214. 地を揺るがす大博打
前世の俺にとって、梅雨は鬱陶しいだけの季節だった。
今世は自然の脅威をひしひしと感じる。実に頭のいたーい時期だ。
戦で死ぬ時はだいたい一瞬で終われるが、飢えや病に自然災害が原因となる場合は長く苦しむ。憎しみの連鎖、なんて一言で片づけられるものじゃあない。むしろ恨んだり、憎んだりできるうちは気力がある方だ。
一番おそろしいのは、何も感じないこと。
そこに命があって、心臓が動いていて、呼吸もできているのに、心が死んでいる。その「死」すらも感じない状態が一番怖い。人間は生まれた瞬間から、生きるための選択肢を与えられているんだと俺は思う。
自分を守るための最終判断という権利は、どんな奴でも持っている。
権利を使うか使わないか。俺たちは生きるために、いくつもの選択を強いられる。
「今年は長雨が続くな」
佐和山城からの景色は気に入っているんだが、今日も今日とて天気が悪い。こんな日はお藤とゴロゴロしていたかった。どうして俺は岐阜城を出てきてしまったんだろう。
灰色にけぶるぼんやりした琵琶湖を眺め、こみあげる溜息をかみ殺す。
「はい。既にいくつかの橋が流された、という報告が届いております」
「そうか」
流れない橋を造るのは難しい。
ダム建設はまだ過渡期にあり、ようやく信濃国で試験運用が始まった。念のために言っておくが信濃国の一部は織田領だ。いつの間にか、そうなっていた。信玄の遺児・勝頼の了承も得ている。松姫の持参金代わりだそうだ。
(表向きは病死扱いになってる姫の持参金ってなんだよ)
それよりも、金山で働く鉱夫たちのケアをしてやれ。
確かにダム建設は急務なので、試験運用に使える土地があるのはありがたい。未来が変わってしまう恐怖も、洪水で流される村落を目の当たりにすれば吹き飛んだ。俺に、彼らが生きる権利を奪うことはできない。
どんなに傲慢な考え方でも「できるのに、やらない」を選べない。
俺はやっぱり、小心者だから。俺の民が死ぬのを、黙って見過ごせない。
「川の流れが落ち着くまでは、警戒を解かないように重ねて言い含めておけ。信長の名にかけて必ず、新しい橋を造ってやる。だから大人しく待ってろ、とな」
「御意」
そう言って微笑む恒興は、以前ほど喚かなくなった。
年齢相応に落ち着いてきたということだろうか。子供の成長を見て、自分たちが老いたのだと知る。だが、まだまだ家督を譲ってやるわけにはいかない。最近はよく、親父殿や舅殿が「何を考えていたのか」を思う。
俺に、何を託したかったのか。
彼らは何を選び、何を捨て、どんな未来を見つめていたのか。
「信長様!」
「蘭丸か。どうした」
声をかけたのが恒興だったので、美少年が変顔をしている。
子煩悩の噂がすっかり定着してしまったせいか、織田塾でもどこでもいつでも子供に懐かれる俺だ。むさくるしい野郎どもに縋られるより百倍嬉しいので、来るもの拒まずのスタイルを貫いている。側近連中も我が子が俺の前でイイコになっているのが嬉しいのか、よく連れてくるようになった。
佐久間の長男が礼儀作法を、森の長男が武芸を叩きこんでいるらしい。
ときどき子供の泣き声が聞こえてくるんだが、俺の前でイイコにしているのは恐れられているからかもしれない。あとで信忠に言っておこう。あまりいぢめるなよ、と。
「信長様、ついに我らの出番が来たとか!」
おっと騒々しい奴が来たな。蘭丸はこいつの先触れだったらしい。
「……えーと、誰?」
「尼子衆が一の家臣、山中鹿之助だ!!」
「おー、久しぶりに見たな鹿頭。
「誰が鹿頭だ! 主君に挨拶するのに、兜をつけたまま出ていくかっ」
戦時中でもあるまいに、とプンスカ怒る。相変わらず沸点の低い奴め。
出会った当初はケツの青い若武者だった鹿之助も、すっかり男前になってしまった。織田軍にイケメンが多すぎな件。才ある者は見目好い法則でもあるのか。
