229. 甘ったれ

 結論から言えば、岩村城に籠っていた武田軍は壊滅した。

 秋山虎繁以下一人残らず屍にして、援軍として寄ってきた馬場信春の部隊もさんざんに打ち負かした。信純の軍はそのまま追撃し、秋山虎繁の居城である飯田城に届きそうな勢いだったという。

 そこに、お艶の方がいると知っていたからだ。

 だが信濃国内へ入った途端に二方面からの挟撃を受け、撤退を余儀なくされた。戦術も何もあったもんじゃない。信純らしからぬ無謀な戦い方だった。信直がついていなければ、生きて戻ってきたかも分からない。

 そしてお艶の方は、既に連れ去られた後だった。

 あえて秋山を逃がしていれば、悲劇は避けられたかもしれない。俺は所詮凡人でしかなく、起こりうる可能性を予見できるほどの知性はなく、未来において確定事項である「長篠の戦い」にのみ焦点を当てていた。

 歴史に詳しくない俺が「桶狭間の戦い」と同じくらい、はっきりと覚えている織田信長の戦だ。違うのは、勝っても負けても織田家は滅びないということ。勝てば、武田家が衰退の一途を辿るということ。

 そして、ただの「戦勝」では誰も納得しないということ。

 勝頼率いる武田軍を設楽原という死地に誘い込み、未だに戦国最強の夢を見ている武田騎馬隊を蹂躙する。忌々しい赤備えを血と泥に沈める。戦を始めるのに必要な大儀名分なんか「織田がナメられたから」で十分だ。

「十兵衛、鉄砲は揃ったか」

「はい。……あの、本当に三千丁も必要なのでしょうか」

「一万」

「え?」

「本音を言えば、種子島一万丁は揃えたかった。これを三分の一以下に抑えた。十兵衛、俺の判断は間違っているか?」

「い、いえ」

「だったら無駄口叩いてないで働け。全ての準備が整い次第、浜松へ向かう」

 光秀は無言で頭を下げると、静かに去っていった。

 尾張出身じゃない奴らは、俺がここまで激怒している理由が思いつかないのだろう。甥の坊丸は甲斐高遠城に囚われたままだが、信濃飯田城にいるはずのお艶の方は消息が分からなくなっている。今の武田軍を攻めれば、二人の命が危うい。

 奪われたものを取り返すなら、戦をするよりも交渉すべきだ。

 そう思っているのだろう。それは正しい思考なのだろう。俺は、信純は、怒りで我を忘れていて、まともな判断ができなくなっていると。本当は、そうなのかもしれない。

(今は、そう思わせておけばいい)

 頭のどこかで理解していた。これは戦いだ。

 史実における「長篠の戦い」が天正何年のいつ頃に起きたのかを、俺は覚えていない。長篠が城だったということも、最近知った。長政が今も生きているのだから、史実通りに武田家を滅亡へ追い込まなくてもいい。ちゃんと交渉すれば――。

「その交渉役に適した奴が、過去最高にブチ切れてるんだから仕方ない」

 呻くように呟いて、がしがしと頭を掻いた。

 俺の本心はどうあれ、武田家に対して甘い顔は出来ない。奪われたのがお艶の方と坊丸じゃなかったら、東美濃の一部がごっそり持っていかれた可能性もある。そうなれば尾張も三河も危ない。岐阜城には身重の帰蝶がいる。

 これ以上、心配をかけさせたくない。

(交渉できないなら、密かに奪い返すしかないが……)

 信忠は「太郎義信」だった男を連れ帰ってきたが、あの頃とは状況が異なる。

 お艶の方は一人で馬に乗れないし、甲斐高遠城は武田家当主が居城としているのだから最高の警備体制を敷いていることだろう。違っていたら鼻で笑うが。

 武田の抱える忍び集団・三ツ者は、信玄亡き後も健在である。

 奴らに一度ハメられている以上、強く警戒するべきだ。太郎義信こと又八郎信直の件は、ただの口実に過ぎない。よくよく考えれば、信玄の代から東美濃と西信濃の取り合いは始まっていた。

 いや、違うな。俺は別に信濃国を欲しがった覚えはない。

 あっちが美濃を欲しがっていたのだ。昔に比べて、随分と豊かになったから。そういうところは今川義元と大差がない。政略結婚で姻戚になると、考え方も似るのか。あるいは乱世を生き抜く戦巧者の思考はだいたいそんなもんなのか。

