232. 長篠の戦い(後)
戦の描写はいつものです…
********************
5月20日未明、東の方角で狼煙が上がった。
ちょうど仮眠していた俺は報せを受けて、飛び起きる。望遠鏡片手に天幕を飛び出せば、既に支度を終えた奴らが同じ方向を見つめていた。
前方からガシャガシャ駆けてきた伝令が膝をつく。
「殿!!」
「おう、なんだ。奇襲成功の報告か」
「酒井・金森隊は長篠城を解放後、有海村に駐屯している武田軍を撃破。鳶ヶ巣山砦の
「深追いしすぎるなと伝えろっ」
「ははっ」
この戦いのMVP賞は酒井忠次だな、こりゃ。
俺専属の馬廻衆に長近率いる鉄砲隊が加わって、約四千ほどの軍勢だ。織田・徳川連合軍の到着に気付いた武田軍が設楽原にも軍勢を割いたからって、こうも簡単に落ちるものか。鳶ヶ巣山砦は小さな砦の集合体だと聞いている。信玄の異母弟が詰めていて、正面突破は困難だと言われていた。だからなんかこう、いい感じに上手いことやったのだろう。
さすがは家康、有能な人材が揃っているな。
「ようし、開戦だ」
俺は望遠鏡を腰に差し、天幕へと戻った。
おつやの弔い合戦という意味合いが強いため、織田軍の士気はもともと高い。そこへ酒井隊の大活躍が加わって、徳川軍の士気も爆上がりだ。指揮官がこの吉報を大いに広めるだろう。こちらの仕込みは完璧だ。
慌ただしい陣内を抜け、俺は愛馬に飛び乗った。
黒光りする鎧に、金糸をふんだんに使った陣羽織の裏地は深紅。総大将は目立ってナンボだ。俺自身が旗印だ。一際強い風にあおられ、陣羽織の裾が大きくはためいた。
連吾川の西岸に立ち、すちゃっとメガホンを構える。
「やあやあ、我こそは織田三郎信長であーる!!」
「ちょ……っ、あのバカ殿。また何かやらかしてンぞ!」
「ああっ、せっかく作った柵の前に立って。誰か引きずり戻せっ」
「あんだけ注目されてんのに、そんなことできるか!」
うむ、外野がやかましい。バカ殿呼ばわりした犬は折檻だ。
せめて肉盾になろうとしてか、わらわらと集まってくる側近連中も派手な戦装束だ。俺の悪影響だともっぱらの評判だが、やっぱり目立ってナンボだと思う。
豪華で鮮烈な衣装は職人のハイレベルさと、豊かな財力を示す。
「武田のド阿呆ども! てめえらの卑劣なやり方に、第六天魔王はお怒りであーる! 我が敬愛する叔母上を無残に殺した罪は、ここでたっぷりと味わってもらおうじゃねえか!!」
「「「「おおおおぉーっ!!」」」」
「そちらで厄介になっている我が甥、御坊丸を丁重に扱え。いずれ必ず返してもらうが、その時に五体満足でなかったら…………一族郎党家臣一同、皆殺しにしてやる」
「の、信長様」
「最後のおっかねえ呟き、あっちには聞こえてねえよな」
「聞こえてねえから、余計に怖え」
「信長様怖え」
おかしい。士気を上げるつもりだったのに、ちょっと下がった。
どうしたものかと馬首を返した時、また一層の強い風が設楽原を吹き抜けていく。川面を覆っていた朝靄が払われ、そこに整列する武田騎馬軍団が露わになった。
連吾川を挟んで西に織田・徳川連合軍、東に武田軍が睨み合う。
ほぼ目と鼻の先だ。鉄砲の射程外にいるというだけで、最前列にいればお互いの存在が分かってしまう。それでいて全ての陣容を把握することは難しい。北から続く尾根や丘陵に、川と沢の高低差が微妙に隠してくれる。
徳川本陣のある弾正山は、土壁と柵で守られた砦だ。
馬房柵の隙間からはみ出した三間槍の切っ先が、朝靄のかかる川面に映っている。五月晴れのおかげで川の水位はそこそこで、徒歩でも容易に渡れる。馬鹿正直に真っ向から突撃しなければ、槍に貫かれることもない。
