199. 遠江の姫虎(後)

 井伊谷城は、小高い山に建てられたこぢんまりとした城だ。

 小牧山城をはじめとする大きな城郭に見慣れたせいで、余計にそう感じるのかもしれない。これから新しく築城する安土城は戦国最大級レベルを目指すつもりだ。かといって、三国時代の曹操みたいな疑いをかけられるのは御免である。

 確か銅雀台だったか。

 魏王になった記念に造らせたものが豪華すぎて、皇帝の座を狙っているんじゃないかという噂が広まった。それで腹心が死ぬわ、謀反未遂が起きるわ。あれあれ、おかしいな? なんだか親近感を覚えてしまうぞ。

 先人に学んで、俺は手堅く行こう。

「三方を山に囲まれ、川の合流する場所ですか」

「どうした、三十郎?」

「いえ、何でもありません」

 女城主・直虎の案内で、俺たちは井伊谷城に入った。

 信包が呟いたように、川の上流は険しい山が連なっている。一見して攻めづらい要害に思えるが、山の向こう側は武田領だ。騎馬隊で一気に押し流すことができないというだけで、うちの軍師たちなら笑顔で策の一つや二つ献じてくれるだろう。

 会話が聞こえたらしい直虎が振り返る。

「お二人とも難しい顔をなさっていますが、我が城に何か?」

「忙しい時期に押し掛けちまって、悪いことしたなあと」

「……お気遣いなく。主君の求めに応じるのが臣下の務めでございます。織田の方々が何を求めて遠江までいらっしゃったのかも存じております。大したおもてなしはできませぬが、旅の宿くらいに思っていただければ十分です」

「次郎法師殿は相変わらず勇ましい」

「褒め言葉として受け取っておきます、本多佐渡殿」

 直虎は気位の高い猫を思わせる。

 ついつい奈江の面影が浮かぶのは、知らぬ間に仏門へ入ってしまったことを引きずっているからか。分かっている、ただの未練だ。やや吊り目で、気の強そうなところも似ている。肩の上で切り揃えたおかっぱ頭は、尼僧時代の名残か。還俗してもハゲ頭のままだった信玄の例もあるが、直虎は意図的に伸ばさないのだろう。

 棘のある台詞も、毛を逆立てた猫みたいで可愛い。

「兄上、顔に出ております」

 信包に忠告され、緩んだ表情筋を叩いて直した。

 何か企んでいそうな顔の正信以上に、家康が期待に満ちた目で見つめてくる。

 相良村への最短距離は海沿いに東へ進むルートだ。井伊谷城は北へ遠回りになる。ただ桶狭間での因縁を持ち出すだけなら、家康が出向く際に供連れとして直虎を同行させればいい。

 旧今川領で、北は信濃国に接する遠江国。

 東の駿河国も徳川領、じゃない。

 今はもう一国だけになった今川領だ。北条家の介入前から、武田軍の侵攻は度々起きていた。領土拡大を望む氏政なら、いつか本格的な攻略を始めてもおかしくない。

「相良村は遠江国でも、だいぶ東に位置しているな」

「ええ、駿河の方が近いですね。どちらかといえば、甲斐・信濃への警戒よりも東の国境に対する策を考えておいた方がよさそうです」

「結局、織田も介入することになって駿河の民から恨まれそうだなあ」

「仕方ありませんよ。兄上の望むものが、そこにあるのですから」

「うーん、そりゃそうなんだが」

 手元に地図がないので、ざっくりとしたことしか言えない。

 徳川・武田・北条の三つ巴に織田が入って、泥沼の未来以外に何があるだろう。うちの軍師をして「読めない」と言われる北条氏政のことを、俺はかなり警戒していた。

 信玄が死ねば、とりあえず武田軍の動きは止まる。

 兄弟仲もいい氏政と違って、後ろ盾のない勝頼は立場が弱い。信玄の遺志を継いで三方面への侵攻を進めるのは難しいと思う。子供時代の勝頼を知る元武田家嫡男・信直によれば、これといって英雄的才覚も感じなかったという。

「別になくてもいいが、あった方がいい」

 武田軍をまとめるには必要な才能だ。

 がしがしと頭を掻きつつ、暮れゆく空を見上げた。

 考え事を始めてしまった俺のせいか、はたまた直虎の警戒心丸出しな態度のせいか。やや強めの緊張感を引きずったまま、夕餉の席を迎えた。城仕えの者たちが忙しく動き回り、慎ましくも上品な宴席が整えられる。

「申し訳ありません、少し遅れました」

 着替えた直虎の袴姿にちょっとそそられたり、しなかった。

 明るい緋色の小袖に、銀糸の刺繍が入った品の良い袴を合わせている。姫鎧も赤かったし、意外に派手好みなのか? 化粧を施して凛々しさが増した顔立ちは、女だらけの歌劇団を連想させる。これはお五徳が憧れるわけだ。そのお五徳は直虎登場以来、彼女にべったりだった。眼福である、女城主万歳。

