230. 尾・濃・三合同軍議
天正二年、5月――。
奥平貞昌がいる長篠城への攻撃は、完全な雪解けを待って本格化した。
しつこく繰り返した内応の誘い、降伏勧告に首を振らなかったためだと考えられる。徳川側にとって奥三河は対武田の最前線だが、武田側にとっても最前線だ。美濃岩村城と同じように、攻める側・守る側の足掛かりになる。
つまり両陣営にとって、どうしても欲しい要地というわけだ。
岐阜城を出た俺たちは三河国へ入り、岡崎城の家康の下に集まった。岩村城攻めに動員した数の半分だ。東美濃にも睨みを利かせ、信忠たちを連れての移動は武田側にも筒抜けだろう。今更隠すつもりなんかないが。
「それにしても、意外にもったな」
「耐えてもらわねば困ります。長く籠城できるように十分な兵糧と、鉄砲や大鉄砲に数百の兵を送っていますから。総攻撃が始まる前にはと思っておりましたが、さすが三郎兄上。伯父上は今も村木砦の戦いについて語ってくださいますよ」
にこにこ上機嫌な家康は、また少し太った気がする。
俺の真似して薬膳研究しつつ、美食家目指しているらしいとは聞いた。食った分だけ運動しているのだろうか。本当の死因が鯛の天麩羅(の小骨)じゃなく、メタボによる成人病だったら笑えない。現代には健康マニアと伝わっているんだぞ、家康。
「正直、ここまで徹底抗戦の構えを見せてくれるとは思わなかったのですが。三郎兄上の言いつけ通りでした。お亀にとっても良縁で――」
「……奥平が妻子持ちだったとは聞いてねえぞ」
じろりと睨めば、びくりと肩を竦ませる。
徳川家に臣従すると決まった当初、貞昌はまだ家督を継いでいなかった。長篠城に封じられるのと同時期に、貞昌の父・貞能が病没したのだ。そして奥三河は信玄が倒れたどさくさで取り戻した地域だったので、新しい領主が必要だった。
徳川家の娘婿であれば箔もつく。領民にも分かりやすい。
だが貞昌には、武田側へ人質として預けていた妻子がいた。どちらの国にとっても要の地に根付いていた一族で、仕える主君を何度も変えているために「保険」として差し出したのだろう、ということは理解できる。
弱小領主がよくやる手法だ。それ自体は責められない。
『何故、助けなかった』
喉の奥まで来ていた言葉を無理矢理に飲み込んだ。
お艶の方を救えなかった俺に、家康を責める権利はない。亀姫との婚姻で、貞昌は人質となっている妻子と縁を切った。そして価値のなくなった二人は、磔にして殺された。わざわざむごい方法を選んだのは、長篠城の士気を下げる目的もあったのだろう。
(徹底的に潰す理由が増えた、ということにする)
乱世の倣い、なんて言葉は嫌いだ。
「織田の援軍三万、設楽原に布陣する。異論はあるか」
「ございません」
軍議用の巨大なテーブルには長篠城、設楽原の様子を詳細に描いた地図が広げられていた。織田・徳川の双方から主だった人間が参加している。家康の腹心である本多忠勝、榊原康政に本多正信の顔もある。
どいつもこいつも老けたなあ、なんて他人行儀な感想が浮かんだ。
「して、織田軍はどのように配備されるおつもりで?」
「設楽原は緩やかな起伏のある土地だ。広大な平野に比べると見通しが悪い。だが敵影を確認しづらいのは武田軍も同じこと。この川沿いに、馬房柵を配置する」
「なるほど、武田の騎馬隊は突撃突貫が主な戦略。足止めには有効でしょう」
「鉄砲隊三千を細かく分け、小さめの横堀を無数につくる。掘は深ければ深いほどいい。掻き出した土は手前に盛る。どんどん盛る。これを開戦ギリギリまで行う」
「そ、それだけですか?」
「弓兵と長槍隊もいる。三重、できれば四重の構えになればいいな。小川は天然の堀だ。ここに沿って馬房柵を並べれば、武田軍は必ず対岸に騎馬軍団を配置する」
堀を深くするので、柵そのものは高くなくていい。
ちょっと頑張れば突撃で折れそうな、勢いで飛び越えられそうな期待を誘う出来が理想的だ。騎馬軍団を最強と誇るなら、川沿いの柵ごときで怯まない。以前やった三段鉄砲は鉄砲隊が丸見えだったが、堀に隠れているので人数を把握するのは難しい。だから突破できるかもしれないと考える。そこを狙い撃つ。
「それが織田の策ならば、
「言ってみろ」
鷹のような目を光らせた男は家老衆の一人、酒井忠次と名乗った。
酒井といえば、勝家が「骨のある奴」と認めていたのを思い出す。はて、どこかで戦ったことがあっただろうか。見た目からして俺たちと同年代だ。徳川と同盟を組む前だとするなら、ありえないことじゃあない。
「此度の戦は、長篠城救援が目的でござる。わしが別動隊を率いて、四郎勝頼の背後を突きましょう」
「ほう」
「夜陰に乗じて、
説明するため、地図に近づいた忠次に指し棒が渡される。
戸惑いながらも指し棒で示せば、そこに青い駒が移動してきた。地図上には黒い駒が蛇行して並んでいる。俺が三重、四重と言った辺りで小さな駒も増えた。黒くて短い線は馬房柵のつもりらしい。
設楽原から見て、長篠城は東にある。
北側の山から流れてくる二つの川が平野をつくり、拠点としての城が築かれた。これを包囲するために武田軍が展開している。つまりはどうあっても渡河して、正面の武田軍を突破しないと長篠城の救援には向かえない。精強を誇る武田の赤備え、騎馬軍団を攻略している間に長篠城が落ちるかもしれない。だから別動隊を率いて、長篠城の包囲を解くと言っているのだ。
(この戦にそんな話、あったっけ?)
