【挿話】 奇妙丸、織田家の家督を継……がない
父、信長の爆弾発言はいつものことだ。
何の前触れもなく、とんでもない話をぶちまけて、なんだかんだで押し通してしまう。織田家当主だから、じゃない。織田信長だからだ。誰かが父と同じことをやろうとしたら暴君だの、独裁者だのと謗られるだろう。
尾張国の統一を果たしてから、中央の覇権を握るまでに至った。
この日ノ本で織田信長以上に強い力を持つ武将はいない。とうとう幕府の最高権力者である征夷大将軍まで倒してしまった。朝廷にも一連の出来事は通達済みだというから、その人脈の広さは計り知れない。
父は、信長は天下を望まない。
誰もが願うことであるのに、これまで多くの人々の願いを叶えてきたのに、これだけは譲らない。天下を獲るという発言は何度かあったというが、実現に向けて動き出さないところを見ると本心ではないのだろう。
父は、これ以上の国土拡大を望んでいない。
「織田の父は、日ノ本全体の統治権よりも重要視しているものがある」
「うん。私も、そう思う」
妹のお冬を娶り、一足先に蒲生家の家督を継いだ忠三郎賦秀。
義弟でありながら、あらゆる面で信忠の上を行く。堂々たる振る舞いには劣等感を抱えずに入られない。幼い頃には何でも褒めてくれた父も、最近は賦秀ばかりを見ている気がする。信忠を見る目に厳しさが増したというよりも、見定められている気がするのだ。
当主に相応しいか。織田家という大きな荷を背負う価値があるか。
この乱世を生き抜く覚悟があるのか。
「半兵衛もさすがに諦めちゃったみたいだよ。ここのところは体調を崩すことも増えたみたいで、ちょっと心配だ」
「先の宣言を聞いた途端、猿めに媚びを売り始めた不忠者ことなど、どうでもよかろう。それよりも忘れたのか。織田の父が隠居するとなったら、側近連中もこぞって隠居するぞ」
「え? それは困るよ!」
「だが、ありえぬことではない。俺のように家督を継いだ者は半数にも満たないが、これを機に代替わりが進む可能性もある」
「ううっ、そうか。皆にも苦労を掛けてしまうな」
そんな日は、まだまだ先だと思っていた。
父は壮健であり、安土計画も始まったばかり。
経緯はどうあれ征夷大将軍を追放してしまった今、中央での最高権力者は織田信長であると誰もが思うだろう。そこに隠居宣言まで周知されてしまったら、その座が信忠に移るのだ。早く一人前になりたい、後継として認められたいと思ってきた信忠だが、そんな大きなものを背負う覚悟はまだできていない。
まずは実績からだと、色々なことに挑んできた。
父が村を復興させることから始めたように、民の救済こそが急務だと思った。治水工事を進めて田畑の安定化を図る。生産率が上がれば、民は潤う。どんな高い技術も、その土地に合ったやり方に変えていかないと意味がない。
次に商人たちだ。
物がなければ商売は成り立たないし、円滑な流通が行われるところでは街が賑やかになる。人が集まれば、より多くの物が動く。食べ物、道具、そして情報。父がよく城を出て市井へ下りていくのは、正しく物見遊山だった。
ただ見ているだけ。勧められては味見をして、品物を吟味する。
子供の行列ができていることも多く、岐阜城に戻ってきている時は一番可愛がっている末娘のお藤を連れていく。於次丸たちが「まおー」と呼ぶので、織田塾へ入ったばかりの子供たちも同じように呼んでいるらしい。
第六天魔王。人の望みを叶え、それを自身の喜びとする天魔の王。
欲望のままに生きることを否定し、節制を重んじる仏の教えには反する存在だ。坊主嫌いを公言しつつも、多くの経典の内容を諳んじる信長が知らないはずはない。
父のようになりたい。でも、父に勝てる気がしない。
その背はあまりにも大きく、そして遠い。
『奇妙丸!』
幼名で呼ばれるのは、未熟さを指摘されているようで辛い。
それとも元服の儀を待たず、勝手に「信」の字を名乗ったことを許してもらえていないのだろうか。信長が本気で怒ったところを家臣たちは目の当たりにしているが、信忠は一度も見たことがない。家族の前ではちょっと情けなくて、甘えたがりで、格好悪い人だ。信忠の生母であり、正室・帰蝶には全面降伏している。
本人は否定しているが、かなりの女好き。
出自や年齢問わず、女には甘い。男には誰でも厳しい、というわけでもなく。
「お前はお前だと言っているだろう。何故、それが分からんのだ」
「忠三。それでも私は、僕は父上のようになりたいんだ」
人々の願いを聞いて、それを叶え、喜ぶ民の姿に自分まで嬉しくなる。
そんな人になりたい。だって信長は自分勝手に自由気ままな生き方を満喫しているように見えて、とてもお人好しなのだ。上手く利用されても怒らない。死を与える時ですら、相手の為に決断する。
