216. 種明かし

――七月某日未明。某所にて


 ゆらゆらと炎が揺れる。

 外の篝火はいよいよ煙を噴き上げて、屋内に配置された燭台の火は今にも息絶えそうだ。それだけの長い時間を費やしたのだと、否が応でも理解する。

「ご立派でございました」

「……ああ」

 溜息のような応答に、言継はほんのりと苦笑した。

「お疲れ様でございました、の方がよろしゅうございましたかな」

「揶揄うな」

 お前は誰の味方だと言わんばかりに睨まれる。

 脇息に体を預ける姿は、先程までの凛とした佇まいと似ても似つかない。それこそ、ぐったりと倒れ伏してしまいたいくらい疲れきっている。そうと知りながらも言葉遊びに興じてしまうのは性分としか言いようがない。

「全く、厄介な者を敵に回したものよ」

「これは異なことを。あれやこれやと用を申し付けられましたのは他でもない。帝、貴方様であられますぞ」

「他に適任がいれば、そなた一人に任せることもなかったのだがな」

「帝からのお言葉であれば、何人でも手を挙げましょう」

「上手く御せると思うか」

「いいえ」

 にっこりと否を述べれば、とうとう突っ伏してしまった。

 これでも今上帝、正親町天皇その人である。後奈良天皇の崩御から2年後に即位した。朝廷の財政はひっ迫しており、商人に多額の借り入れがある公家も少なくない。武家や寺社からの献金があって何とか権威を保っているのだ。

 織田弾正忠家との繋がりは、信長の父・信秀の代に遡る。

 当時は今と比べようもない小さな家であったが、なかなかの額を献金してもらった。言継が織田家と交流を深めていったのも、それが切っ掛けだ。まさか帝との間に立ち、密約を交わすほどの仲になるとは思いもしなかった。

(げにおそろしきは、あの才を見抜いた尾張の虎よ)

 嫡子だからこそ、特に厳しく育てたのだろう。

 世の情勢が大きく変わることを予想し、可能な限りの種を撒いた。自身が果たせずとも、信長が必ず大樹に育てると知っていたに違いない。そうとしか思えないのだ。

 乱世には英雄、英傑と呼ばれるものが現れる。

 歴史を紐解けば多くの名を見つけることができるだろう。しかし織田家の急成長は、過去に類を見ないほどに激しい。まるで大津波が大地を飲み込むが如しである。

 そして今までの英雄たちと大きく異なるのは、信長本人に野心がないこと。

 言継もあまり信じていなかったが、どうやら本当に天下への興味がないらしい。名のある武家はこぞって官位を欲しがるというのに、信長は本気で嫌がっている。弾正大弼程度では朝廷でも大した発言力を持てないというのに、朝廷の権威になびく素振りも見せるというのに、立身出世への欲がない。

 おかげで正親町天皇は、今日も頭を抱えている。

「言継、比叡山の借りは返したと考えてもよいのだな?」

「おそらくは」

「やはり参議へ任じるべきだと思うのだが」

「では、そのように」

「言継!」

 悲鳴のような訴えに、言継は手にした扇を広げてみせた。

 困ったように眉尻を下げる一方で、隠れた口元はうっすらと笑みを刷いている。正親町天皇が困惑する気持ちも分からなくはないのだ。官位はいらぬと突っぱねておきながら、どんどん支配域を広げている。織田家の影響を受けているだけなら、もっと広い。

 あの男が個人的に交友を深めている将は、片手で足りない。

 それでいて同盟関係でないのだから厄介だ。表向きは友好的に振舞いながらも、腹の中では真逆のことを考えている方が楽だ、と思えてしまうくらいに。

「教えよ。あの者は一体、何を考えておるのか。義昭を将軍の座に据えておきながら、その座を奪おうとしている心理が分からぬ。代わりに自らが征夷大将軍になりたいというわけでもないのだろう?」

 源頼朝が征夷大将軍に任ぜられ、後に鎌倉幕府をひらいた。

 それ以来、武家の頭領は「征夷大将軍」ではなくてはならないという決まり事が生まれている。幕府は朝廷の下位組織だ。征夷大将軍は天皇に従うものだ。それは今も昔も変わらないはずだ。しかし信長は本当に、幕府を潰したいのだろうか。

「どうしても、そう思えぬのだ。天下を求めぬなら、幕府は残しておいた方がいい。あれは情の深い男だと聞いている。義昭とも交流を深めている男が、…………差し出されたからといって義昭の首を狙うだろうか」

