198. 遠江の姫虎(前)
時はまだ元亀2年(1571年)である。
村重と共に摂津国へ旅立った信純から、報告書が届く。いくら何でも書くの早すぎだろと思ったら、遠江国の状況についてだった。油田(仮)の場所は半兵衛が突き止めてくれたのだが、岐阜城には遠江国内の地図がない。
手をワキワキさせる一益を連れて、徳川領へ。
「兄上、
「どこから湧いた、三十郎」
胡乱な目をする俺に、にっこり笑う
「もちろん、面白い噂を聞いたからです。もうちょっと詳しく調べてから報告に上がる予定だったのに、竹中殿に先を越されるなんて悔しいじゃないですか。それで兄上が動いたということは、やっぱりアレがそうなんですか?」
「可能性は高い」
断言はかろうじて避けた。
エンジンの開発はまだまだ先だし、とりあえず日々大量消費する木材の代わりになればいい。そうは思っていても、当面の扱いに困りそうだ。石油を必要とする対象がどれも、この時代にそぐわない。当然ながら、仕組みも全く分からないので説明しようがない。
自動車は黒い水で爆走する牛車?
牛に石油を飲ませたら、ただの虐待だ。牛の死骸だけが残る。今更ながらにエジソン師の素晴らしさを痛感していた。どうにかして南蛮船の心臓部へ視察できないかなあ。うちの奴らは有能だから、実物を見るだけでも開発は進むはず。見つけてしまった以上は早めに何らかの処置を講じないと危険だ。
「皆さま、そろそろ三河国です」
「道案内頼むぞ、正行」
「お任せください」
にかりと笑った男が馬を駆って、前に出た。
その悪役っぽい面構えを信包が不本意そうに見やる。
本多正行は松永家臣を名乗っていて、松永弾正からの推薦状も携えていた。信純と入れ替わりに岐阜城へやってきて、半兵衛に付きまとわれていたのだ。やけにしつこく質問攻めにするのを間に入って止めたものの、天才軍師が意味のない行動をするだろうか。それに徳川家臣の本多姓は二人いた気がするんだよな。
まあ、また松永弾正が何か企んでいるんだろう。
きっと必要でしょうと三河方面の案内人を寄越すのだから、本当にくえない男だ。ここ数年は奴に助けられっぱなしである。九十九茄子くらいの名品を贈ろう、と心にメモしておく。良い刀、良い茶道具を所持しているのが昨今の流行である。
武器も道具だ。飾っておかずに使えよ、と思わなくもない。
なんて考えているうちに岡崎城へ到着。
愛娘との再会に浮き立つ心は、むさい男の登場でたちまち萎んだ。
「なんで家康がいるんだよ」
「それはもちろん三郎兄上をお迎えに、あー!!」
素っ頓狂な声を上げ、家康が指差す先には一人の男。
薄々察していただけに驚かないが、年齢にそぐわない高い声には辟易した。まるで声替わり前の少年みたいだ。前もって分かっていたら、耳を塞いだものを。
「お久しぶりでございます、元康様。いえ、家康と名を改められたのでしたねえ。いつの間にやら、ふくふくと大きくなられて本当に月日の経つのは早いものです」
「……知り合いか」
「はい、かつての主君でございます」
「私は怒っていない! 家臣のことは気にしなくていいから、いつでも戻ってこいと言ったではないかっ。どうして三郎兄上と一緒にいるんだ、正信」
「正行でございます」
慇懃無礼とはこのことか。
たちまちションボリと肩を落とす家康の後ろで、戦国最強が仁王像と化している。気にしなくていいなんていうレベルじゃない。めちゃくちゃ怒っているぞ、あれは。
「いらっしゃいませ、父上」
「お五徳!」
ぐりんと振り向けば、今度こそ愛しい娘。