(そういや、こいつの主……勝久は才も見た目も凡人だな)
勤勉で努力家なので、フロイスに気に入られている。そのまま改宗しそうな勢いだ。
織田領内でキリスト教を禁じていないものの、活版印刷の件で京都・鎌倉の禅院から睨まれている。民間印刷では堺版もそこそこ出回りつつあるんだが、ちょっと派手にやりすぎたかもしれない。今はまだ突発的な娯楽、お遊び程度だと誤魔化しているとはいえ、実は織田塾の教本として浸透してしまっている。
そのうちにハナシの分かる高位僧だけで抑えきれなくなるだろう。
ああ、面倒臭い。どんだけ寄付寄進すればいいんだ。
「そういや、勝久は? 一度も顔を見てないんだが」
「はっ。新活字の開発に目途がつき次第、と聞いております」
「……へ?」
聞いてない。新活字とか聞いてないぞ俺は。
大事な主が活字職人か印刷専門の研究者になりかけてるっつーのに、誇らしくてたまらないといった様子の鹿之助。もしかしてこいつら、悲願を忘れてる? よーしよし、そのまま忘れちゃっていいぞ。
だって西国と喧嘩したくないし。
「ふふふ、見ておれ。
「コバヤカワタイ?」
「小早隊」
ぎろりと睨む鹿之助は、悲願を忘れていないようだ。残念。
そもそも小早は機動力重視の小舟だ。たくさん積めない代わりに、とても速い。笹の葉のような形なので、急に川幅が狭くなっても進めるのが強みだ。やたら壊れやすいのは、使い捨てにされた過去があるとか何とか。
「此度の主戦場は水上戦と聞き及んでおります。尼子衆一同、信長様のお役に立ってご覧いれましょうっ」
言いたいことだけ言って、鹿之助は退場していった。
蘭丸に引きずられていったように見えるが、きっと気のせいに違いない。あの儚げ美少年が一回りは大きい槍戦士をどうにかできるわけがない。
「にしても、やけに気合が入っていたな」
「織田軍所属の部隊としては、事実上の初陣になるからでしょうね」
「そんなことは、…………ある?」
「殿が拾ってきてすぐに船の開発、活版印刷の着手、水軍の再編と訓練と続きまして、信興様が船の改良を始められまして、そちらにも人員を割き、今では尼子衆と九鬼衆で織田水軍の双璧をなしております」
「そんだけやって、実戦経験皆無!? いやだって摂津でのあれには九鬼水軍の鉄甲船が出てきただろ」
「九鬼水軍が、ですね。あの戦で出てこなかったのもあり、噂が噂を呼んで今の尼子衆は殿の秘蔵っ子扱いですよ」
「オーノー」
俺は頭を抱えた。
そりゃあ気合が入るわけだ。納得した。そして顔を(一瞬)忘れるレベルで放置されていたのに、鹿之助がやけにゴキゲンだったのも理解した。
噂が独り歩きすることに定評のある俺、ノブナガ。
「軍事演習、って言ったよな俺」
「完全に、幕府を相手取った大戦だと考えていますね。どうします? 曖昧に濁していた理由は察しておりますが、今からでも徹底させますか」
「恒興知ってるか。殺すより殺さない方が案外、難しいんだぜ」
「では、そのように」
乳兄弟は新スキル:スルーを覚えた。
**********
尼子衆の小早を借りて、俺たちはこっそりと上洛していた。
「三十郎の酔い止め、めっちゃ効く。我が弟ながら、すげえなあいつ!」
「ああ、確かにな。まさか、一度も起きぬとは」
旅商人風の俺たちに同行する謎の白頭巾、その名は雨墨。
本人は護衛のつもりでついてきたが、傍目から見ると俺たちが護衛だ。久しぶりに鹿之助に会って西国での出来事を思い出したので、ちょっくら京まで出向くことにした。
何故か光秀も、当然のようにくっついてきている。
「さすがの大器ですね。感服しました」
「…………」
「雨墨殿、私に何か?」
「いや」
分かるぞ、光秀の変わり様に驚いたんだな。俺も驚いている。
雨墨は光秀から俺に視線を移動させ、しばらく見つめた後にこう呟いた。
「……まあ、三郎だからな」
「どういう意味だよ」
