【閑話】 一番最後の記憶は笑顔がいい
※お艶の方視点です
※前後で時系列(天正元年11月→天正2年2月)が飛んでいます
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男たちは戦利品を物色するかのように、不躾な視線を向けてくる。
(ああ、疎ましい。悍ましい)
思いっきり歪んでしまう前に、扇で口元を隠した。
すっと目線を下に向けるだけで、そこかしこで溜息が漏れる。お艶の方には、それが獣の鼻息のように思えた。この体が、この顔が、纏う雰囲気が、男の本性を強く刺激するということを知っている。それこそ、うんざりするほどに。
『愛しているよ、かわいいひと』
夫の幻聴は、ほんの少しだけ心を慰めてくれる。
彼はこの事態に気付いているだろうか。今度は、間に合わないかもしれない。お艶の方が乗っていた輿は壊され、坊丸は震えながらも二本の足で立っている。いずれは織田家を支える柱の一つとなるべき男だ。
みっともなく泣き叫ばない胆力を、我が子ながら誇らしく思う。
「母上、大丈夫です。きっと父上が助けに来てくれます」
「……坊丸」
「だから、それまではぼくが守ります。叔父上と父上と、約束したのです」
こんな状況でなければ、ぎゅうぎゅうに抱きしめていた。
小さな体で半歩ほど前に出て、腕をいっぱいに伸ばして母を庇おうとしている。まだ木刀も満足に扱えないくせに、怖くて怖くて仕方ないくせに。
(生意気な)
誰の血かしら、とお艶の方は首を傾げる。
そもそも二人は居城である岩村城へ帰るところだった。信長が西ばかりに目を向けているせいで、東美濃の街道はほとんど整備されていない。つまり、とっても歩きづらい。馬でも輿でも大いに揺れるのが不満の種だった。
急に揺れなくなったどころか、完全に止まってしまったので不思議に思ったら、無法者たちに襲撃されていた。いや、それなりに身なりのきちんとした者が混ざっている。
「そこのお前、見覚えがあるわね」
「武田家臣、秋山善右衛門虎繁と申す」
髭面のむさくるしい男だ。兄・信秀が生きていれば同じくらいの年頃か。
涼しげな顔立ちの信純とは大違いねと思う反面、その鋭い眼光は甲斐の武士らしい強さを感じさせる。お艶の方の色香に惑うことなく、任務に徹しようとする姿も好ましい。
但し、敵でなければ。
赤い具足は武田軍に多く見られる色だ。血潮を連想させる嫌な色だ。
「秋山、美濃岩村城主として問います。この無礼な仕打ちは、誰の命令ですか」
「武田家現当主にあらせられます四郎勝頼様にございます」
「武田家とは今、同盟関係にないはず。織田に戦を仕掛けるおつもり?」
「お艶様の」
「わたくしの名を呼んでいいのは、夫だけよ!」
「……岩村殿。御子のためにも、我らに従っていただきたい」
「嫌よ。お断りします」
つんと顎を反らす。
お艶の方の高慢な態度に、周囲がざわついた。とっくに護衛たちは全滅してしまったのだろう。見覚えのない顔だからといって、敵か味方かの区別くらいはできる。今の織田軍に、お艶の方を下品な視線で見る愚か者などいないのだ。
(城には又八郎がいるわ。戦上手と聞いているし、そう簡単に落とされるはずがない。ということは……最初から、わたくしたちを狙っていた)
岐阜城で行われる収穫祭に参加することは決まっていた。
毎年、大々的に行われる秋の大祭だ。近江のお市や、三河のお五徳だって身重の体にかまわず参加したがるほど、楽しい楽しいお祭りなのだ。人々の浮かれた様子には呆れることもあるが、信長の施策が間違っていない証拠でもある。
坊丸が成人するまでの城主だが、お艶の方だって民を慈しむ心がある。
何でも夫や信直任せにしないで、寄せられる陳情へ積極的に耳を傾けてきた。帰蝶のように城勤めの女たちとも話をし、城を支える重要性を噛みしめている。隅っこに追いやられたのではなく、対武田の重要拠点を預かった自覚も芽生えてきた。
全ては、これから。坊丸を立派な城主に育てる役目がまだ残っている。
「お前たち、女城主を馬鹿にしているのかしら」
徳川家にも女城主がいるらしい。
以前に遠江国まで視察へ向かった信長に苛められたと聞き、お艶の方は大いに同情している。お五徳が怒るのも無理はない。信長は嫁一筋だと言っておきながら、ひどい女たらしである。次々に女を惚れさせては上手く利用する。せめて贈り物を与えるなり、愛妾や側室に迎えてやるなりすればいいものを、よりによって良縁を組もうとする。何人の女がひっそりと袖を濡らしたか分からない。
あの鈍い男は全く気付いていないが、お艶の方は知っている。
(今度会ったら、引っかいてやるわ!)