理にかなっているとは思う。
味方の救援が名目の戦なのに、肝心の長篠城が落ちたら意味がない。織田軍は「武田軍潰す」で一致団結しているが、こちらの事情に同盟相手である徳川軍を巻き込んだと言われるのはよろしくない。
それに奇襲はとにかく、仕掛けるタイミングが難しい。
かの有名な川中島の戦いでは、軍師・山本勘助が考えた渾身の策「啄木鳥戦法」を軍神に見抜かれたせいで武田軍の重鎮が何人も討ち死にした。桶狭間での奇襲が成功したのは、今川義元が完全に油断していたのもあるが、単純に運が良かったからだ。
俺が勝てると見込んだ根拠は「史実」しかなかった。
あの時、不敵に笑ってみせた信純は無表情で地図を見つめている。
「ひかえよ、忠次。奇襲案は却下だ」
「は、申し訳ございませぬ。出過ぎたことを申し上げました」
何も言わない織田方に配慮してか、家康が忠次を下がらせた。
徳川軍は遠江方面にも警戒しなければならないので、この戦で出せる兵力は八千ほどだ。あくまで織田側が援軍を主張しているものの、ほぼ織田vs武田の構図になっている。貞昌が家康に対しても「お探しのタローくん」のことを話したかは聞いていない。
家康なら、こちらの事情に喜んで巻き込まれてくれる気がする。
表向きはそうじゃない方がいい、というだけだ。
「家康」
「はい、三郎兄上」
「この戦、必ず勝つぞ」
「もちろんです」
「信忠、後は任せる」
「大丈夫です。父上は、少しでも体を休めてください」
「余計な世話だ、ド阿呆」
信忠は言った。この戦は早く終わらせましょう、と。
何故なら、お濃のお腹がかなり大きくなってきているからだ。夏を待たずに出産することになるかもしれない。お艶の方と坊丸のことを考えると、素直に喜べないのがつらい。だが同時に、お濃が女の子を生んでくれたらいい、と思っている。
長政がそう言ったからじゃない。
おそらくお濃の生む赤ん坊が、俺の末子になる。
だから信純に後見役を頼みたい。親父殿は末妹にちょうどいい遊び相手がいる程度の考えだったかもしれないが、俺にとって信純は大事な片腕だ。こんなところで失いたくない。
(御坊丸を切り捨てると決めた俺の頼みなんか聞きたくない、と言われるかもな)
軍議の間を出て、しばらく歩く。
「一人でどこ行くの? そのままだと、城の外に出ちゃうよ」
「お前こそ、軍議の途中に出てきやがって」
「三郎殿に言われたくないかなあ」
飄々とした物言いは、いつも通りの信純のように思える。
だが二つの目が暗く淀み、常に浮かべる微笑みが薄笑いになっていた。見慣れた奴が、見慣れない様相になっていると、傍にいられるだけで落ち着かない。俺が寝不足でイライラしている時、黒い感情を押し殺している時は、側近たちがこんな気分を味わっていたのか。
なんとなく目を逸らし、あらぬ方向へ視線をやる。
「なあ、又六郎。俺は……お前に、謝らなきゃいけないことがあ」
「養子なんか迎えなきゃよかった」
「…………」
「とか言っておけばいい? それで三郎殿の気は済むの?」
「又六郎」
「あの子は今、私以上にひどい顔をしているよ。若様の側近たちで抑えているみたいだけど、開戦したら真っ先に飛び出していきかねない。全く、誰に似たんだろうねえ」
「情が厚いのが長所であり、短所でもある」
「自分のことをねえ、死神みたいに言うんだよ? 家臣や義理の母が死んだのは、自分の所為だってさ。実母の三条夫人も、あの子が幽閉された後に亡くなったしね」
守りたいのに守れなかったつらさは、分かると言葉にしていいものか迷う。
俺は転生してから何度も、大事なものを失ってきた。抱えきれないほどに大事なものがあるせいで、ふとした拍子に手からこぼれ落ちる。どうすればいいのか、何が間違っていたのか、自問自答を繰り返しても答えは出ない。
俺はちゃんと織田信長として生きているのかも、ときどきアヤフヤになる。
「……! 三郎殿、下がって」
信純が一歩前に出た時、茂みの中から髪を振り乱した男が転がり出てきた。
「それがしは鳥居強右衛門と申す者! 急ぎお取次ぎを願いたいっ」
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村木砦の戦い(本編57・58話参照)...水野信元(家康の母方の伯父)の居城・緒川城救援のため、荒れる海を渡ってノブナガがマーライオンになった話。三段鉄砲を初披露したり、お濃さんが留守番頑張ったり、三間槍フィーバーしたり、若さゆえのナンタラ回。
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