「あ、こちらでしたか」

「おう、信忠」

 俺はここのところ、ほぼ軍議の間に居座っていた。

 用がある奴がちょくちょく出入りするので、襖は全て開放した。こっそり聞き耳を立てるなら壁の向こう側か天井裏しかない。当然、そこにも護衛が張りついている。

「父上、報告します。越中の上杉軍に動きがありました。謙信が春日山を精鋭を率いて出た、という噂もあります」

「軍神は言葉が要らなくて助かる」

 あちらも雪が深い時期だろうに、元気なことだ。

 これで武田軍は、織田・徳川に加えて上杉も気を配らなければならなくなった。越後の軍神に冬季の戦は無茶無謀、の常識が通用しない。どんな錬兵をすれば豪雪地帯の行軍を可能にするのか、ちょっと興味がある。

「開戦時期については伏せてあるな?」

「はい。お艶の方の消息はまだ掴めていませんが、徳川殿が伊賀衆を貸してくださるそうです。甲賀衆、滝川衆、それに長利叔父上も信濃国へ向かったそうです。だから」

 きっと見つかりますよね、と信忠は言う。

 息子も一人の男だと認めてから、俺の中でちょっとだけ変わったことがある。甘っちょろい考え方も、周囲を気遣う情も、憧憬を含んだ信頼も、俺の血を引く子供なんだなと実感するようになった。こいつが情けない一面を抱えているのは、俺に似てしまったせいだ。

 それに気付かず、何度も怒っていた自分が恥ずかしい。

 雑務が苦手なのも、嫌いなのも俺と同じだ。そう言っていられないと分かっているのに愚痴りたくなるのは、子供だから親に甘えたくなる。それはつまり、信忠が俺のことを父親として愛してくれているということで。

(止めよう。恥ずかしさで埋まりたくなる)

 頭を振り、こめかみを揉んだ。

 どうしても意識が逸れる。現実逃避したくなる理由を、俺は自覚している。事務仕事をしながら待っていた時、虫の知らせがあった。

 お艶の方は、助けられない。彼女は、死ぬ。

 もう二度と、会えない。あの賑やかな叔母上は、逝ってしまう。

 信純は間に合うのか、間に合わないのか。それは分からないが、心身に大きな傷を負うことは間違いなかった。長篠の戦いはお艶の方の、弔い合戦になるだろう。

「父上? やはり、お部屋に戻られた方が」

「信忠」

 ちょいちょいと手招きする。

 疑問符を飛ばしながら、素直に近づいてきた首に腕を回して至近距離まで引き寄せた。目を白黒させる信忠の耳に、こっそりと告げる。

「坊丸は、諦める」

「な……っ、父上!?」

「黙れ。又六郎の嫡男・御坊丸は夭折した。藤左衛門家は養子の信直に継がせる。武田側に、織田からの人質は存在しない。織田側に、武田からの亡命者もいない」

 松姫と信直はとっくに、うちの子だ。これは揺るがない。

 嫁と大事な仲間を引き合いに出せば、信忠は何も言えなくなる。そのことを理解した上で、俺はもう一度言った。御坊丸は死んだ、と。

 あの時、信玄はどんな気持ちで「太郎は死んだ」と言ったのか。

 そもそも、お艶の方を岩村城主として認めなければよかったのか。この時代にはありえないダム建設なんか手を出さず、東美濃の防衛に徹していればよかったのか。

 誰が、どうやって、謀反を起こさせたのかはどうでもいい。

「いいか、信忠。ちゃんと、聞け」

「ち、父上」

「申し上げます!! の、信純様が――…っ」

 お艶の方を連れて帰ってきたと、告げる小姓に信忠が腰を浮かせた。

 顔に浮かんだ喜色はぬか喜びだと、俺は知っている。出迎えに行くと言って、足早に出ていく背をぼんやりと見送った。甘ったれな息子が傷つかない時代は、いつになったら来るのか。来ないのか。俺と一緒に死ぬ未来しかないのか。

「奇妙丸、奇妙丸よぉ。俺はお前らを守りたい。それだけなんだ」

 雪が降りしきる二月。

 軍議の間には、冷たい火鉢が点々と置かれている。強い風が吹き込んで、白いものがちらちらと舞う。俺はお節介な奴らが重ねて着せてくれた羽織に埋もれながら、城内で飛び交う音を遠い世界の出来事みたいに聞いていた。

「叔母上、花が咲いたら出陣するぞ。俺は負ける戦をしないって、知ってるだろ? なあ、叔母上。又六郎は、間に合ったか。いつもみたいに遅いって、怒ってみせたのか」

 なあ、おつや。俺は、あんたのことが好きだったよ。





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ようやく次から長篠の戦いです

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