227. 岩村城の戦い(前)
そこは東美濃における要所だった。絶対に奪われてはならない城だった。
ひたすら馬を飛ばす最中、ふいに誰かが叫ぶ。
「前方で煙が……!」
「岩村城が落ちた、か」
「どうする、織田の父」
「周辺にありったけの斥候を出せ。鶴岡山に陣を布く!」
支城も落とされている可能性は大きい。
何よりも武田軍が国境を越えたことに、今の今まで気付けなかった。致命的なミスだ。物見が潰されていたか、偽の情報を掴まされていたのか。岩村城は対武田の防衛ラインだ。西信濃の山中でダム建設の話が持ち上がっていたのもあり、国人衆を刺激しないように軍備縮小したのが裏目に出た。
てっきり武田軍と戦うのは、三河か遠江の徳川軍だと思っていた。
(ただの思い込みだ。どうしてそう考えた!?)
あるいは松姫や信直がいるから、織田と戦わないかもしれないと希望的観測に縋ってしまった。勝頼の求心力が落ちている場合、甲斐・信濃の国人衆が勝手な動きをしても不思議じゃない。もしも本当に「太郎義信」という神輿を探しているのなら、真っ先に岩村城が狙われる。義信が殺そうとした
懐から望遠鏡を取り出し、目を凝らす。
もう少し高いところへ行かないと分からないが、かなり大規模な火災が確認できた。いくつもの煙が上がっている。城が落ちただけでなく、周辺の村も焼いていったかもしれない。収穫した後の田畑はともかく、家を焼かれると今年の冬が越せない。
「岐阜城へ伝令! 兵をありったけ集めて、信長の下へ参じよ」
「はっ」
「家康には、三河・遠江の国境から武田軍を牽制するように伝えろ。本格的な開戦は徹底的に避けて、南への警戒を誘うんだ」
「御意!」
「……
お冬を連れてきたのは失敗だったかもしれない。
不安げな呟きをもらす彼女の傍に、賦秀が寄り添う。妻を気遣う夫の図に見えなくもないが、いきなり飛び出していかないように見張る意図もある。若武者のふりをして単騎駆けしたのは一度や二度じゃない。
こんなことなら信純を先に行かせるんじゃなかった。
「又六郎、無茶するんじゃないぞ」
俺があいつの立場だったら、当然ながら大人しくしていない。
それこそ単独でも敵陣に突っ込んでいく。悠長に陣容を調べている暇なんかない。大事な奴らの安否が最優先だ。どこにいるのか分からないのに突っ込んでいく無謀はもちろん、承知の上で。
ぎりっと奥歯を噛みしめ、拳を固める。
斥候が戻ってくるまで時間があると分かっているのに、今までの経験から大体なんとなく察してしまう。信純も、信直も、俺たちが岩村城へ向かっていることは分かっていたはずだ。
煙が見えるほど接近しているのに何もない。
どこかで誰かが戦っている様子もない。
「静かだ」
俺の呟きに応える者はいなかった。
そうしているうちに鶴岡山の位置を確認できたので、全員で移動する。後続部隊は鶴岡山を目指すように伝令を出し、完全に日が落ちるまでには天幕の用意が間に合った。
そして、数日が経過した。
「アケチ城で謀反、だと?」
時代先取りしすぎだろ。
この報告を持ってきたのが明智光秀じゃなかったら、謀反人として緊急指名手配していたところだ。美濃国
武田軍を引き込んだのは、そいつだ。
謀反を起こした
ここまで深く入り込まれてしまっては、一度仕切り直すしかない。
頭では分かっていた。後手に回ってしまって、打つ手がない状態だ。お艶の方と坊丸の安否は不明なままで、おそらく武田側の虜囚となっている。すぐには殺さないだろう。二人の死が明らかになれば、俺たちは武田軍と戦う理由ができる。
正面からぶつかって、徹底的に潰す。
(勝頼が、そんなに馬鹿じゃないことを祈るばかりだな)
伝令の情報が行き交い、本陣の中まで慌ただしい。
俺だけが一人、まんじりともせずに座っていた。アウトドアでもお役立ちの折り畳み椅子こと床几は、木と布で出来ている。数多く量産されていて、軍議には全員分が揃う。
今は空席だらけの場所に、物々しい音が近づいてきた。
俺は無言で、刀を手にする。
味方じゃなかったら斬るつもりで、ゆっくりと立ち上がった。
「も、もうしわけ……ございま、せぬっ」
謝りながらその場に崩れ落ちたのは、満身創痍の信直だった。
背負っていた男がずるりと落ちる。声もなく、床几を蹴飛ばして駆け寄った。顔が見えなくたって分かる。長い付き合いだ。血まみれで、髪はばらけて、鎧もボロボロで、傷を負っていない箇所を探すのが難しいくらいの酷い有様である。
「又六郎!! おい、しっかりしろっ」
「……ごめん、お艶様」
「ド阿呆! 俺は三郎だっ」
咄嗟に襟首を掴もうとしたが、信純は気を失っていた。
信直もかろうじて意識があるものの、手当が必要な状態には変わりない。お冬たちを呼んで、安静にできる場所へと移動させた。
「あ。お待ち、くだ……さ」
「話は後にしろ。岩村城が落ちたのは知っている」
「坊丸様は、甲府へ送られ……て。お艶様は、秋山が」
「秋山?」
「
「恒興、秀隆」
「申し訳ありません。遅参の責は如何様にも」
二人とも沈痛な面持ちだ。
伝令を受けて、すぐさま岐阜城を発っただろうに叱っても仕方ない。来て早々に悪いが、高野と
人ん家に土足でコソコソ忍び込んで、お宝を奪っていった奴らの真似はしない。
**********
天正元年12月、寒さが身に堪える時期である。
俺たちは一度、岐阜城へ戻ってきていた。
あのまま残っていても、やるべきことはないからだ。かなり無理をして情報を集めたところ、秋山虎繁の軍は信濃国まで退いたらしい。奴の居城は伊那郡の飯田城である。お艶の方は今、そこにいるかもしれない。
武田方にとっては、坊丸ともども人質としての価値がある。
「他には武田方に組していた越中、飛騨からの数十騎。主な旗印としては山県昌景、馬場信春のものが確認できたそうです」
「また山県か! いい加減、しつけえぞ山県」
怒りに任せ、脇息を力いっぱい叩いた。
そんな俺を見て、信直はがばりと平伏する。
「申し訳ありません。私の所為で、このような事態に」
「あァ? 今、誰がなんつった。ぶん殴られてえのか」
「ならば、私を殴ってください。父上より東を任されたにもかかわらず、内通者の可能性にすら気付かなかった私を……あぐっ!」
殴れと言われたので遠慮なく殴った。勢いで足も出た。
家庭内DVどころか家臣たちの前で公開処刑になってしまったが、痛みで蹲る二人を庇おうとする者はいない。俺は冷ややかな目で見下ろして、定位置に戻った。
「奥平のことなら見当違いだ。何のフラグだったのかを読み間違えたというのならば、そうなんだろうよ。信直を餌にしたのが裏目に出たな、又六郎」
「…………三郎殿も、皮肉を言えるようになったんだね」
「ひでえ顔だな。ちゃんと睡眠とってんのか」
「寝ているよ。体調不良を理由に待機を命じられたくないし」
そう言って、信純はぞっとするような笑みを浮かべた。
目が落ちくぼんで、頬はこけ、明らかに顔色が悪いのに、何やら妙なオーラを纏っているように見えてしまう。ここで、こうして軍議に加わっていること自体が不本意なのだ。理性では必要なことだと分かっていても、心は東美濃に置いてきている。
想像の中で、秋山虎繁を何度も殺していそうな顔だ。
「お艶に手を出したら、削いでやる」
何をとは聞かないでおく。
信直を養子に迎えたとはいえ、今もお艶の方が岩村城主だ。次期城主として育てられているはずの坊丸も、敵の手に落ちた。もともと織田の分家だった信純と、俺の叔母にあたるお艶の方の血を引く子供だ。交渉材料としては、これ以上ない価値がある。
(うっかり殺したり、傷つけたりしたらどうなるか……分からない愚か者じゃねえことを祈るばかりだな。お艶の方はリアルAV女優だし、手を出すなっていう方が無理だろ)
なんて考えていたら信純に睨まれた。
「囚われたのがお濃様だったら」
「潰す」
最後まで言わせないし、何をという気もない。
武士の矜持など犬に食わせてやれ。女を大事にできない奴に、男の尊厳など不要だ。この時代に生きていることを後悔させてやる。どんなに悪辣なことをしても、理由があれば大体なんとなく許される。織田領の中においては、俺が法だ。
中央の覇権をほぼ手中に収めた俺が、ルールだ。
「皆、聞け。武田の、四郎勝頼の意思はよおく分かった。虎のおっさんは稀代の戦上手だったが、目的のために手段を択ばないこともあった。織田と武田はかつて手を取り合った時期もあったが、目指すものが異なるゆえに袂を分かつことになった」
「…………」
「甲斐信濃は、美濃尾張に比べて土地が貧しい。豊かな土地を求めて、手を伸ばしてくる気持ちは分からんでもない。真っ当な理由で交渉されたなら、塩でも何でも分けてやる。そんな関係だったのは、そう遠い昔でもなかったはずなんだが……奴らはもう、忘れちまったらしい」
乱世は終わる。欲しいからと、力づくで奪い合う戦はもはや古い。
勝頼に同情しない。武田家臣どもを、武士として尊重しない。
確かに俺たちは甘かった。西ばかりに目を向けて、武田家の内情は詳しく知ろうとしなかった。もし俺や信忠がその気になれば、有能な忍たちが片っ端から情報を吸い上げてきてくれただろう。
これは、ただの怠慢だ。
もう間違えない、過ちは犯さない。大事な奴らを守りきると決めたくせに、すぐ気が緩む。俺は本当に、どうしようもない奴だ。やっぱり天下人には相応しくない。そんな資格はない。
「だが武田は潰す」
きっぱりと宣言すれば、地鳴りのような応答が返ってきた。
「まずは岩村城を奪還する。明知城以下、全ての城を取り戻した後に完全包囲する。鼠一匹逃がすな。一人残らず、殺せ」
「父上! それはいくら何でもやりすぎではっ」
「黙れ、信忠。貴様に岩村城奪還の総大将を命ずる。万事滞りなく、成し遂げろ」
失敗は許さないと言外に含めれば、信忠はぐっと顎を引いた。
開戦のタイミングは河尻・池田に任せた城の完成だ。といっても、最低限の機能さえあればいい。防衛面は戦の後からでも十分間に合う。お艶の方と坊丸には長く待たせることになってしまうが、待てるかどうかは武田側の出方次第だ。
マテができない
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