早く城へ帰りたい。信直もきっと、心配している。
「回りくどいことを言わず、わたくしたちを捕らえるがいいわ。仮に岩村城が落ちたとしても、三郎信長が必ず取り返す。わたくしの甥っ子は、とても有能なの。知っているでしょう?」
お艶の方は扇の下で、嫣然と微笑む。
女好きの女たらしの大うつけだが、天をも味方につける男である。だって愛する夫、信純が傍にいるのだから。彼が甲斐国で囚われていたのは、お艶の方のためだった。だから夫の愛を疑ったことはない。
もしかしたら信長の方が好きなのかも、と心配になったりもしたが。
それは絶対ないと二人揃って否定したので、とりあえず信じてあげている。お艶の方は懐が広い城主で、理解のある妻で、慈愛に満ちた母なのだ。
くいっと袖を引かれ、か細い声が呼ばわる。
「母上」
「大丈夫よ」
そう言って、血の気をなくした我が子の頬をそっと撫でた。
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あれから何日経ったのだろう。空は晴れているのか。
お艶の方は見知らぬ城の奥に、たった一人で幽閉されていた。
信濃国のどこか、ということしか分からない。
さんざん抵抗したものの、とうとう坊丸はどこぞへ連れていかれてしまった。もう自分の命は惜しくない。でも我が子の命を盾にされたら何もできなかった。あの、ぼろぼろの泣き顔が最後の記憶になるのだろうか。
泣くなと叱った声があの子にとって、最後の母の記憶になるのだろうか。
(何をやっているのよ、又六郎。早く助けに来なさい)
岩村城はどうなったのか。坊丸は殺されていないか。
食事を持ってくる男に詰問してやりたかったが、ぐっと堪えた。この肌に触れようとする不埒者なら、存分に騒いで喚いて暴れてやるものを。お艶の方に話しかけるのも、小屋の中に入ってくるのも、秋山虎繁と名乗った髭男だけだった。
少なくとも下男や従者ではない。
城持ちの家老衆ではないかと睨んでいる。つまりお艶の方がいる城は虎繁の居城か、支城の一つということだ。武田軍は本気で、織田軍と戦をするつもりだ。
(だったら尚更、岩村城は渡せないわ!)
理由もなく騒げば、坊丸が危ないかもしれない。
生きていると信じていなければ、食事も喉を通らなかった。きっと信純が助けに来てくれると信じているから、飢えるわけにはいかなかった。時が来れば、堂々と城を出ようと思っていた。
「……寒い」
自身を抱きしめ、ぶるりと身を震わせる。
もうすぐ本格的な冬が来る。どこもかしこも真っ白になって一面の銀世界になる。眺めるだけなら美しいが、迂闊に雪遊びを始めようものなら大変だ。夢中になりすぎて手足の感覚がなくなっていることに気付かない。
城の庭で死を覚悟して以来、お艶の方は雪遊びをしていなかった。
寒いと呟けば抱きしめて暖めてくれる人は今、どの辺りにいるのだろうか。岩村城が落ちていたら絶対許さないが、この城を攻略中なのだったら許してあげてもいい。信長には信純以外にも頼もしい家臣団が揃っている。
小さな嫡男もすっかり男前になって、あちこち駆け回っていた。
「あれから、何年経ったのかしら」
「ざっと八年ほどだ」
独り言に反応されて、お艶の方は眉をひそめた。
いつの間に部屋へ入ってきたのか。何やら大きなものを抱えているなと眺めていたら、それをお艶の方に被せてきた。反射的に逃げ出そうとしたものの、ふわりと温かな気配に心が緩む。我に返った時には、綿入れにしっかりと包まれていた。
「礼は言わないわ」
「構わん。そなたに死なれると困る。それだけだ」
「……坊丸に会わせて」
「できぬ。甲斐国へ送った」
「なんですって!?」
それではまるで人質ではないか。いや、正しく人質なのだ。
お艶の方は綿入れの中で唇を噛みしめた。
