231. 長篠の戦い(前)

 鳥居強右衛門は、長篠城の使いであると名乗った。

 外に出ていた俺たちが織田家の者だと気付かなかったらしく、長篠城の現状を話す間もやたら恐縮しまくっていた。食事は断り、水だけをもらって、再び城へ戻ると言う。

 救援の準備は整っている。その事実はきっと希望を与える。

「一刻も早く、この吉報を届けたく存じます!」

「しゃあねえなあ。伴太郎」

「ンフフ、お任せあれ」

 きょとんとする強右衛門を小脇に抱え、軍議の間から消えた。

 少し遅れて我に返ったらしい男の、なんとも情けない悲鳴が聞こえてくる。ちょっと気が抜けてしまいそうなオチがついてしまったが、長篠城は想像以上にヤバイらしい。

「城門は破られ、本丸と二の丸を残すのみか」

「残された時間はわずかですぞ、殿」

「うむ。三郎兄上、出陣しましょう!」

「応よ」

 俺たちはあくまで援軍だ。

 この時代の作法として、先陣を切るのは徳川軍と決まっている。いつもならそんな悠長なこと言っていられるかと喚くところだが、織田軍は野戦築城の時間が欲しい。一益が作ってくれた詳細な地図のおかげで、周辺の地形はだいたい分かっている。

 川の流れに沿って柵を設置し、堀をつくって台地からの急斜面を形成。

 一番小さい単位の五人組小隊で、それぞれ自分たちの堀を作らせることにした。最前列に長槍、真ん中は鉄砲、後列に弓だ。織田流三段鉄砲は武田軍も知っているかもしれないので、最前列から変更した。

 通常、本陣は戦場を見渡せるような高いところに置く。

 設楽原を含む有海原という地域は、ちょうどいい感じに小高い丘が複数存在していた。俺は少しずつ軍勢を進めて、北の茶臼山へ織田本陣を置く。そして家康は、馬房柵と三重の堀予定地のすぐ後ろにある弾正山に徳川本陣を置いた。

 家康たちを盾にしたみたいに見えるが、そんな意図はない。

 本陣ができると、織田軍からは滝川隊と羽柴隊が競うように堀り始めた。丹羽隊は堀を隠すように馬房柵を作り、隙間を抜けようとしても別の柵が阻むようにそれぞれの位置を調整した。明智隊は斉射の精度が最も高いため、鉄砲の仕込みに勤しんでいる。

「何をなさっているんですか、父上!」

「あっ、このド阿呆。声がでけえ」

 工作兵と一緒に泥まみれになっていたら信忠に見つかった。

 めでたく武田軍にも見つかったようで、滑稽なくらいに大慌てで陣容を再構築し始めている。まさか、こんな近くまでいつの間に~とか騒いでいるんじゃないだろうな。織田木瓜はもちろんのこと、黒地に白の染め抜きをした無一文字、黄地に黒文字の永楽通宝(南無阿弥陀仏テープつき)が堂々とはためいているのだ。

 さあさ、見て驚け。こっちに集まれ。長篠城から退いてゆけ。

「エイサッサ~、ホイサッサ~」

「とっても楽しそうだね、三郎殿」

「はっはっは、総大将は本陣で大人しく待ってると思ったか。ザンネン!」

「あ、うん。皆で堀づくりに精出しているから大丈夫だよ」

 そういえばさっき、長秀によく似た男が丸太担いでいたな。

 犬、猿、金柑頭によく似た男が以下略。信忠と愉快な仲間たちがいないことを普通に喜んでおこう。信栄の胃に穴があいたら、信盛にネチネチ嫌味攻撃される。そんなのは嫌だ。俺がこうして泥まみれになっているのは、じっとしていられないというだけじゃない。

「この柵と堀が、武田軍を壊滅に追い込む。だから関わっておきたい。そう思うのはやっぱり、自分勝手で偽善的だと思うか?」

「それが三郎殿だからね、仕方ない」

 そう言って微笑む信純は、ほんの少しだけ以前の空気を取り戻したように見えた。

 川の向こう岸に目をやると、武田の旗印が右往左往しているのが分かる。武田のシンボルである風林火山、そして赤い色がちらついていた。こちらを大いに警戒してくれるのは嬉しいが、なんだか数が多くないか? 武田菱があるっていうことは、そういうことだよな。