だから皆、信長のために命を賭す。
(彼らは、僕のために命を懸けてくれるだろうか)
それ以前に、当主として認めてくれるだろうか。
父にすら認めてもらえない出来損ないの自分に、何が誇れるだろうか。ずぶずぶと深く沈みかけた思考に、一筋の光が差す。
『勘九郎さま』
それは可憐な少女の姿をしていた。
初めて見た時、野に咲く花のようだと思った。どこもかしこも小さくて幼げな印象を抱かせる彼女は、虎の娘とは思えないほどに可愛らしい。そして今は、誰よりも愛おしい。
「……姫」
「呼んできてやってもいいが、後にしろ」
「え?」
賦秀に促されて顔を上げた。すると、信栄たちがどやどやと部屋へ入ってくる。
早くも家督を継ぐ話を聞いてきたのかと思いきや、なんだか表情が硬い。特に森勝三改め、
「若様! 一大事にございます」
「何があった」
まるで近侍のように先んじて問うた賦秀をぎろりと睨み、信栄は信忠に一礼する。
どっかと腰を下ろす年下二人に並んで、利治と信直もそれぞれ座した。正確には信直を両側から挟む形で長可と忠正が胡坐をかいている。
「先程、急使が参りました。奥三河の奥平美作守の使いと名乗る者が、信長様にお目通りを願っているようです」
「奥平?」
「元今川家臣で、桶狭間の戦い以降は徳川家へ属しておりました。しかし武田信玄による駿河侵攻が始まると武田方に離反し、今は山県昌景の下に仕えております」
「なるほど。だが今、武田と織田はあまり良い関係とは言えない。再び徳川家へ恭順の意を示すというのなら分かるが、何故こちらに使いを寄越したのか」
「ふん! 今になって、
「勝蔵。その言い方では、まるで又八郎が手引きしたように聞こえる」
「なんだよ、平八のくせに」
「又八郎は殺されかけ、武田を捨てた。なのに今更、甲斐へ連れ戻そうと考える方が悪い!」
「だから、そう言ってんだろ」
「言ってないよ!」
「二人とも落ち着いて」
すぐ言い合いになるのは昔から変わらない。
信忠が間に入って、ようやく口を閉じるのだ。そして話題の中心である信直は申し訳なさそうに唇を引き結び、膝に置いた拳は小さく震えている。その胸中にあるのは怒りか、悲しみか、それとも――。
そんな彼らを見やり、利治が言った。
「信忠様にとっても、他人事ではないと思うよ」
「……うん。今の武田家は四郎勝頼殿が当主となっているはず。それも先代、武田信玄が認めた後継者だ。なのに、家臣が勝頼殿のことを認めていないっていうことだよね。本当に連れ戻そうと考えているのなら、勝頼殿をどうするつもりなんだろう」
「知れたこと! 勝頼を廃し、又八郎を武田の当主に据えるつもりなのだ」
「ダメだって、勝蔵。それ全部、あんたの妄想じゃないか」
「うるさい、平八。それ以外に何があるっ」
鼻息荒く問われ、忠正はぱちぱちと瞬きをした。
「えっ。そりゃあ、その……武田家はもう終わりだから徳川家に戻りたい、的な?」
「なんだ、その軟弱な物言いは!!」
「俺じゃないよ、奥平って人の考えだよっ」
「貴様こそ妄想ではないかっ」
「先に言ったのは勝蔵だからねっ。俺はこう思うっていう、ただの意見だからっ」
「徳川に戻りたいのなら、家康殿のところへ使者を出すべきでは?」
「分かってないなあ、甚九郎。今川、徳川、武田と仕える主君をころころ変えちゃう家臣を、誰が信用すると思うの? 俺は嫌だね」
「むう」
一理あると思ったらしい。
黙り込む信栄を見やり、信忠は溜息を吐いた。
確かに他人事じゃない。武田信玄も大きな人だった。信長が認めるほどの相手だ。ついに正面衝突することなく終わったものの、それは互いに戦を回避しようと動いたからだと思う。
ぶつかり合えば、どちらも大きな被害は免れないと分かっていたのだろう。
古参の家臣たちは武田家に仕える。信玄に心酔していた者たちは、勝頼に対して信玄と同等かそれ以上の価値を求める。信濃の地で病に倒れてから数年、当主の器を見定めるには十分すぎる時間だ。
(見定められて、しまったんだろうな)
勝頼は松姫の異母兄で、信直の異母弟にあたる。
その奥平という男が現状に不満を抱いているのは間違いなさそうだ。何度も主君を変えた理由も、織田家に使者を送ってきた理由も、今はまだ想像するしかない。
そこまで考えて、はたと気付いた。
「忠三」
「ああ、おそらくはそうなるだろう。織田の父はそう簡単に、発言を撤回しない」
「はン? 一体、何の話だよ」
怪訝そうな長可に、じゃんけんで負けた話をした。
流れで家督を継ぐことも告げてしまったが、武田の内情を考えると複雑な気分だ。皆もそうだろうと憂鬱になりかけていた信忠の耳に、歓喜の声が届いた。