「いやあ、壮観じゃのう」
「これで見納めだと思えば、なンか感慨深いっつーか」
「ここが正念場だ。各々方、抜かるでないぞ」
「どうして、貴方たちがこちらに!?」
直虎の戸惑いも当然といえば当然である。
俺たち織田軍団、徳川本陣にいるなう。
あっ、ちゃんと織田本陣にも詰めている奴がいるから。もぬけの殻だったりすると、本陣布いた意味がなくなる。万が一、背後から攻めてくる奴がいたらどうしようっていう話なんだが。
(嬉々として返り討ちにする予感しかしない)
信忠たちの獲物は「赤備え」だ。
こうも見え見えの罠に、山県隊が先陣切ってくるとは思っていない。生涯無傷の本多忠勝と同じように、数多の戦でかすり傷一つ負わないと噂の「不死身の鬼美濃」が俺たちのターゲットだ。馬場信春が美濃出身者だからといって温情は与えない。
奴は武田の家老衆、重鎮の一人。よし、首置いてけ。
「狼煙は上がった。長篠城のことは心配いらん。皆、存分に働け」
「応!!」
勇ましく頷く彼ら全員、横穴に潜ってるなう。
俺たちは開戦の合図を待っているわけじゃあない。戦はもう始まっている。ここから動かないのは、その必要がないからだ。武田軍が誇る騎馬軍団が渡河してくるのをじっと待っている。水飛沫が上がったら、鉄砲隊の点火だと伝えてある。
ギリギリまで引きつけてから一斉に撃つ。
後方から弓兵の援護があるし、足が止まったら長槍で貫く。振り回すに向かない三間槍は、真っすぐに突くことで真価を発揮する。というか、それしかできない。
「き、きたっ」
「まだまだ」
「の、のの信長様」
「まだだって言ってんだろ。ちゃんと前見てろ。目を逸らした奴から死ぬぞ」
「は、はいいぃっ」
どれだけ訓練しても、この恐怖だけは馴染めない。
川の水を蹴立てて、騎馬の大群が突貫してくる。その中に見覚えのある旗印を見つけて、うっそりと笑んだ。鉄砲を持つ手が震えているのは武者震いだ。
(そうかそうか、こっちに来たか。それは重畳)
それにしても鉄砲隊を最前列にしなくてよかった。水飛沫を浴びたら全部おじゃんだ。火種が消えるだけならいいが、暴発や弾詰まりを起こしたら面倒なことになる。
武田軍の気迫が巨大な塊となって押し寄せる。
兵士の引き攣った声は、轟音にかき消され、無意識に銃口が上を向く。あと少し、もう少し、ほんの一瞬のズレが勝機を分ける。勝つと決まった戦でも、大きな損害を被れば実質的には負けだ。
俺はこの戦で、一兵たりとも失うつもりはない。
そうして騎兵の槍が、興奮しきった馬の鼻息が眼前に迫る。馬房柵を乗り越えようと、鋼の蹄がぎらりと光る。その時、誰かと、目が合ったような、気がした。
「撃てェ!!」
一斉に爆音が弾ける。鉛玉が飛ぶ。禍々しい花があちこちで咲いた。
いくつかは馬房柵に当たって、木っ端が飛び散る。運悪く、これが目に刺さった敵兵が悲鳴を上げながら落馬した。すかさず飛び出した兵士がとどめを刺す。
迫る恐怖が大きければ大きいほど、一度でも引き金をひいたら止まらない。
無我夢中で撃ちまくる。弓矢が降り注ぎ、あちこちから槍が突き出る。
「どんどん撃て! 手を休めるな!!」
「ひるむな!! そこに織田信長がいるぞ! 何としても奴を討ち取れェッ」
「ここが本陣だ。ここが城だ! 俺たちが城そのものだ!!」
「信長あああぁ!!」
「この方には触れさせません!」
視界の端で、赤と紅が交錯した。