 家康が川の傍に本陣を置いたからって、まさか……な。

 戦略としてありえるのかもしれないし、ありえないのかもしれない。軍師じゃない俺には、その辺りが判別できなかった。からの、放置。

 餌に喰いついたのが大魚であることを祈っておこう。

(よしよし。準備が終わるまで大人しく待ってるイイコたちには、鉛玉のご褒美をくれてやるからなー。甲斐国産の馬は惜しいが……、これも戦争なのよね)

 坊主憎けりゃ袈裟まで憎いと、人は云う。

 おつやを死に追いやった武田家を、俺は許さない。発端は俺たちの怠慢にあるのだとしても、大事なものを守れなかった逆恨みだと言われてもいい。少なくとも信忠は、武田と事を構える気はなかった。

 俺が戦をやると決めたのは、史実に拠るところが大きい。

 じゃあ、なんで長政は生きているのか。奴はまだ、俺を裏切っていないからだ。

「織田尾張守様」

「んあ?」

 顔を上げたら、銀色のお椀が二つあった。

 思わず掴もうとしたら逃げられたので追いかけたら、武装した女だった。井伊家も長島城の救援に呼ばれたらしい。こいつも女城主なんだよなと複雑な気分になる。こういうタイプは女扱いすると激しく怒るから気を付けよう。

「なんだ、次郎法師か」

「その節は大変なご無礼をいたしました。重ねてお詫び申し上げます」

「あー、いい。そういうのはいい。俺を呼びに来たのか?」

「はい。獲物が釣れたと、いうことです」

 獲物と言われて浮かぶのは、敵意を隠さない忠義者の面構えだ。

 あいつが出てきたのか。そりゃそうか。勝頼がここにいるなら、家老衆が出向くしかない。明らかに「企んでます」と言わんばかりの陣容を見て、馬鹿正直に正面からの突貫を決断するわけがない。代変わりしても武田軍は武田軍だ。

 もう油断しない。甘い考えも捨てた。

「だったら、ここで首を獲るしかねえな」

「……織田尾張守様」

「んー?」

「お艶の方様、というのはその…………織田尾張守様の叔母にあたる方、ですよね」

 堀から這い出して、泥を払っていた手が止まる。

 人の噂というのは広まるのが早い。女城主とその子供を見殺しにしたとか、戦の口実にしたとか、噂の中身は大体そんなところだろう。御坊丸のことなら、織田軍の士気低下を狙った武田軍の情報戦略とも考えられる。どちらにせよ、楽しい話じゃない。

「それ、結構広まってんのか?」

「え? ええ、まあ」

「又六郎信純には言うなよ。噂になってるのと、直接聞くのとでは心証が変わる。これ以上、あいつを追い詰めたくないんだ」

「わかり、ました……」

 しょんぼりと肩を落とし、歩き去っていく直虎。

 うーん、ちょっと冷たくしすぎたか? 俺に何か聞きたいことがあったのかもしれないが、正直な気持ちとして何も聞きたくなかった。お五徳には憧れの人をイジメるなと言われていたのに、ままならないものだ。

(ああ、お濃に逢いたい)

 やっぱり戦場に女がいるのはだめだ。恋しくなる。

 今回は特に色ボケていられないのもあるし、お濃が無事に出産できるかどうかも心配で頭がおかしくなりそうだし、勘定方がデスマーチ中に謀略を仕掛けてくるとか武田軍マジ外道と思うし、つくづく嫌になる。

 重い足を引きずりながら本陣へ戻ると、お冬が出迎えてくれた。

 いや、なんでいるんだよ。当たり前みたいに若武者姿なのはなんでだよ。この戦で負傷者出す予定ないから、医療班の出陣は阻止したはずなのに。くっそ賦秀のやつ、また負けたのか。嫁に弱すぎだろ。