岩村城から出なければ、意地を張らずに信純と一緒に帰っていれば、こんなことにならなかったかもしれない。完全に足手まといだった。城主であると威張っても、この体たらく。爪で引っかかれるべきは、お艶の方だった。
(でも人質なら、生きているわ。死なれると困るって、この男も言ったもの。坊丸はわたくしと又六郎の子。織田宗家に近い血を引く者を、乱暴に扱うわけがないわね)
だから大丈夫。大丈夫、と自分に言い聞かせる。
坊丸は賢い子だ。母と引き離されて心細く思っても、自らが置かれた状況をきちんと理解するだろう。そして最良の選択を掴めるはずだ。だって「名を惜しむな、命を惜しめ」が信長の口癖なのだから。
生きていればきっと、また会える。そう信じる。
信じて、いたのに。
憎悪を滾らせ、こちらを睨みつける男は誰だろう。
「死ねっ、虎繁様を誑かした毒婦め!」
斬られる直前、なんだか懐かしい単語を聞いた気がした。
昔むかし、お艶の方に近づいた男たちはきまって、そんな風に罵る。お艶の方は何もしていないのに、向こうから勝手に色々妄想していたのぼせ上がったくせに、何もかもお艶の方の所為にする。悪いのはそっちだと責める。
こぷり、と口の中のものを吐き出す。
体は糸が切れた人形のように、崩れ落ちた。
「貴様の所為で、虎繁様はっ」
「そんな人、知らないわ」
ずっと待ち続けているのは、たった一人。
今も昔も、一生かけて恋をした相手は彼しかいない。
「こ、の……っ織田の女がああぁ!」
「お艶様!!」
ああ、これは夢だ。なんて、ひどい夢。
燃え落ちようとする城の奥で、お艶の方は最期の時を迎えようとしている。
血と煤にまみれた男が、その整った顔をくしゃくしゃにしていた。血を流しすぎて感覚のなくなった体は、待ち望んだ人のぬくもりを感じることができない。
「どう……し、て」
迎えに来るのが遅いのよ。又六郎のばか。
いつもの調子で言ってやりたいのに、何故か口が動かない。瞬きをすれば開かなくなりそうな瞼を必死に持ち上げて、ずっと会いたかった人の顔を目に焼きつける。
「まだ、まだ逝くな。私を置いていかないでくれ、お艶様!」
様はいらない、と何度言ったら分かるの。
ぽた、ぽたりと雫が落ちる。彼が今まで見たことがないくらいに泣いているのに、拭ってあげることができない。それが、とてもつらい。とにかく声を出そうにも、掠れた音が切れ切れに零れて落ちる。
信純はその一つ一つを見逃すまいと、目を凝らしていた。
逝くな置いていくなと叫びながら、赤く染まった体を抱きしめていた。
「ま、た……ろく、ろ」
「お艶様!」
「……、…………ぁ」
坊丸をお願いね。わたくしの分まで、生きて。そして――。
「おつや、さ……ま?」
織田を守って。
ねえ。大好きよ、又六郎。
わたくし、ずっと昔から……あなたに恋をしていたの。
声のない言葉が、震える唇から洩れていく。
信純なら、きっと通じているだろうという確信があった。いつだって昔から、信純はお艶の方のことなら、何でもお見通しだったから。
こくりこくりと確かな相槌に、ふわり微笑む。
「あ、ああ……っ、あああああああ!!!」
最期の記憶は笑顔がいい。
美しいよりも、可愛いがいい。そう言ってくれたのは信純だけだから、別れの時も笑顔でいたかった。上手に笑えたかは自信がない。だって笑い返してくれなかったから。
咽喉も裂けよと慟哭が、奥の間に響く。
その涙を拭う者は、もういない。
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それは白い雪が降りしきる、2月の出来事であった
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