195. 涙
ぼへーっと空を眺める。
信治が死に、奈江が去っていった。
いや、この二つを並べるのはおかしいな。奈江は生きているし、織田領内に住んでいるのは変わりない。ちょっと馬を飛ばせば着く距離だ。顕如が気を利かせて、下間頼廉を長島へ向かわせてくれた。おかげで正式に坊官として着任した、その日から報告書が綴られている。
家族や知り合いが十郎についていった家もあるそうだ。
遺骸はきちんと弔ったことを伝え、年内は皆で喪に服すらしい。そう決めたのは龍興だというから、随分変わったものだと思う。俺自身、年が明けるまで何もやる気が起きない。
親父殿や爺、舅殿が亡くなった時は側近連中がいた。
「涙、出てこねえ」
煙草も吸う気になれない。
岐阜城に入って、家族に一通り話をしてからは誰とも会っていない。あんなにも恋しかったのに、帰蝶すら避ける俺がいた。家臣どもが勝手に気遣って仕事を減らそうとしてくれたが、当主としての執務まで放り出すことはできない。
頭を働かせている間、体が動いている間は無になれる。
「やっぱ、逃避の一環かな」
長島一向一揆は、おそらく起きない。
その代わりに南近江がひどいことになった。将兵もろとも民を惨殺したということで、仏僧気取りの武田信玄が問責状を送りつけてきたのは先日のこと。
久しぶりの文がソレとか、笑える。
自棄になっていた俺は「仏敵上等。第六天魔王見参」と返してやった。
民を惨殺したんじゃなくて、分け隔てなく命を刈り取るだけの殲滅戦だ。織田軍は火事場泥棒をやらかすどころか、それを取り締まる体制が定着している。手当たり次第に女を襲ったりしないし、戦争孤児は見つけ次第引き取って孤児院で育てる。どうしても発散したい奴向けに、プロの娼婦も育成中だ。いずれは吉原みたいな花街を作りたい。
いや、俺は行かないぞ。本当だからな?
孤児院と託児所は、現時点で美濃岐阜城下にしかない。
「織田尾張守、孤児院と託児所の違いは如何?」
「孤児院は孤児、親がいない子供たちを世話する場所。託児所はおねね――羽柴家の嫁な――が始めたようなもんだが、親がいても満足に生活できない者たちの溜まり場だ。戦で夫を亡くして、村で囲われるような女が子連れでやってくる」
「ならば、孤児院を増やすべし」
「簡単に言うなよ。織田塾と違って、小さいのから大きいのまで何年間も面倒を見なきゃならない。世話役と養育費、その他諸々の問題が山積みだ」
「寺で預り、門徒の布施で賄えばよい」
「阿呆。一人残らず真宗僧になっちまうじゃねえか。却下」
「むう」
すっかり茶飲み仲間と化した顕如が唸る。
気配を消して近づくなと、声を大にして言いたい。そして当たり前みたいに二人分の茶が用意されている不思議について、俺は疑問に思うべきかもしれない。
慣れってコワイ。
「それはそうと」
「ん?」
「武田徳栄軒の評判は下がる一方であるな」
一瞬、誰? と思ってしまうが、信玄のことだ。
俺特製「
従来の汲み取り式便所に蓋をつけ、手動の水洗式にした。
使い終わったら桶の水で流し、便器に蓋をする。
臭いモノに蓋を……、とはよく言ったもんだ。排泄物も使い道があるからなあ。地中へ埋める専用タンクに長柄の杓子、漆塗りの便器蓋をセットにして売り出したら結構儲かった。どこぞの名将はトイレで策を練った、なんていうくらいだ。
臭くなりにくいトイレは画期的発明と謳われた。
ほっとけば臭くなるぞ。定期的な手入れは大事だ。いつも綺麗にしておくと、トイレの神様の加護があるかもしれん。とか言ってみたら、湯船の次に磨いて当たり前みたいな風潮になった。
お前ら、風呂好きだな。俺も好きだが。
「問題は水不足になりやすい地域では、元の木阿弥っていう」
「いつもの空言であるか」
「うるせえよ。信玄に悪評がついたからどうだっていうんだ」