「お風呂にします? ご飯にします? それとも」
「姫、それは夫婦にしか使わないはずだろう」
「お五徳一択で!!」
「父上が面白いから、つい」
うふふ、と笑うお五徳はすっかり大人の女だ。
伊勢参りや収穫祭で会っているものの、岡崎城にいる姿はまた違った感慨がある。抱き上げてくるくる回るのはダメだろうか。信包の様子を窺ったら、生温い視線で首を振られた。
ダメだよな、やっぱり。
家康とは違った意味で肩を落とす俺。
それからは立ち話もなんだから、と城内へ通される。礼儀として先触れを出しておいたせいか、やたら豪勢な夕餉が用意されていた。養殖が始まったという鰻を堪能し、岡崎城の夜は更けていく。
明けて翌日。
「一気に大所帯だな」
「ええ」
俺と信包で苦笑を交わす。
案内は終わったから越前へ帰る――鷹の人工繁殖の件で滞在中だった――という正行改め本多正信を徳川主従が引き留め、彼らが連れてきた集団と共に街道を行く。お五徳がいるのに信康がいないのは、城主として城を空けられないからだそうだ。
家康の正室・築山殿も岡崎城で生活している。
俺の中でマザコン疑惑が浮上したものの、お五徳だって羽を伸ばしたい時もあるだろう。そして娘と一緒に旅ができるのに喜ばないわけがない。でれでれの俺に信包がツッコミを入れつつ、東海道の旅は続く。
「って、これはひどい」
天下の五街道が泣くぞ、これ。
石があるわ、でこぼこだわ、休憩所が少なくて関所が多い。
だんだん不機嫌になっていく俺をお五徳がつきっきりで慰め、信包はくどくどと家康に街道整備の重要性を説いていた。最初のうちは家康を弁護していた忠勝も、桶狭間の前哨戦を聞くにコロリと態度を変える。正信は合いの手を入れるかの如く、チクチクと家康を刺す。
忙しいは言い訳にならない。
国内状況の改善に、インフラ整備は必要不可欠だ。
あれもこれもと一度に手を出しても中途半端に終わるが、専門部署を作って互いに成果を競わせればいい。分野が違うと進捗に差が出るものの、相手が何をしているかを把握する要素にもなる。揚げ足取りに終始する奴は無能だ。切り捨ててよし。
「桶狭間といえば」
輿を嫌がって、自らも馬を駆るお五徳が呟いた。
義父・家康がやりこめられているのを
「直虎様の父上も、桶狭間で討ち死になさったと聞きました。当時は今川家臣として本陣に詰めていたので、織田軍の急襲をまともに受けた形になったとか」
「……何?」
浮かれた気持ちが一瞬にして霧散する。
お五徳は思わぬ反応に目をパチパチさせてから、首を傾げた。すっかり淑やかな大人になったかと思えば、子供らしい仕草に心和む。いや、今はほんわかしている場合でもないか。
「その者とは親しいのか」
「ええ。あたしには兄妹がいても、姉はいなかったから。直虎様もすごく優しくて。織田の娘であることは『全くとは言えないが、気にしない』と言ってくださったのが嬉しかったの」
「そう、か」
「父上?」
「何でもない」
「もうすぐ会えるわ。今夜は井伊谷城に泊まる、って義父様が仰っていたもの。そうそう! 直虎様も、父上のファンなのよ。あたしが嫁いでからの話は知らないことばかりで、聞かれても答えられないことが多くて困っていたの。だから父上が、……父上?」
直虎とは本当に親しいのだろうと思う。
だって興奮するあまりに敬語が取れてしまっている。お五徳は興が乗ってくるといつまでも喋り倒す癖があった。夢中になって直虎を困らせていなければいいが。
それはそうと、直虎ってオカマなのか?