「尾張守様」

「どうした、直虎」

 諱で呼ばれたくはないらしい。

 柳眉を顰めつつも、彼女は無言で酌をする。

 仮にも城主にやらせていいものかと慌てたが、家康と信包が黙って頷くので思い直した。男同士でも歓待の意味で酌をすることがある。徳川家臣である直虎は、織田家当主である俺よりも身分が下だ。

 堂々としろ、俺。

 剣ダコだらけの手に目を細めつつ、濁り酒に笑う。

「井伊の地酒か?」

「はい。お口に合うとよろしいですね」

 語尾に違和感を覚えたが、気にしない。

「酒は好きだ。過ぎれば毒だが、毒も使いようによっては薬になる」

「相良村の毒水も薬になるとお考えですか?」

「直虎!」

 ざわり、と広間の空気が揺れた。

 家康の慌てようからして、筋書きにない台詞が飛び出してしまったか。予想外の展開は大歓迎だ。頭脳戦は適任がいるし、そもそも俺の存在自体がイレギュラーである。いや、俺が正しく転生チート野郎なら信治は死ななかった。

 満たされた盃を一気に干した。

 無言で突き出せば、直虎は戸惑いながら注いでくれる。てっきり答えるまでやらぬ、と頑なな態度をとるかと思ったので拍子抜けだ。彼女も案外、駆け引きは苦手なのかもしれない。

 干して、注いでを何度か繰り返し、とうとう直虎が焦れ始めた。

「尾張守様」

「ん~」

「……その、過ぎれば毒です」

「ぶ、くくくっ」

 一応、弁解しておく。

 噴き出したのは俺じゃない、信包と正信だ。

 全く分かっていないお五徳はだんだんふくれっ面になり、忠勝は怒気を増し、家康はそんな一同をオロオロと見回すだけ。残りの御供衆もそれぞれに反応を見せ、なんともカオスな様相を呈していた。

 俺はしばし考え、空の盃を下に置いた。

「静まれ」

 誰ともなく睨んでいけば、後ろめたい奴らが首をひっこめた。

 笑っていた者は口を押さえるなり、顔を逸らすなりと大人しくなる。

 俺だって、直虎の可愛らしい諫言に笑ってしまいそうになったさ。だが羞恥で頬を染め、唇を引き結んで俯く彼女は城の主だ。この場における地位は低くとも、ホスト役として俺達を持て成そうとしている。

「一人の武士たる井伊次郎法師を辱める者は、この信長が許さん」

「……え」

「なんだよ、文句あるのか」

「わ、私は女で」

「知っている。女が家督継いで、ここの城主やってんだろ。岡崎城を出てすぐに、お五徳から聞いた。憧れの存在だと言っていたぞ。片意地を張るな。そのでかい胸を張れ。何のためのおっぱい鎧だ」

「姫鎧です!! 何度訂正すれば、分かっていただけるのですかっ」

「そう怒るなよ。悪かったって。かのジャンヌダルクが着てたらしいプレートアーマーに似てたから、ついうっかり」

「ざ、ざんぬだるく? ふれえと、あーまー?」

 突然ですが、笑ってはいけない井伊谷城。

 なんだ、これ。シリーズ化しろってか。全部俺のせいなのは、可愛い娘に睨まれなくても分かっている。辱めるなと言った傍から、俺がこいつを萌えの塊かわいいいきものに仕立ててどうするんだ。

 可愛い女の子限定と思っていたが、綺麗系でもいけるわ。

「お姉さま、ジャンヌダルクはオルレアンの英雄ですわ!」

「おれりあ」

「南蛮の国、オルレアンです。戦で苦しむ民を救うため、白百合の乙女が槍を持って敢然と戦ったという英雄譚なのです。あたし、このお話が大好きで!」

「三郎兄上、姫に何を話しているんですか」

「ネタが尽きたんだよ」

「魔法少女も大好きです!」

「兄上」

 家康の次は信包かよ。

 この世界に魔法の概念はないものの、陰陽術みたいなものだと説明している。最盛期に比べて評価も反転してしまった今、陰陽師になりたいと言った時点で頭が正常か疑われる。武士の台頭以来、妖怪・化け物退治は単なる武勇伝に変わっていった。

 ファンタジーな国オワリなら、きっと魔法も使える。

 そう思っていても口には出せない俺であった。

「ときに竹坊」

 わざと幼少時の呼び方を使えば、家康が肩を震わせた。

 恥ずかしがっている場合ではない。それなりにそれなりの付き合いがある俺たちなら通じ合うモノがあるはずだ。なあ、家康? って、どういうこと?

