228. 岩村城の戦い(後)

 年が明けて天正2年になったが、新年の宴は今までと様相が変わっていた。

 やけに賑やかというか、はっちゃけすぎているというか。熱気がありすぎて軽く引くレベルだったのだが、信純に言わせると俺の所為らしい。

(武田との全面戦争を宣言しちまったからか……)

 おそらく戦場は長篠、設楽原という場所になる。

 三河国にある長篠城の北は、信濃国。家康はそこに、奥平貞昌を封じると決めたようだ。文字通りの最前線である。もし再度の手のひら返しで武田方につくと決めても、井伊谷城のようにはならないと思う。

 現地の地図を作らせてみると、なるほどと思わせる広さだった。

 これなら大規模な鉄砲隊を置くことができる。かの有名な三段鉄砲はとっくに実践済みだ。そのことに気付いて青くなったが、やっちまったものは仕方ない。

 馬房柵と横堀の作成は同時にやる。

 攻めてくると分かっているから十分な備えができる。鉄砲の追加発注、火薬の大量生産、木材をはじめとする資材の調達などなど、金に糸目は付けぬ作戦だ。岩村城が落ちたことを聞いて、各地から続々と家臣たちが集まってくる。

 が、義景たちを含む一部は追い返した。

 全面戦争だが、総力戦じゃない。これ幸いと畿内や越前に攻め込む奴らが出てきたら、一体どうするつもりなのか。答えられなかった者から、すごすごと帰っていった。

「義姉上の容態、いかがですか? お市が見舞いにと、これを」

「……蜂蜜」

 そっと差し出した小さな壺に、思わず苦笑する。

 これが大好物なのはお市であって、帰蝶じゃないのにな。幼い頃からよく懐いていたし、そう何度も会えないから心配なのだろう。文のやり取りは、長政との文通時代にこき使っていた飛脚便が活躍している。整備された街道のおかげで、早く届くらしい。

「後で返礼を用意する。持っていけ」

「ありがとうございます。きっと喜びます」

 どこかほっとしたように微笑む長政を見て思う。

 こいつもお市に何かあったら、理性を吹き飛ばして暴れるんだろうか。史実通りであれば、とっくに亡き者黄金の盃となっている長政は今も「義兄上」と慕ってくれている。安土計画が早く進むように、地元民に声掛けしているそうだ。

 やはり速やかな平定には、地侍や国人衆の協力は不可欠。

(信濃方面も、街道の整備を急ぐか)

 武田家を滅ぼしたら、甲斐信濃は必然的に織田領だ。

 越中衆のことは放っておいても、軍神が何とかしてくれるだろう。飛騨衆に関しては姉小路家に愚痴っておいた。ごく一部とはいえ、武田家に味方する奴がいるのは間違いない。もし今後も援軍として参加するつもりなら、まとめて潰す。選んでいる余裕はこちらにない。

 信忠は俺を真似して温情を与えかねないが、俺は許さない。

 今回ばかりは、信純の肩を持つ。

 お艶の方は、俺がまともに話せる織田一族の一人だ。彼女自身は、親父殿との交流をほとんど持たなかったと聞く。信純が傍にいたのは分家の人間だったからで、二人が結婚できたのは織田宗家が俺に代わったからだ。

 信治は自分で選んだ。

 お艶の方は違う。いつまでも乙女な彼女はきっと、今も信純が来ることを信じている。せめて俺たちが、その想いに報いてやらねば――。

「お濃は、大丈夫だ。悪阻、らしいから」

「それはっ、実にめでたいことではないですか!」

 ぱっと顔を輝かせた長政は、小声で叫ぶという器用な真似をしてくれた。

 大きな声で祝辞を述べそうになって、寸でで思い留まったのは褒めてやってもいい。干したばかりの盃に、にこにこ笑顔で酒を注いでくる。

 悪趣味な金色の骸骨杯ではない。ただの、朱塗りの盃だ。

「珠のような姫君だといいですね!」

「どっちの血でも美形は確定しているからな。男でも、女でも、母子ともに元気であれば何でもいい。お濃が、どうしても欲しいと願った子だが」

 君が死んだら、意味がない。

 そんな小恥ずかしい台詞は本人の前でも言えなくて、俺はただただ酒を呷る。年齢的に、この時代においても高齢出産だ。帰蝶はなかなか子に恵まれない体質である。二人の側室がぽんぽん生んで、正室が嫡男だけということを気にしないわけがなかった。