「おめでとうございます!!」
「おめでとうございます、若。あいや、殿? 若殿? まあ、何でもいいや。こっちには又八郎がいるし、その奥平の使いとやらも若殿の所へ回されるだろうし。思いっきり蹴り飛ばしていいんだよな、なっ?」
「ダメだ。使いの者は代理人なんだから、丁重に扱う」
「大人しく又八郎を渡せって言われたら?」
「丁重にお帰りいただく」
信直は渡せない。
はっきりとそう告げれば、一同にほっとした空気が広がる。信直はやはり素直に喜べないようで、何とも複雑そうな面持ちだ。握りしめた拳もそのままである。
奥平が属しているのは山県昌景率いる軍。
信直が信玄暗殺を企てたと密告したのも、幽閉されている甲府東光寺を包囲していたのも山県昌景だ。小柄な男で不器量ながらも、昌景率いる軍勢は武田の「赤備え」として畏怖される。武田四天王の一人とも称される男は、きっと勝頼の信が厚い。
「武田の罠とも考えられるが、どうだろうな」
「楽しそうだね、忠三」
「織田家当主としての初陣に、これほど良い相手はないぞ。武田騎馬隊、赤備えをさんざんに蹴散らしてやれば、誰もがお前のことを認めよう」
まだ継いでいないのに気の早いことだ。
それに、と賦秀は目を細める。
「よしんば離反の意があるのだとして、……そのような不忠者を織田に加えてやる必要はない。奥三河は徳川家のもの。日和見の将など、家康めにくれてやればよい」
「お前が言うように、離反こそが罠だったら? 徳川が攻められてしまうかもしれない。家康殿は織田の同盟相手でもあるし、相良油田は父上がすごく大事にしている。あの地が危うくなるのは避けたい」
「ならば、再び離反できぬようにするしかあるまい。徳川の姫を与えてやれば、深く感じ入って変わらぬ忠誠を誓うかもしれんぞ」
「あー。そういえば、お冬様が嫁ぐ前は蒲生家も織田家臣じゃなかったもんな」
「織田家への忠誠は、我が妻のためだけではない。が、否定はしない」
賦秀が妻の話をする時は、鷹のように鋭い目がほんの少し和らぐ。
その溺愛ぶりは有名なのだが、恋愛結婚であることは意外に知られていない。しかも信長が散々渋った挙句、ほぼ事実婚だった部分は意図的に隠されている。子煩悩で知られる信長が、可愛い娘を元敵方の将(の子)にかすめ取られたなんて恥ずかしくて言えないからだ。
(甲斐国は松姫の故郷。できれば、戦火に晒したくない)
本音を言えば、勝頼とも戦いたくない。
それでも賦秀の考えは尤もだ。武田軍を打ち破れば、信忠は織田家当主として正式に認められるに違いない。織田家には潤沢な資金と軍事力がある。半兵衛をはじめとする軍略家もいるし、信忠自身もたくさん勉強してきた。
負ける戦はしないのが織田家の、信長の流儀だ。
避けられる戦は避ける。やるなら徹底的に。戦乱が長引けば長引くほど、最も苦しむのは民なのだから。
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信忠の側近たち・まとめ(ざっくり年齢順↓)
縁あって、信忠のお目付け役として就任。基本的には口を挟むことなく、後方で控えている系策士。暴走しがちな若者たちを温かく見守りつつ、適度に放置し、やりすぎないように調整する
半兵衛が秀吉の傍につくようになったため、信忠の傍に残った。後ろから見守り系お兄ちゃん。基本的に何があっても止めないが、何かあったら盾になる覚悟は常にしている
廃嫡され、殺されかけたところを信忠に救われて以降、側近として仕える。現在の身分はお艶の方の養子で、織田信純の義息。実子の坊丸がいるため、今のところは織田藤左衛門家を継ぐ権利がない
信忠の義弟にしてマブダチ。ノブナガを織田の父と慕い、信忠に生涯の忠誠を誓っている。隙あらば次期当主の座を狙っていたが、王にならない方が面白そうなので参謀役に徹している
信忠の幼い頃から仕えてきたお兄ちゃん枠。そこそこに文武両道で、いつの間にか家督を継がされていた。一の家臣の座をめぐり、長可と争っている
信忠の影となり、いつでも傍に控えている。信忠の乳母とは遠い親戚であり、本職に及ばないまでも一通りの忍術を修めている。とってもシャイなので、滅多に出てこない
長男が健在なので、家督を継ぐことなく自由に動き回っている。言動は粗野で脳筋っぽいが、勉強はまあまあできる。之定作の大槍を振るう日が待ち遠しい。一の家臣の座をめぐり、長可と争っている
松千代と一緒にノブナガの小姓になる予定だったが、遊び友達の流れで信忠の側近へ。幼い頃は勝蔵に泣かされてばかりいたのに、今や立派な喧嘩友達
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