「はっはっは、たかが将軍の首一つで満足する男ではございません」

 突然笑いだす理由が分からず、帝は眉を顰める。

 しかし言継はまるで秘事を語るかのように、含みのある笑みを浮かべた。扇で隠した口元だけでなく、目元までが楽しげに細められている。

「かの者ほど、強欲な者を知りませぬ」

「……教えよ。何を与えればよい」

「畏れながら、帝にも与えられぬものにございますれば」

「それでは困るのだ。いつか朝廷にも牙を向くやもしれぬと、皆が不安がっておる。官位以外で何か与えられるものがあるのならば、惜しむことはせぬ」

 言継はほんの一瞬、固まった。

 正親町天皇はかなり切実だった。信長は南蛮人とも親しくしている。以前、京都から追い出したはずの宣教師とも上手くやっているらしい。しかも天皇をさしおいて、南蛮の王と交流を始めたという噂も聞いた。

 それが事実なら確かに幕府など、将軍の首などいらぬだろう。

 織田家から送られてくる献金が途絶えれば、たちまち財政は困窮する。信長に好意的な商人たちがそっぽを向けば、流通も途絶える。花の都はたちまち廃れていく。

 だからどうしても、信長の機嫌を取っておかなければならないのだ。

 そのために今回の、よくわからない頼み事も受けた。

「避難訓練……、おそろしいものだな。これほどまでに皆が素早く動いたことが過去にあっただろうか。町が燃えていないか、火消しや後始末の心配までしていたぞ」

「ええ。これを良き前例とし、有事の際の手配に役立てたいと思います」

「そうだな。大火など起きぬのが一番だが……織田弾正大弼が、京の町を焼きたくないと思ってくれるのはありがたい」

 最初のうちは、見廻り組を疎んでいた民もすっかり慣れたらしい。

 彼らが誘導してくれたおかげで、火事騒ぎの大きな混乱もなかったと聞いている。避難訓練は半刻ほどで終わり、京の街は静けさを取り戻しつつあった。もし幕府軍が本当に火をつけたとしても、避難誘導をしている者たちが対応してくれる手筈だったと聞いて驚いた。

 それでも義昭と信長が何を企んでいるのかが分からない。

「幕府を潰して、どうするつもりなのか」

「はて、そこまでは存じ上げませぬゆえ」

「世が混乱すると思わぬのか」

「既に混迷を極めております。各地での戦乱は後を絶ちませぬ」

「……幕府に織田家が逆らっているからではないのか」

「むしろ、あの者が畿内の平穏を取り戻したと言っても過言ではございませぬ。既に西国への対策にも着手し、能登へは本願寺を、東国には同盟相手である上杉・武田・徳川が対応してございます」

「そうか。……上杉と武田は、織田と結んでいたか?」

「そういえば、少し前に破棄されたとか。そもそも同盟を結んでいないとも、聞いたことがございますな」

「どっちなのだ。もし争っているのであれば、講和を結ばせねばならぬ」

「おお、是非ともそうなさいませ」

 言継がしたり顔で頷けば、正親町天皇が目を細める。

「最初からそれが狙いか」

「全て、帝の御為でございます。織田尾張守へ与える品のことは拙が、それとなく探ってまいりましょう」

「ああ、そうしてくれ」

 万事任せた、と言わんばかりだ。

 信長は豪奢な金品、あるいは官位でも宥められない相手である。参議にする話はとっくの前に出ていたのだが、何故か朝廷に顔を出さない。改元の儀があるので上洛してきたかと思えば、二条城で義昭と大喧嘩した挙句に国へ帰ってしまった。

 言継としては、何とかして個人的に会わせてみたい。

 そうすれば、あのお人好しは正親町天皇を見捨てられなくなる。あれだけ逃げ回っていた幕府との決着をつける判断をしたのも、義昭の訴えがあってこそだ。

(だが征夷大将軍の位は、受けぬであろうな)

 ならば息子の方か、と言継は思案する。

 信長ほどではないが、なかなかの才を秘めていると聞く。比叡山延暦寺を落としたのも息子の方だ。天皇家の威光を笠に着た腐敗が進んでいたため、こちらとしても余計な手間が省けた。長らくの借りであったが、ここで返せてよかったと思う。

(尾張守の欲するは家族の平穏、美味い飯)

 この「家族」の範囲がどうにも広すぎる。

 国の境を越えてしまったついでに、正親町天皇も含めてほしいくらいだ。参議では足りない。もう少し上まで昇りつめてもらわねば。


**********


 今、ぞわっとしたぞ。

「……ッッ」

 一瞬で終わらなかった悪寒が、ぞくぞくっと頭の天辺まで伝わる。

 過去に何度か味わった嫌な予感とは少し違う。だから俺の知る誰かが死ぬ、というわけでもない。はずだ。首を傾げているうちに悪寒は消え、妙に居心地の悪い後味だけが残った。