 それでも実子が一人もいないよりは、ずっといい。

「お濃が望むなら、いくらでもと言いたいが」

 吉乃の最期が脳裏をよぎる。

 女はどうして、子を産みたがるのだろう。そりゃあ子供は可愛い。いくらでも欲しい。毎日成長していくのが楽しくてならないし、政務や何やらで構ってやれない日が続くと不満が募る。家族っていいもんだなと実感できるようになったのは、信忠が生まれてからだ。

 弟妹も可愛いが、子供はもっと可愛い。

「出産は命がけだ。どんなにつらくても苦しくても、代わってやれねえ」

 女は強い。母は逞しい。だからこそ、女は守るべき存在だと思う。

 だからこそ、お艶の方を奪った武田軍が許せない。まだ母親の傍にいたい年頃の坊丸を引き離し、どれほど丁重に扱っていても許しがたい。秋山は信純の獲物だ。美濃守を名乗っている馬場、そして山県は信忠たちにくれてやるつもりなので、俺は武田家の滅亡を望む。

 信玄は、この未来を予見していたのかもしれない。

 甘さを捨てなければ、悲しいことになるぞと警告したかったのか。

(気付くの遅え)

 盃では足りなくなって、徳利を一気飲みした。

 織田の酒は水で薄めてなんかいない。たちまち酔いが回って、大の字でひっくり返った。夢で見たように長政が俺の命を狙っていたなら、ここが一番の好機だ。

「ながまさぁ」

「義兄上、ここで寝ないでください。皆が驚いております」

「うらぎったるぁ、しょおちしねえぞおぉ」

「……ッ。もちろんです、義兄上。その時は――」

 台詞の続きを聞きたかったのに、俺の記憶はそこで途切れている。


********************


 岩村城に秋山虎繁の姿ありとの報せを受け、まず信純が動いた。

 去年とは異なり、事前に入念な準備をしていたので精鋭数十騎を率いての出陣だ。総大将を信忠に指名したとはいえ、今の信純は俺でも止められない。よくも数か月耐えたと言ってやりたいくらいだ。

(お艶の方の安否はずっと確認してきているが)

 一度開戦してしまえば分からない。

 城の奥に幽閉されている以外は、それなりの待遇を受けているようだ。身の回りの世話をする下女を一人つけて、四方に見張りを二名ずつ。そいつらはお艶の方に「近づくな」「話すな」「聞き耳を立てるな」という無茶な厳命つき。話し相手になりうる存在は秋山だけだ。一目惚れからの独占欲かと疑いたくなる。

 お艶の方の好みは信純のような優男タイプだ。

 幼い少女時代から髭面の男に襲われかけた記憶のおかげで、秋山に絆されることはないだろうと思っている。それでも我が妹、お市の例もあるから心配だ。史実では熱血系爽やかイケメンと死に別れて、寡黙で髭面のむさくるしい熊と運命を共にしている。長政がまだ生きているので、お市は未亡人になっていない。

 勝家と再婚するのは、光秀が謀反を起こしてからだ。

「信忠、明知城は年の暮れに取り戻したんだったか?」

 具足の具合を見ていた息子が、ぐりんと振り向いた。

 うわ、びっくりした。今180度回ったように見えたぞ。お前は司馬仲達か。

「明知城以下、17の支城と砦を奪還済みです。あとは岩村城を残すばかりですが、じきに包囲網が完成します。言いつけ通り、鼠一匹逃しませんよ」

 秋山は形勢不利と見て、籠城を選んだらしい。

 あるいは岩村城周辺が織田軍によって取り戻されていくのを知り、慌てて戻ってきたか。あの地は東美濃だけでなく、尾張や三河にも近い。武田軍としては、どうしても確保しておきたい前線の要だろう。