兜をつけているが、立ち位置からして友軍なのは分かる。どこの鎧武者かと思ったら、こんもり丸いお椀が二つくっついていた。その足元には目を見開いたまま、息絶えた男が一人。髭だらけのむさくるしいおっさんを、冷ややかに見下す美女の名は井伊直虎。
「お前、戦えるんだな」
「前線で鉄砲を構えている方に言われたくはありません」
毅然とした様子で一礼すると、直虎は別の敵兵に襲いかかっていく。
武田軍は騎馬軍団での突撃が不発に終わったと気付き、徒歩での突貫が増え始めていた。それでも鉄砲と弓と槍の攻撃は止まらない。中には堀へ引きずり込んで、確実に仕留めている者もいた。それどころか、刀を奪い取って堀から飛び出す。皆で頑張って堀りまくった戦場は、血と屍で埋まっていった。折れた旗印も泥と血にまみれ、無情にも踏みつぶされて黒ずんでいく。
「そこで見ているんだろう!? 諏訪四郎勝頼!!」
いきなりメガホンを奪った奴が叫んだ。
なんだなんだと振り向き、集まる視線も気に留めず、そいつは返り血を浴びた凄惨な姿で対岸に向かって吠えていた。
「私はっ、お前を、絶対に、認めないっ。織田勘九郎信忠の名にかけて、必ず……! お前との決着をつける。その日まで、首を洗って待っていろっ」
わあ、かっこいー。すてきー、抱いてー、なんて言うか馬鹿。
まだ終わってないというのに、頭を抱えて蹲りたくなった。この父にして、この子ありと笑われるに違いない。精強を誇る騎馬軍団がさんざんに打ち負かされて敗色濃厚と悟った武田軍が、そろそろ撤退するだろうと見越した上での台詞だ。
ブチ切れて襲ってきてもおかしくないが、ここで堪えるのが武士の矜持である。
もう来ないと分かっていて挑発している信忠は底意地が悪い。
「でも、まあ……ちょっとは気が晴れた」
「父上。甲州討伐には、私が出ますからね」
「わかったわかった」
「良い軍師は策のために味方をも欺くといいます。でも私には、本当のことを話していただきたかったです。坊丸を見捨てるなどと、父上らしくもない」
「それなー」
嘘じゃない。半分以上本気だった。
信純にとっても、坊丸にとっても、その方がいいかもしれないと思ったのだ。
織田家と縁を切ったなら、未来で起きるかもしれない家督争いに引っ張り出されない。信直みたいに何年も経ってから探そうとする輩も出てくるかもしれないが、織田宗家としては「関係ない」と言い切ることができる。分家の中で俺と同世代は津田姓に変えるなどして、織田を名乗らないことがある。織田宗家の家督相続に関わりませんの意思表示だ。
守れなかったものを悔いるより、守りたいものを見つけてほしかった。
苦しくても辛くても、幸せな記憶があれば生きていける。少なくとも俺はそうだったから、坊丸は過去にとらわれない生き方を探せるのではと思った。まだ、幼いから。
長篠城の奪還を聞いて気が変わったと説明しても、信忠は納得しないだろう。
「このまま武田家を即滅亡させたら、御坊丸も巻き添え食うだろ? 未来を変えるために抗う者として、お前なら何か奇策を思いつくかもしれないなーと」
「父上!! それならそうと言ってくださればっ」
「うるせえ、戦はまだ終わってねえんだぞ。持ち場に戻れ」
シッシッと犬を追い払うみたいに手を振れば、完全に拗ねた顔で後方へ戻っていった。
********************
この頃の信忠隊はまだ親衛隊扱いなので、ノブナガのいるところには必ず配備されていました。信忠隊としては実質的に、長篠の戦が初陣となります
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます