222. 長篠への足音

 誰かに言われるより、自分で宣言しちまうと気が楽になるものだ。

 隠居へのカウントダウンが始まったと思うだけで、心浮き立つ思いがする。さてよき日を狙って大々的に公表してやろうと狙っていた矢先、東から爆弾兵奥平がやってきた。

「…………越前ガニ……」

「はっはっは、殿は変わりませぬなあ」

「食い意地が張ってるって言いたきゃ言え。何でも先取りしやがって」

 こんちくしょう、信盛のやつめ。

 俺の睨みなど針で刺された程度にも感じないとばかりに、泰然と構えている。隠居の話どころか、そういう気配すら見せていないはずなのに倅へ家督を譲っていた。つい先日のことだという。信忠はそのことを知っているんだろうか。信盛と違って信栄は真面目で実直な若者だから、ちゃんと自己申告されている気がする。

「お前が顔を出したってことは、畿内の情勢は大体片付いたんだな?」

「大体、凡そでござる。西国への道はいささか不穏な気配があることも踏まえ、長曾我部との同盟は急ぐべきかと。なんなら、金柑を使者として送り出せばよろしい」

「柑橘同盟かよ」

 四国といえば蜜柑、というのは俺の偏ったイメージだ。

 信盛にまで金柑呼ばわりされた光秀の頭髪が心配になったが、謀反の理由に長曾我部のことがあったような気もする。お互いの嫁が姉妹で、元親と光秀は義兄弟だったはず。義理堅い光秀が何も言ってこなかったのは、今のところは長曾我部に友好的だと思っていたからか。

 だが、これから先はどうなるか分からない。

 長曾我部がどんな思惑を抱えているかも不透明だ。

「毛利家の返答を聞いてからにしたい」

「あちらも動向と意図を探っているのでござろう。殿はいささか天邪鬼な一面をお持ちゆえ、気が付いた時には属国……という憂き目は避けたいと考えても、何ら不思議ではありませぬ」

「なんで属国」

「織田に逆らうなら降伏か従属、二つに一つでござる」

「いや、なんでだよ」

 逆らう前提な辺りが不穏すぎる。

 そもそも毛利家は畿内の国へ手を伸ばせるほど、勢力拡大できていない。長曾我部家は土佐一国で、残りの三国とも内情が落ち着いているとは言い難い。だからこその四国統一を願っていたのだが、やっぱり他力本願すぎただろうか。

(かといって織田領を広げると後が面倒だし、やっぱり元親に四国統一してもらいたいんだよなあ。同盟結んだら頑張るっていうんなら、考えなくもない)

 資金に武器の支援は惜しまない。

 伊予柑というだけあって、伊予国には蜜柑があるはず。讃岐国はうどんだ。つまり、小麦の生産国でもある。四方を海に囲まれていて、山もある。戦をしている場合じゃない。土地開発を進めていけば、いくらでも豊かになれる。

「うどんもいいな」

「蕎麦がきもよいものですぞ」

「東は、信忠に任せると決めた。俺は知らん」

 出自が奥三河なのに武田家臣という辺りで、もう不穏すぎるだろ。

 奥平ナントカと名乗っていたが、開口一番「太郎を出せ」とか何かよく分からないことを喚いていた。会わせてくれるまで帰れないと言うから伴太郎を呼んだら、コレジャナイ感満載だったな。うんまあ、最初から知っていた。どの太郎さんをお探しなのかは。

「諏訪四郎人望なさすぎワロタ」

「そもそも諏訪御料人からして、略奪婚の戦利品。不仲であったとも、表向きはそう振舞っていただけとも聞いておりますが」

「もういい加減、金山も掘り尽くした頃だ。もともと甲斐信濃は豊かな土地じゃない。だからこそ、国人衆も生きるのに必死だ。親父信虎を追い出した後、虎のおっさんが苦労してまとめ上げていたものを息子が同じようにまとめられるかっつーと……」

「難しいでしょうな。義信事件の後、ご家来衆には徳栄軒殿へ従うように誓文を書かせたと聞いております。殿も同じようになさるか?」

「やらねーよ」

 そんな紙切れに、どんな意味があるというのか。

 主君に書けと言われたら、こぞって書くだろう。半ば強制的に書かせたモノなんか無価値だ。信玄に忠誠を誓っても、勝頼には誓えないと言われたらおしまいである。同じことが織田家にも言えるから、全然楽しくない。

「太郎義信が本当に虎のおっさんの命を狙ったかどうかは、ともかく」

「ともかく」

「奥平とやらは、太郎サマに忠誠を誓いたいわけでもないのに『出せ』とは妙な話だよなあ。今は、赤備えの山県昌景に仕えているそうじゃねえか。武田四天王の一人とまで呼ばれている奴が、殺し損ねた相手を歓迎するとは思えん」

「もう一度殺しますか」

「邪魔になるからな。殺すだろ」

 うちに武田太郎義信なんていう男は、亡命してきていない。

 いるのは織田又八郎信直という、お人好しなくらい情に厚い青年だ。泣き虫奇妙丸こと、信忠とは相性がいい。賦秀ともども、しっかり支えてくれるに違いない。

「冗談はさておき。……恒興」

「は。相良油田のことは、既に北条家に伝わっている模様です。何度か不審な影を見た、という報告を受けております。また、上杉側でも動きがありました」

「慶次が何かやらかしたか?」

「越中併呑は、殿のご提案でしょうに」

「ああ、そっちか。どこぞの誰かさんと違って、動きが早くて助かる」

 軍神相手に上手くやっているようで何よりだ。

 だが先日届いた文には、俺と戦したがっているらしいとあったので安心できない。武田勝頼は軍神の好敵手たりえるか。若すぎるし、戦の経験も少ない。虎の遺伝子に期待するとしても、内紛以外で戦になるとしたら上杉か、織田か、徳川だ。今川家はほぼ徳川家に臣従したも同然で、北条とは戦う理由がないように思える。