 そしてもう一つ。同じく戦装束の賦秀がにやりと笑った。

「岡崎三郎が上手く武田軍を引きつけている。長篠城は実に良い釣り餌となった」

「ほう、婿殿が出ているのか。奥平も頑張っているみたいだな」

「落城寸前まで耐えれば上等であろうな。長引けば長引くほど、こちらが有利になる」

「おい、賦秀。何を企んでる?」

「俺ではない。策を練ったのは勘九郎だ」

「違う。信純殿と半兵衛だよ」

「お前も混ざっていたのは事実だろうに」

「総大将として、責任があるから」

 当然だとも仕方ないとも聞こえる口振りで、信忠はほんのりと苦笑した。

 ちょっと忘れそうになっていたが、武田勝頼は信忠の義兄にあたる。松姫は信直(義信)と違って、武田家と明確に縁を切ったわけじゃあない。あちらでは今も、行方不明の扱いになっているはずだ。

(もしお艶の方と坊丸のことが勝頼の指示じゃなかったとしても、後に引けねえよな。ここで温情を見せたら、織田家がナメられる)

 将軍を京から追い出した俺には、畿内を守る責任がある。

 上杉と北条、毛利と四国や九州勢が反織田勢力として結託したら、普通にヤバイ。ついでに南蛮、ヨーロッパ諸国のどこかが日本の植民地化に乗り出したら――。

(確実に、負ける)

 日本の未来は真っ暗だ。俺の楽隠居計画も頓挫する。

 次の戦は絶対に負けられない。いや、長篠の戦は織田・徳川連合軍の勝利と決まっているのだ。どんな狙い、意図があって岩村城に手を出したのかは知らない。そんなのは、どうでもいい。武田は潰す。この戦において、甘さは捨てる。

「信忠、忘れるな。やるなら徹底的に、だ。温情をかけるのなら、皆を巻き込むだけの覚悟を決めろ。それができないなら」

「大丈夫です。父上の大事なものに手を出した報いは、必ず」

 わざと途中で切り上げて、にっこりと微笑む。

 帰蝶のブリザードを彷彿とさせる表情に、不覚にも頬がひきつった。側近たちに過保護だの心配性だのと揶揄われる理由は、ここにあったのだろうか。なんだか今日はやけに、息子がおっかない。

「……まあその、なんだ。怪我、するんじゃないぞ? 二人とも」

「平気です。お冬がいますから」

「お冬は置いてけ!!」

 という俺の叫びで、医療班の出陣は取り止めとなった。

 みんなでお艶の方を救出する話まで進んでいたらしく、阻止できてよかったと心から安堵したのは言うまでもない。とっくに信濃国内へ移動しているって聞いていないのか。岩村城にいないから、信純がキレかけているっていうのに。

 ちなみに信直は武将マスク(面具)を付けていった。

 面具もれっきとした防具で、小具足の一部だ。寒い時期にはめちゃくちゃ冷たく、熱い時期には蒸れるわ臭いわで、見た目の格好良さ以外の利点はない。雪がちらつくどころか一面銀世界の今、アレを付けていく理由は「顔を隠すため」だ。

 さすがに可哀想なので内側に布を当て、偽髭をつけてやった。

(ないよりはマシだろ、うん)

 そんなこんなで信忠たちが出陣していき、岩村城攻めが本格化した。

 攻城戦には十倍の兵が必要、とは兵法の常識である。武田軍が籠城している秋山勢と、救援に現れた馬場勢を合わせた6千余りに対して、信忠率いる織田軍は5万を越える大軍だ。足場が悪くて、見通しもよくない。街道は整備が進んでいないから悪路、獣道は当然ながら騎馬で圧し通るには狭すぎる。

 緊急事態だと騒いだ割に時間がかかったのは、攻めにくい地形だからだ。

 少数で救援に向かって返り討ちに遭ったら意味がない。こんなことを言いたくはないが、お艶の方よりも信純や信直の方が織田軍には必要だ。坊丸はその血筋ゆえに、後継者問題へ巻き込まれる可能性がある。

 だから死んでもいい、なんて考えない。

「信長様、少し休まれては」

「単純作業の方がいい時もある」

「はあ」

 心配そうな小一郎(通常ver)は今日も今日とてソロバンの友だ。

 岩村城襲撃の報を受けて、俺たちが抜けてしまったために勘定方の仕事納めは年明けに持ち越された。その穴埋めというわけじゃあないが、俺もソロバンを弾いていた。最終決算書には目を通したものの、片付いていない政務は山のようにある。

