大丈夫だよね」

「待て、又六郎! お前がいなきゃ俺はっ」

「じゃあね、

 ああ、なんか本当に離婚話を切り出された駄目夫みたいだな。

 思わず苦笑した俺を一瞥して、信純は去っていった。

「又六郎……」

 あいつは最初からそのつもりだったのかもしれない。

 おつやが死ぬ原因となった秋山虎繁と山県昌景が討ち取られ、沢彦を殺すことが許されず、戦う理由はなくなった。しかし沢彦のことを織田家に巣食う闇だと思っているのは、織田家の者くらいだ。道悦信行が尾張国の門徒を完全掌握して以降、沢彦は隠棲生活を送っているに等しい状態だ。

(前世のことを話せなかったのは、又六郎に死なれたくないからだ)

 それこそ信純だって、沢彦の標的になり得る。

 あいつは笑って「そうだね」と返したかもしれないが、慶次のことを持ち出されるとは思わなかった。慶次なら死んでもいいとかそういうことじゃなく、あの風来坊ならからだ。なんとなく、殺しても死なない気がするし。

 それにあの日は、側近たちが揃って聞き耳を立てていると思っていた。

 誰一人いなかったわけだが。

「爺…………俺は、どうすればよかったんだ?」

 ふと思い出して懐から石を取り出す。

 ぎゅっと握りこむと、ほんのりぬくいような気がした。





********************

転生者という名の孤独

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