「将軍を救った男が、将軍を追い出すのかと思っただけだ」
「戦じゃないからな? 本番さながらの軍事演習だぞ」
「ああ、そういう話だったな」
決行の日まで、もう猶予がない。
川の状態を知りたかったので、宇治川を通ってきた。洛外に店を構える堺商人に小早を預け、ぱぱっと着替える。白頭巾はともかく、俺の目立たない風貌はこういう時にこそ役立つ。なんだかんだで市井にも顔を出して名実ともに知られた俺が、地味な格好をしていると誰も「織田信長」だと気付かない。
名を呼ばれたら一発だが。
「十兵衛、ぬかりはないだろうな」
「もちろんです、のブ!」
思わず張り手をかましてしまった。満面の笑顔が痛みで歪む。
「しーっ、声がでけえっつの」
「これは失礼しましたっ」
口を封じていた手を丁重に剥がした上で、押しいただく金柑馬鹿。
今度は後方からハリセンの一撃だ。ちなみに俺じゃなくて雨墨がやった。いつの間にかツッコミといえばハリセンになってきている。奥様戦隊も一人一つずつ所持しているらしい。羽柴家にあるやつは家宝だと聞いたんだが、なんでだ。どうしてそうなった。
「面倒だ。其方はノブと名乗ればよかろう」
「やめろ、黒歴史を暴こうとするな」
「ノブ様、ですか?」
「うわああやめろおおお」
「うむ。そして余のことは、月光」
「ノブでいいから! こいつのことは上様でいいから!!」
「でっでは、私のことは」
「十兵衛でいいだろ」
「十兵衛だな」
金柑頭が「解せぬ」という顔になっている。
何故だ、前からさんざん十兵衛って呼べって言ってたくせに。一体何が不満なんだ。隠れた謀反ゲージが気になるから、そういう反応はやめてほしい。
閑話休題。
俺たちが何故こっそり上洛したかといえば『避難訓練』のためだ。光秀の人脈でじわじわと「そういうイベントがあるよ」的な情報を広めつつあるものの、ここ一番ホットな話題が「幕府vs織田」のカードだという。東では「軍事演習」として伝わっているから、いい感じに情報の混乱が起きている。
戦に無辜の民を巻き込むわけにはいかないから『避難』するのは当たり前だ。
「そこへ、うちの脳筋を投入する」
「胸を張って堂々と洛中へ入ってこられれば、謀反の疑いがあっても追い返すわけにはいかぬ。余が暗殺された時の状況と同じだな」
「暗殺?」
「雨墨、それはオフレコで頼む」
「あいわかった」
「俺と違って、すぐに将軍に会えるとは思わんが……まあ、兄貴だからな。そこそこ、まあまあ、なんとか上手くやるだろ」
「信用なさっておいでなのですね」
「馬鹿兄貴は馬鹿だが、戦の天才だ」
この時代には無数の才ある者がひしめいている。
群雄割拠とはよくいったものだ。ちょっとずつ振り分けるはずの天才要素を、ドジっ子神がバケツ引っ繰り返すみたいに下界へぶちまけた。おかげで、いつまで経っても戦がなくならない。どこぞの神は、いつまでも殺し合う人間に絶望して世界を滅ぼすことにしたらしいが、世の中にはちょうどいい按配ってものが必要だ。
いいバランスを保つのは難しくて、ちょっとしたことで崩れる。
だから俺は多くを望まない。俺の大事な家族が、民が幸せであればいい。戦が平穏な幸せを壊すなら、戦をなくすしかない。俺にできることがあるのなら、やるしかない。
とにかく家々を回ろう。光秀がいるから、幕臣からだな。
「避難訓練、ですか。話は聞いておりますが」
怪訝そうに問うてくる禿げ頭の男。名前はなんだっけな。
侍従から明智光秀自らの訪問と聞いて、あっさり広間に出てきた。俺たちは
打ち合わせ通りに光秀が「ここだけの話」をする。
「有事の際に迅速な行動をできるかどうか。これが今後の明暗を分ける。実はな、公方様と信長様の間で賭けをすることになったのだ。より多くの者を動かすことができれば、それ即ち将たる器に相応しいということになる」
「……確かに」