 あれやこれやと言葉をこねくり回すより、数字と戯れていたい。

(秋山虎繁は、信玄の代から仕えている。馬場信春や山県昌景と同じく家老衆だというが、家臣団の多くが余所者っていうのは驚いたな)

 甲斐武田氏は信玄の代になって、一気に領土を広げた。

 家督相続に関わる親子喧嘩はさておき、あの老獪な戦略術は若い頃に手痛い敗北を喫してから学んだらしい。虎が覚醒した、とでもいうべきか。軍神と何度もやり合って負けていないのだから、信玄の実力は相当なものだ。

 求心力も、かなり高かったに違いない。

 主君と苦楽を共にすれば、必然的に忠誠心も上がる。奥平のように何度も鞍替えする日和見武将もいるとはいえ、大した理由もなく気分で武田家に仕えようと考えまい。どうせなら裕福な暮らしがしたい。出世したい。戦働きで功を挙げたい。そう考えるのが武士だ。

「主君としての、実績か」

「は?」

「気にするな。いつもの独り言だ」

 お互いにソロバンをはじく手は止めず、俺は苦笑いをする。

 それはひどく、身に覚えのある感情だった。家督を継ぐ前から、嫡男としても器不足だと笑われていた子供時代。親父殿の死で家督を継いでも、家老クラスはそっぽを向いたまま。舌が痛くないのならそれでもいいと割り切ってみたが、そんな簡単な話じゃないとすぐに分かった。

 俺の方から歩み寄っていれば、避けられた戦もあったかもしれない。

 尾張でも、美濃でも、多くの人間が死んだ。

「小一郎」

「…………」

「おいこら、名を呼ばれたら返事しろ」

「あっ、はい! 終わりましたか?」

「終わってねえよ。なあんだ、って顔して再開するな。雪が解けて春になったらよ、花の咲く種を撒こうかと思っているんだが」

「花、ですか。それは夏か秋に収穫するもので?」

「違う。きれいな花が咲くだけの一年草だ。ああ、多年草でもいいな。城の庭みたいな木が中心のやつじゃなくて、一面の花畑になるやつ。ほら! えーと……なんか蕎麦とか、菜花とか、あるだろ」

「菜種油は酸化しやすいので、長期保存に向かないんですよね」

 蕎麦は臭いし、とぼやく。小一郎はうどん党である。

「もういい。忘れろ」

「いえ、良い案だと思います。肥やしを与えても、連作は生産量が落ちますし。きれいなだけの花を育てるのも、人々の心を癒すことでしょう。さすがは信長様です」

「やかましい」

 世辞は聞き飽きた。世辞ではありませんと言い合い、ソロバンの音だけになる。

 どうしてか嫌な予感が、胸の奥から消えてくれない。岐阜城での待機を命じられたお冬は最近、帰蝶にべったりだ。その帰蝶は悪阻がひどく、床から離れられない。

「……雪が、降ってきたな。まだまだ、積もるか」

「馬用のカンジキも作りましょうか?」

「馬が嫌がったらどうするんだ」

「うーん、それは困りますね」

 冬は戦をしない。積雪をものとしないのは物好きで戦狂いの軍神くらいだ。

 そう笑っていた頃が懐かしい。


『いいこと、三郎! 織田家に恥じる行いをしたら、許さないんだから』


 爪で引っかいてやるわと、高飛車な女の声がする。

 黙っていれば色気むんむんの熟女なのに、中身は残念な乙女。それがお艶の方だった。年が近いせいで、叔母というよりは姦しい姉みたいな存在だった。顔を見る度にぎゃんぎゃん騒いで、それが不思議と嫌じゃなかった。

「信長様?」

「ん、……ああ。変だな、なんで涙が出てくるんだ」

 悲しいことなんか何もない。

 信忠たちは戦勝の報告を持って、近いうちに帰還する。絶対の確信で断言できるのに、どうしてか胸が苦しい。軋むような痛みがある。

 右目からの涙がぽたりぽたりと落ちて、紙にシミをつくった。





********************

岡崎三郎...ここでは松平(徳川)信康のこと。長女・お五徳の夫なので「婿殿」

浜松城へ移った家康の代わりに、岡崎城へ入ったので祖父に倣って「岡崎三郎」と名乗る。


小一郎...ご存知、秀吉のデキる弟。諱は「秀長」。しばらくは地の文でも「小一郎」のまま

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