「んんー?」

「今の報告で、何か気になることがあったか」

「いんや、特にはない」

 背後に控えている雨墨に、ひらりと手を振ってみせた。

(こいつが睨んでいたにしても、理由が分からねえし。まあいっか)

 京の避難訓練は上手く行ったらしい。

 公家たちによる内裏への参内が相次ぎ、大半が揃ったところで正親町天皇自らが種明かしをしたのだ。俺と天皇が繋がっているなんて想像もしなかっただろうし、かなり面白いことになっていたと思われる。

 ちなみに俺はコッソリ上洛してから、ずっと京屋敷に滞在している。

 表向きは「いない人間」なので、フラフラしていても見咎められないのがいい。誰も織田信長だと思わないし、一夜明けても火事騒ぎでばたばたしている。火事場泥棒が出なかったことだけは幸いか。もちろん、そんなド阿呆は事前に捕らえておいたが。

 計画通り、とニンマリ笑む俺の元へ新たな報せが舞い込んできた。

「織田三郎五郎様、二条城を掌握したとの由!」

 一瞬誰だと思ったが、織田軍を率いて上洛したのは信広以外にいない。

 義昭たちが出陣していった後、ほぼ空っぽの城を占拠するのは欠伸をするより簡単だ。戦ともなれば、卑怯だのなんだのと言っていられない。それに俺が京の街を焼きたくないと思っているのも知っていて、今回のことに協力してくれた。

 朝早くから細川様と爆弾正が顔を出し、貞勝が伝令の応対を務めている。

 もうすっかり、京屋敷での生活が板についたようだ。上品な老紳士然とした立ち振る舞いは、修羅の国に住んでいそうな親父の側近を務めていたとは思えない。

「吉兵衛、京奉行改め京都所司代に任ずる。信広と共に、京の治安を守れ」

「かしこまりましてございます」

「まだ隠居させねえからな。働いてもらうぞ」

「十兵衛殿をお借りしても?」

「金柑頭には坂本を任せるつもりだったが……、通えばいいか。そう遠くはないしな」

「いずれ殿の元へお返しする時には、ご期待に応えられるようになっておりますゆえ。どうぞご安心ください」

 総白髪に皺だらけの老臣を、まじまじと見やる。

 俺は顎に手をやって、ここ数日で目立ち始めた無精髭を擦った。ざりざりする手触りに、お藤の嫌がる顔が浮かんだ。いつも整えてもらうばかりで、自分でやったことはない。顎に触れるのは俺の癖らしい。いつだったか、帰蝶が教えてくれた。

「顔に、出てたか」

 貞勝は黙して答えず、それが返事であるように思えた。

 いつだって正しいことしか言わない彼は、嘘をとても嫌う。言えないことがあっても、必要なことだけを伝える。淡々と機械のように、正確無比に仕事をこなしていく。

 光秀を目にかけているように思えたのは、俺のためだったらしい。

 いつか裏切る敵だという気持ちが、ちょっと洩れていたのだとしたら恥ずかしい。もしかして光秀も気付いていたのか。だから今回、必死になってくれたのか。

(いや、まだ終わってねえ。これからだ)

 義昭たちはまだ進軍中。槙島城に入れば、報告が来る。

 それを待つつもりはなかったし、尼子衆以下織田軍の精鋭が琵琶湖を出たという報せも届いている。あとは俺が奴らを率いて、宇治川を渡るだけだ。

「藤孝、幕臣でついていかなかった者はどれくらいいる?」

「把握できているのは日野中納言、高倉藤宰相、伊勢伊勢守、三淵大和守ですな。二条城にて防衛の人を与えられていた彼らは信広殿の勢いに恐れおののき、早々に白旗を上げたそうですよ」

「何やったんだよ馬鹿兄貴」

 これだから脳筋は。

 結果的に無血開城となったわけだから、よしとしなければならないのだろう。公家の皆さんには申し訳ないことをした。

 いや、まさかと思うが。夜も明けぬうちに急襲したのか。

 出ていったばかりの軍勢が戻ってくるなんて考えないだろうし、兄貴たちが洛中に来ているのは知っているはずだ。そもそも六条御所を焼いた時も、義輝を暗殺(未遂)した時も夜陰に乗じての仕業だから、別に前例がないわけでもないんだが。

「まあいいか」

 ぱちり、と扇子を閉じた。

 避難訓練の次は、軍事演習だ。二日もあれば、場が整う。信忠と尼子衆に医療班の初陣になるので、ちゃんとした結果を出したいところだ。

 幕府が、将軍がいなくなったら守護代の価値はなくなる。

 東西でのイザコザも激化するだろう。その前に畿内は完全に掌握しておきたい。タイムリミットは刻一刻と近づいている。この軍事演習と避難訓練は、十年後の布石だ。

「……絶対に、生き残ってやるからな」

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