「早く隠居したい」

「父上、その話はここでしないでください。士気に関わります」

「俺、この戦が終わったら隠居するんだ」

「皆の者、迅速に戦を終わらせるぞ!」

 おおーっと気勢を上げる織田軍の皆さん。

 側近連中まで一緒になって拳突き上げている。俺が隠居するの、そんなに嬉しいのか。嬉しいんだな。お前らも一緒に隠居するって言ってたもんな。だが子供はまだ小さいだろ! だから早く結婚しろって言ったんだ、うつけどもめ。


**********


 その日の夜、俺は密かに酒井忠次を織田本陣へ呼び出した。

 心当たりがないという様子で天幕へ入ってきた忠次は、家康の姿に目を瞠る。

「こちらにいらっしゃったのですか、家康様。某をお呼びと伺いましたが」

「やるぞ、奇襲」

「はい?」

 何言ってんだお前って顔された。ひどい。

 それを見た家康が、慌てて間に入ってくれる。

「すまない。先日は私が早とちりをして、お前に不快な思いをさせてしまった」

 軍議のことだと補足されてようやく、忠次は納得顔で頷いた。

「そのことでしたか」

「三郎兄上が、お前の策を使いたいと仰せだ。兵二千を預ける。別動隊を率いて敵の背後を突け。無事に長篠城の解放できたなら狼煙を上げよ」

「はっ。ただちに出陣いたします!」

「待て待て、一人で行かせるわけないだろ? 長近」

「わしの鉄砲隊もお役に立ちますぞ、酒井殿」

 にこりと微笑む長近は利家の代わりに、赤母衣衆を引き連れての参戦である。

 堀を作っている時にそれっぽい姿を見かけたような気がするのは、気のせいだ。そういうことにしておく。まったく、血の気の多い奴らが多くて困ったもんだ。

 金森隊をつけると決めたのは、忠政が「ついでに敵本陣攻める」と言ったから。

 無事に長篠城へ伝令が到着したと思っているが、俺たちが岡崎城にいる時点で城門が突破されていたのだ。武田軍に攻められているのは分かっていた。落城寸前になるまで助けを求めないのが武士の矜持か。違うだろ。

 そこまでヤバイ状況だと知らなかったこちらも悪い。

「だから必ず、助けろ」

「お任せください」

 二人が天幕を出ていった後、俺は床几に腰を下ろした。

 待つだけというのは、本当に性に合わない。日中は作業をできたが、夜は休まなきゃいけないと分かっている。俺は旗印だ。敵軍の的だ。俺が活発に動いたら、織田軍が動いているのと同じだ。だから動けない。

「三郎兄上」

「家康、亀姫は長篠城か」

「…………」

「娘はいくつになっても可愛いもんだぞ、家康。貞昌なら、亀姫を大事にしてくれる。今まではどうあれ、城門破られても降伏せずに耐えるなんて、そうそうできることじゃねえ。戦が終わって、二人に会えたらよ。まとめて抱きしめてやれ。無事でよかったって、言ってやれ。な、家康?」

「は、い。そうします、必ず」

 俺は奥平貞昌という人間を知らない。

 とにかく根性がある奴ということは分かる。日和見武将なんて言っていたが、ここで踏ん張ることができるのなら肝が据わっている。内心はどうあれ、周りはちゃんと評価してくれる。

(だから絶対に、生きのびてくれ)

 一緒に本陣突撃なんかしなくていいから。

 俺たちが到着するまで耐えただけでも十分すぎる戦果だ。ここ長篠、設楽原に勝頼とその家来たちがいる。この戦で、武田の重鎮どもの首をごっそりいただく。

「狼煙が上がったら出陣だ」

「はい、三郎兄上」

「それまで寝ておけよ」

「そっちこそ寝てください。ひどい顔ですよ」

「なんか最近、よく言われる」

 無精髭が生え始めた顎をさする。

 生まれたばかりの赤ん坊に嫌がられると困るので、きれいに剃っておかねば。どれもこれも戦が終わってからだ。なんかのフラグが立っていそうな気もするので、あまり言わないようにする。明日は地獄だ。俺は何度、地獄を見れば気が済むのだろう。





********************

実は口約束だけで、亀姫が正式に奥平家へ嫁いだわけではない……ということを言えない家康

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