少なくとも長康は女っぽい趣味嗜好はあっても、心は女だと主張しなかった。お五徳がベタ褒めするくらいには出来た人で、城主を務めるくらいには徳川家中でも地位を認められている。そして今川家臣の父親が、桶狭間の戦いで討ち死にした。
「家康め」
城の名前は、武家の姓になることが多い。
井伊姓の今川武将ならば、一人知っている。井伊直盛は佐久間盛重の仇として、利家が討ち取った。家臣として迎え入れておいて、家康が知らないわけがない。直虎からしてみれば、父の仇である。お五徳は娘だから関係ないとしても、俺にはそうもいかない。
やれやれ、油田を視察するだけなのにな。
ヤル気が激減したが、俺だけ帰るわけにもいかない。信包が何かしでかしても止める奴がいなくなるし、お五徳は今まで通り仲良くすることができなくなる。
「なあ、その直虎って奴は――」
男なのか、女なのか。
そう問いかけようとした時、お五徳がはしゃいだ声を上げた。
「あっ、直虎様!」
手綱を離して、ぶんぶんと手を振る。
前方から近づいてくるのは一騎のみで、しかも女だ。
武装していても、二つの丸みがしっかり分かる。武田軍がちょっかい出してきている今、いつ出陣することになるか分からない。だから武装しているのか。いや、それならそれで単騎である意味が分からない。
井伊家の直虎は城主だから武将。女で、武士。つまり、何だ?
「分からん」
「カッコイイですよね、直虎様!」
「おっぱい鎧」
夏なのに、一瞬にして空気が凍りついた。
「父上、サイテー」
「これも男のサガというものでしょう。女物の鎧もなかなか趣があっていいですね。試しに造ってみますか、兄上」
「おっぱい鎧をか」
「姫鎧です」
ほんのりと顔を赤らめながら、直虎が言った。
俺の視線がさっきから特定の場所に釘付けなのが羞恥心を煽るのだろう。だが仕方ない。艶やかな朱塗りの胴鎧に、見事なお椀が二つもくっついている。それも銀色だ。仮に朱色で統一されていても気になっただろうが、色が違うせいで余計に目立つ。
見るなと言う方が無理である。
「姫鎧か」
「はい」
スレンダー体型の帰蝶よりも、安産型の奈江が似合いそうだ。
吉乃では鎧そのものが合わない。そして奈江は出家してしまったので、鎧は着てもらえないだろう。かつて尼将軍と呼ばれた女傑のようになれ、とは言えない。平手をもらって終了だ。
「父上! 失礼だからっ。そこから目を離して!」
「見つめ続けろ、と俺のゴーストが囁く」
「愛娘なら何も問題ないと思いますよ、兄上。一応、人妻ですが」
「一応じゃないもん。よ、よ、夜の営みだってあるんだからあっ」
涙目で主張する娘を見やり、俺は決断した。
「帰りに信康吊るそう」
「一応嫡男なので勘弁してください!」
「いちおうじゃないいいぃっ」
「本多殿、私は帰っていいですか。出迎えは不要でしたね」
「待て、おっぱい鎧。それ脱いで構造を教えていけ、三十郎に」
「姫鎧です」
「あ、ここで脱がなくていいですよ。兄上の妄言は聞き流してください。いつものことです。懇意にしている鍛冶師を紹介していただければ、こちらで何とかしますので」
「サイズは茶椀で測ればいいぞ」
「帰ります」
「さ、さすが三郎兄上。私が予想していたどの展開とも違うやり方で、初対面をやり過ごしてしまわれた。……やっぱり凄い御方だ」
「鍋之助。あの人面白いから、このまま織田家に仕えるよ」
「俺は、貴様の、そういうところが、大嫌いだ!!」
というやり取りをしつつ、賑やかな一行は井伊谷城へ入った。
旧今川領にして、現徳川領遠江国は常に武田軍の圧力を受けている。井伊谷城も少し前まで奪い奪われる状況にあった。危機は未だ、そこにある。様々な思惑が交錯する中、正信と直虎が静かに頷き合った。
そして信包が不快そうに眉を寄せたことを、俺は知らない。
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遠江国は今川家衰退後に武田領となりましたが、元今川家臣で遠江国人衆の井伊家をはじめとする武将たちが家康側についたので、徳川領遠江国としています
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