 ギギギ、と幻聴が聞こえそうな動きで顔を反らした。

「おいコラ、こっち見ろ」

「申し訳ありません」

「ド阿呆!! 臣下の前で情けない姿晒してんじゃねえ!」

「……っ」

「毒水と聞こえた。飲んだ奴がいるのか」

 直虎がさっと顔色を変える。

 舌打ちをしたのは正信だろうか。家康はもはや真っ青な顔で震えながら、小さく頷いた。半兵衛には噂の所在地を調べさせただけで、相良村の「黒い水」が何なのかを明かしていない。それでも聡い奴は薄々察するだろう。

 俺が自ら足を運んででも、確かめたい何か。

 ましてや遠江国は徳川領だ。駿河国に近くて、内情も安定していない。東海道の整備が行き届いていないことからも、それは明らかだった。

「まあいい。過ぎたことだ」

 盃を持てば、今度はお五徳が注いでくれた。

 腰が抜けたように動けない直虎は、全く動じていない様子のお五徳に驚いている。うつけの娘がこの程度でビビるかよ。この調子なら、芋虫の刑も話していないだろう。

「俺に娘は二人いるんだが、どっちもお転婆でなあ」

「ち、父上、だめっ」

 すぐに察して暴れる娘を羽交い絞めにして、話を進める。

 先に盃を干しておいてよかった。娘を抱えて酒を飲む趣味はない。

「一度だけ兄弟と城からの脱走を試みた時には、肝を潰したもんだ。というか、兄弟仲も良すぎて、俺を出陣させまいと物理的に止めようとしてきたこともある。全員でな。我が子に全身を拘束されるなんて、そうそうあるもんじゃないぞ」

「縄ですか?」

「そっちは元服直後の三十郎」

「ああああ兄上、五徳姫の話じゃないんですか!」

「お五徳も縄で縛ったなあ。こう、ぐるぐると――」

「あーあーあーあーあー!!」

 しまった、口を封じておけばよかった。

 沸騰したヤカンのようになった娘の口を手拭いで覆う。むうむうと抗議されるも、縄で縛らないだけマシだろう。今の彼女にやらかせば目の毒どころで済まなくなる。

「竹坊は頭の出来はともかく、何でもよく気付くガキだった。頭の出来はともかく」

「その、な? 忠勝、正信。せめて一言なりと弁護をしてくれないかな」

「無理です」

「お断りいたします。松永弾正様よりくれぐれも、くれぐれも尾張守様を怒らせるなと言付かってまいりましたが、あずかり知らぬところで元主君がやらかしたことまで何とかしろとは。いやはや、甘えん坊なところも変わりませんな」

「本多佐渡! いくら何でも不敬ではないかっ」

「次郎法師殿、あなたにも失望しました。これでも見る目はあるつもりでしたが、さすがに自信をなくしそうですよ」

 とか言っている正信も、ある程度の情報は掴んでいるはずだ。

 戦は集めた情報で決まる。

 鮮度と質が命なのは言うまでもない。得た情報の使い方によっては開戦せずに片付けることもできるし、犠牲を増やすことも減らすこともできる。誰かさんが実践してみせたように、特定の者を「討ち死」させることも可能だ。

 とんとん、と肘を打つ。

 たちまち織田側の者たちの視線を感じて、俺は苦笑した。手を広げて二度膝を叩けば、なあんだという顔に変わる。暗号『もうるす改』は似た動作で誤解されやすい。

 暗号じゃないよ、というポーズも教えておいてよかった。

 それはともかく。

「一益。至急、岐阜へ文を送れ。内容は分かっているな」

「是」

 旅路でも、宴席でも空気と化していた男が実体化する。

 唖然としている家康と直虎に退場の断りを入れ、音もなく消えていった。どういう理屈であんなことができるのかは長年の謎である。

「次郎法師」

「は、はい」

「どんな誤解を……いや、徳川側で何を考えていたかはこの際どうでもいい。貴様も相良村まで同行しろ。俺が言い出さずとも、そのつもりだったろうがな」

 直虎が視線を彷徨わせるので、顎を掴んだ。

「あがっ」

「この信長に小細工は無用! 覚えておけ」

 お伺いを立てようとしたのは家康か、はたまた正信か。

 綺麗な顔が痛みに歪むのを見て溜飲を下げた俺は、しばらくお五徳の酌で酒を愉しんだ。信包を筆頭に、織田側の人間がどこか誇らしげなのが気恥ずかしい。

 キメ台詞じゃないからな。本当だからな!





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南蛮船や南蛮の国に関するネタは、半分くらいが誤情報だと思ってください


東洋のジャンヌダルクといえば鶴姫(大三島)

本編の井伊直虎は、白百合の乙女とは違ったイメージで書いています。織田家の子供たちはサンタクロースを信じていません(クリスマス限定の役職だと思っている)が、お五徳とお冬は不思議生物との出会いで「魔法少女」になれると信じています。

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