215. 誰が為に鐘は鳴る

 二条城の奥の間にて、一人の男が座していた。

 とうに日は暮れて、宵の入りである。不寝番以外はほとんどが寝所へ向かった。彼らの表情がどこか落ち着かないものであったのは、ここしばらくの間に洛中で広まった噂のせいだろう。京童などは面白がって、あちこちへ落書きをしていく有り様だ。

「……だ、やれる…………やって、やる……」

 虚ろな目で、ぶつぶつと呟く。

「鐘が鳴ったら、動く。鐘が合図。大丈夫だ、必ず鐘は鳴る」

 もともと色白だった肌から血の気が失せて、いっそ青白い。

 剣豪として名を馳せた兄と違って、長く僧籍に身を置いた体は中肉中背。還俗する前は痩せていたので、いくらかふっくらしたと言えるかもしれない。先日久しぶりに会った細川藤孝には、貫禄が出てきましたなと言われた。たぶん、褒め言葉だ。

 最近は何を食べても、美味いと思えなくなっていたが。

 小刻みに震える拳を握りこみ、顎の下に押し付ける。

 心の臓がどんどこ激しく踊り狂っていた。正直言って逃げ出したい。だが、そんなことはできるはずもない。男は、この日のために準備してきたのだ。

「やる。やれる……! わ、私は最後の将軍。必ず、尾張守との約定を果たす。あの者と喧嘩して、戦って、そして幕を引く……っ」

 足利氏は武家の一門だ。

 武家政権を確かなものにしたのは平氏だが、源氏との戦いに敗れた。源氏の頭領・源頼朝は征夷大将軍に任ぜられて「鎌倉殿」と呼ばれるようになったが、その死後には北条氏が執権として采配を振るうようになった。

 時代が大きく動く時、天皇の名も必ず出てくる。

 武家は公家よりも身分が下であり、朝廷の意向はどうしても無視できないものであった。利用しているつもりで利用され、公家と天皇家は高みの見物。幕府だ、将軍だと偉ぶってみても、所詮は朝廷の操り人形にすぎぬのではないか。

 そう思っていた時期もあった。

 だから兄が羨ましかった。信長が眩しかった。

 ひっそりと静かに生きていたかったが、同時に彼らのように自由な生き方も憧れていた。そうできたらいいなと思わずにはいられなかった。真似をしようと試みるだけでも困難を極め、余計なことをするなと怒られる始末。

 ああ何と無様な。所詮は凡人。天才にはなれぬと絶望した。

「だが今、なんということだろう。……兄上! 私はかつてない高揚に包まれているのです。もしかしたら、もしかしたら私は等持院以上の偉業を成せるかもしれない」

 その時、鐘が鳴った。

 男は、はっとして顔を上げる。

 合図だ。合図の鐘だ。これより先は修羅の道。今世一代の大舞台が待っている。流されるままに生きてきた人生で初めて、自ら動く時が来た。

「誰ぞある! 具足を持て。足利将軍、義昭が出るぞ!!」

 椅子を蹴飛ばし、男は叫んだ。

 と同時に、二条城が一気に沸き立った。万事打ち合わせの通りである。鐘の合図を今か今かと待ちわびていたのは、将軍だけではなかった。錯綜する噂の中で、彼らなりの真実を見つけていたのだ。

 二条城から、洛中から、数多の軍勢が飛び出していく。

「火事だあ!」

へ逃げろ!」

 騎馬とは逆方向に、民が駆けていく。

 とある足軽兵が不思議そうに、着の身着のまま逃げていく公家たちの背を見やる。火の粉を防ぐためか、皆が皆して何やら被っている。だから男か女か分からない。彼らをどこかへと誘導している声がする。

「おい、足を止めるな!」

「で、でもあれ……」

「避難訓練とやらであろう。どこに火の手が上がっているというのだ」

「ひなん、くんれん?」

 足軽は首を傾げる。

 慣れない響きだが、どこかでそんな噂を聞いた気がする。

「軍事演習じゃないんですか?」

「馬鹿者! 尾張のうつけならいざ知らず、公方様ともあろう御方が演習に参加されるわけがなかろうっ」

「す、すみませんすみません」

 必死に謝りながら、足軽は先を急いだ。

 街中に篝火が焚かれ、松明を持った兵士がたくさんいるおかげで暗い夜道も歩きやすい。さすがは将軍家、豪勢なものだと感心したものだ。

 まさかそれが「火事」に間違われているとは思いもしない。

「進め、進め! 夜明け前には槙島へ着かねばならぬ。遅参は武家の恥と心得よ!!」

「おおおおっ」

 勇ましい声が、洛外まで響き渡る。

 戦が始まると誰かが呟いた。ついに将軍が、第六天の魔王に刃を向けた。武家の頭領は征夷大将軍に任ぜられた足利義昭、その人であるのに。織田信長がさも日ノ本の王であるかのように振舞うから悪いのだ。

 正親町天皇はこの事態を大いに憂いておられる。

 清静なる者が天下を正すのだ。

 それは天皇か、将軍か、はたまた魔王か。

 牛車に妾たちを詰め込んでいた公家の男は「あなや」と呟く。京の空をあかあかと炎が照らしているではないか。野蛮でおそろしい、鬨の声も聞こえる。民がこぞって逃げてくる。

 公家の男は震えた。

 ようやく平穏が訪れたと思ったのに、武士はこれだからいけない。とにかく殺し合えばいいと思っている。そんなに人が斬りたければ、自分の領地でやればいいものを。

「……はて」

 公家の男は首を傾げた。

 自分は何故、逃げる準備をしていたのか。避難しろと言われていたからだ。火事が発生した時、速やかに逃げ出せることができる者は「おぼえめでたく」と聞いたからだ。現に六条御所が燃えた際、迅速に対応した者は織田家に重用されたという。

 中には信長の姻戚にまで格上げされたというから驚きだ。

 時流をよく読む者は出世する。主君の意向を察する者は重用される。有事の際に素早く逃げる者は、失うものが少ないおかげで事後処理に対応できる。それ即ち、有能の証。日頃から地道に評価を積み上げていくよりも簡単に、出世の道がひらける。

 だから公家の男は、噂を信じたのだ。

「火が、移動していく。ま、まさか、既に動いたのか!? 自分が逃げるだけでなく、火消しを動かした奴は誰だ。ええい、こうしてはいられぬっ」

 牛車から妾たちを追い出して、自分が乗り込んだ。

「早う出せ! 参内するっ」

「は、はい」

 ガラガラと耳障りな音を立てて、牛車が去るのを妾達が呆然と見送る。

 そこへ仕立てのいい狩衣姿の男がやってきて、何やら笑顔で話しかける。すると彼女たちは安堵の笑みを浮かべ、ゆるゆると館へ戻っていった。

 次第に少しずつ、少しずつ静けさが戻ってくる。

 洛中、洛外の一部はまだ騒がしいものの、眠りに就くような緩慢さで火が消える。宵闇に紛れていく。徐々に落ち着きを取り戻す。

 鐘はもう、鳴っていなかった。






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等持院...足利氏の菩提寺。尊氏の墓所としても知られる。ここでは室町幕府をひらいた足利尊氏のこと

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