 亡き信玄の背を追うなら川中島、あるいは三方ヶ原の再現か。

「先代に忠誠を誓った家臣たちに、自分を認めさせて振り向かせるのはなかなか骨が折れる。俺にも覚えがある」

 そう呟けば、恒興たちは何とも言えない表情で押し黙った。

 元服前から付き従ってくれた側近以外で、真っ先に臣従の意を示した信盛すら色々あったのだ。それを思えば、勝頼の苦労が偲ばれる。どんな才を秘めていても、信玄と同じことをやろうとしても、きっと家臣たちは勝頼を認めない。

 彼らには彼らの思いがある。矜持がある。

 ましてや信玄と最後に語らったのは、勝頼ではなく――。

「しまった」

「殿?」

「半介。急ぎ、信忠のところへ行ってくれ。武田領内の状況を詳しく知りたい」

「御意」

「恒興は浜松城へ使いを出せ。奥平に離反の意志があるのなら、奥三河を取り戻すチャンスだ。政略結婚でも何でもいいから、受け入れろと伝えろ」

「承知しました」

 二人が慌ただしく出ていったのと入れ替わりに、信純がやってきた。

「やあ、三郎殿」

「なんだか久しぶりな気がするな」

「まあ、ね。お互いにあちこち移動してたから、なかなか顔を合わせる機会がなかったし。正月以来かな」

「半年以上経ってんな……。元気そうで何よりだ」

「ありがとう」

 にっこり笑うと、顔の皺が目立つ。

 俺よりも年上だということを、今更ながらに思い出した。年を取るのは自分だけじゃない。老齢を理由に一線を退いたり、代替わりで若い顔が増えたりする。

「そういえば三郎殿、隠居するんだって?」

「ああ、近いうちにな。安土城が完成したら、そっちへ移るつもりだ」

「齢五十を待たずに楽隠居かあ。信秀様は四十二で亡くなられたんだっけ」

「覚えてない」

「どうせなら後二年ほど待ったら?」

 親父殿と同じ年で家督を譲れ、と言いたいらしい。

 健康には気を遣っているし、これから先10年は元気でいられると思う。本能寺の変までに死なないだけで、死ぬほど苦しい目に遭うのは嫌だ。病気は断固拒否。忙しすぎて寝ている場合じゃない、というのもあるが。

「二年もあれば何とかなる、か」

「なるんじゃなくて、するんだよ。子供に苦労させたくないんでしょ」

「ああ」

 信純の言うことは、いつでも正しい。

 おかげで俺は思い出した。信玄亡き後、勝頼は家臣団の信頼を取り戻すために三河侵攻を決断する。発端はなんだったか忘れたが、織田・徳川連合軍に武田軍が敗退してしまう。戦場は長篠、設楽原だ。最強を誇った武田騎馬隊が破れ、甲斐・信濃の国人衆はバラバラになる。勝頼はその後の戦でも敗北し、追い詰められた末に自刃して果てる。

(昌景は『太郎』が生きていることを知っている)

 信玄は道中で倒れ、甲斐国に帰ることが叶わなかった。

 おそらく勝頼は、信玄の死に立ち会っていない。武田家に忠誠を誓っている昌景が、武田を捨てた「又八郎信直」に未練を感じるとは思えない。だが、奥平は日和見の将だ。どこかで「太郎義信」が生きていることを知った。あるいは死に瀕した信玄に、俺たちが会っていたことを知った。

 今や西信濃はほぼ織田領だ。

 国人衆も友好的で、東美濃との出入りもある。もし織田と武田が全面戦争に発展したら、信濃国の国人衆はどちらに味方するだろうか。信忠の正室・松姫の出自も隠されているが、二人が許嫁であったことを覚えている者は気付くかもしれない。

 織田と武田の密かな繋がりが、勝頼への不信感に変わったとしたら?

 信玄は勝頼ではなく、信忠を選んだのだと考えるかもしれない。舅殿が実子である義龍よりも、俺に後事を頼んでいったように。

「もし四郎勝頼殿が戦を望んだら、君はどうする?」

「決まっている。受けて立つさ」

 それは信玄との同盟を破棄した時から決まっていた。

 手を繋いでいられなくなったから、離した。織田からの支援は大きかったはずなのに、信玄は家臣団を優先したのだ。ああ、その頃から火種は燻っていたのか。

 だとすれば、義昭と同じだ。奥平は、沈み始めた船から逃げ出した鼠だ。

「……東は、信忠に任せると言ってある。もし信忠が和平を望むなら、それも一つの選択だと思う。正しいか、正しくないかは別として」

「奥平のことは?」

「受け入れ先は、徳川だ。織田には入れてやらん」

 信直に忠誠を誓いたいと言い出しても、信用できない。

 元鞘に収まればいい。家康のところには氏真もいるのだ。好きな方を選んで、この乱世を生き延びるだろう。どんな道を進むも、そいつ次第だ。





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国人衆に手を焼いていたのは武田家だけではないようで、当代で何とかまとめ上げても世代交代でバラバラになってしまったケースもあります

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