「この機に織田へつくのも、公方様への忠を果たすのも、あなた次第ということだ」
「なんと、底意地の悪いことを申される。早くも織田に染まってしまわれたか。そも公方様と織田尾張守との仲は」
「良好だとも。血の繋がらぬ父子の如く」
「明智殿は公方様のご不興を買ったともお聞きしましたが?」
「あれは小芝居だ。これは内密に願いたいのだが」
「う、うむ」
「公方様と信長様が仲良くしていると、朝廷は面白くない。それは何故か。今上帝が信長様に好意的であられるからだ。新たな官位を与えようという動きがあるらしい」
「そ、それはまことですか!?」
「さて……」
よく回る舌だな、という感想はさておき。
ちっとも嬉しくないことに、山科卿の言っていたことは本当だった。好意的なら、俺の嫌がることはしないでいただきたいもんだ。全く、カネと権力与えときゃあ大人しくなるって誰の教えだ。いつの時代も例外がいるってことを、いい加減学べ。
(それとも信長は、官位を喜んで受けたんだろうか。色々と、都合がいいから)
武家はどうしても、公家の奴らから下に見られやすい。
身分が上の方がエライっていう考え方は一番分かりやすいし、俺も間違っていないと思うから否定はしない。だが身分が下だからという一点で蔑んだり、馬鹿にしたりするのは違う。権力を行使するには相応の責任が付きまとうし、金は無限に湧いてこない。
「雨墨」
「何だ」
「あいつの話を聞いてると、反織田勢力って絞り込むのが面倒な感じか」
「さもあらん。地位に胡坐をかき、漫然と生きてきた者ほど、急激に力をつけてきた新興勢力を警戒する。ましてや将軍職、権大納言――山科卿のことだ――とも友誼を通じ、名のある堺商人、南蛮人とも親しげに交流しているのだからな。気にするな、という方が難しい」
「どんな人脈だ!?」
「織田尾張守のことだが?」
「へえ、すごいなそいつ」
「…………この京において、南蛮人と言葉が通じるのは其方を含めて数人しかおるまい。堺商人を怒らせれば、流通が途絶える」
「確かに。商人との付き合いはマジで神経使う」
万人に好かれたいとは思わない。俺は聖人君主じゃない。
反感を買うのも、好意を向けられるのもいい。友誼を通じても、状況次第で敵同士になることもあるだろう。心底面倒だと思うのは、家臣じゃねえのに反勢力として気にしなければならない点だ。
(織田家は、でかくなりすぎたな。そろそろ退き時も考える頃か)
光秀が根気よく「避難訓練」について説いている。
その実、織田側へ味方するように誘っていた。朝廷の動きはともかく、征夷大将軍と天皇が俺の味方なのだと囁く。
「十兵衛」
「はい」
「あんまり嘘ばっか吐いてると、舌が二つに裂けるぞ」
「私は本当のことだと思って話しています。信じていただけないのは、残念です」
これだ、こういう時だ。
光秀の謀反ゲージが反応したと感じる。俺は最初から、こいつは敵だと思っていた。いずれ裏切るんだと信じて疑わなかったし、会う度に噛みつかれるわ睨まれるわで、こうして織田家臣として行動を共にするなんて考えもしなかった。
同時に。
今後のことを俺へ丸投げしてきた義昭を見て、思った。
ああ、やっぱり変えられない。歴史の流れはあまりにも大きすぎて、俺ごときの力ではどうにもならない。あちこちで小さな変化が起きても、大筋は変わらない。
それは安心と、焦りを生む。
「信じてるさ。でなきゃ、俺がここにいるわけないだろ」
「……はい、信長様」
光秀についていきながら、奴らの顔を頭に叩きこむ。
織田信長として接見する時にはない変化を、奴らに仕える者たちの様子を、織田家当主がいない京の街を、新たな火種に怯える民の姿を――。
********************
ノブナガに認められたくて、いっぱい頑張る光秀さん
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