「織田尾張守を上手く言いくるめて何度も貢がせ、あまつさえ嫡男を誘拐し、勇気ある織田家の忠臣が取り返したところを追いすがり、国境で見事に追い返されたとか。さすがに不味いと思った徳栄軒はこっそり美濃入りを果たすが、またしても嫡男にしてやられて国へ帰った。度重なる屈辱に耐えかね、先の戦をあげつらって『織田尾張守こそ仏敵。第六天魔王の再来である』などと吹聴した」
「おい、おい。待て。なんだそりゃ?」
だいたい合ってる。
武田家への悪意に満ち満ちた織田寄りな評価だが、事実無根とは言い難くてコメントに困る。文を返信する時も適当に書いたから、魔王の呼び名は虎のおっさんが考えたわけじゃない。
「我が宿敵に相応しい名乗りよ」
姉川での会話も覚えてんのかよ。
俺は思わず顔をしかめる。
「真宗の教えもアレか。右の頬を殴られたら、左も殴ってもらうのか。自己愛イコール隣人愛とか言っちゃうのか。敵同士で仲良く茶ぁしばくとか、ないだろ普通に」
「衆生をお救いくださるは、阿弥陀如来の御力ゆえ。ただ真摯に願い、南無阿弥陀仏と唱え、極楽浄土を目指す。我ら真宗教団において、他力とは阿弥陀如来の御力を示すものなり」
「そうだったな」
他力本願。
一般的に知られている故事成語は有名なものほど、本来の意味を失っている。言葉なんて使いやすいように使われるんだから、別に不思議なことでもない。ただ「意外」と感じるくらいだ。
自分の力で悟りを拓き、解脱を目指す考え方とは一線を画す。
だからこそ庶民に広く信仰されるようになったとはいえ、臨済宗と真宗は相性が悪そうだ。奈江がどれだけ困難な道を選んだのかを理解しても、連れ戻すことは叶わないだろう。それに今の伊勢長島なら大丈夫かもしれない、とも思う。
頼廉や証意が裏切らなければ。
すっかり香りのとんでしまったハーブティーを啜る。女たちも好き嫌いが分かれて、男たちには全く好まれない茶だ。もちろん全く売れない。巷では薬草茶として知られつつあるが、美食家・織田信長のお気に入りだからだ。
いや、誰が美食家だよ。ふざけんな。
お高い食べ物は口に合わん。庶民派ゆえに。
美食家・武田信玄の方がしっくりくる。美味い酒があれば満足な軍神と違い、甲斐の虎は食にうるさいと聞く。ああ、美しい少年も含まれるか。
「来年辺り、攻めてくるだろうなあ」
「民を苦しめて、何が戦か」
「戦で得をするのは商人だけだ。あと坊主」
顕如が不満そうにするが、本当のことである。
今やあちこちで使われるようになった鉄砲は金食い虫、新しい武器を開発しようにも金がかかる。大砲が未だ広まっていないのは、鉄砲以上に暴発しやすいせいもあった。鋳造式よりも鍛造式の方が安定する分、数を揃えようと思ったら時間と金を大量消費する。矢は消耗品に数えられるし、刀や槍も定期的な手入れが必要で、馬は生き物だから言わずもがな。
騎馬隊の精鋭を誇る武田軍は、相当数の馬を保有しているだろう。
下手すりゃ領民よりも衣食住がしっかりしている。
そして坊主。死者の弔いに戦勝祈願に軍師に引っ張りだこといえば、お分かりいただけるだろうか。
争いを避けるために出家し、家督を継ぐために還俗する。年間法事のみならず、武家と寺は密接な関係にある。門徒が出すお布施などかわいいものだ。どこそこの高僧を参謀役として招く、相談役として重用されるというケースも珍しくない。無料奉仕? なにそれおいしいの。
「奇妙殿は元服させぬのか?」
「まだ早い。つーか、今年も色々やらかしたのに元服させたら他に示しがつかん。むしろ茶筅の方を褒めてやりたいくらいだ」
とうとう北畠の御大、
隠居しても
なにそれ凄く羨ましい。俺にとっても理想の形だ。
心配なのは神戸家で、具盛と三七の仲があんまり良くない。
お冬の我儘になんだかんだ振り回される具盛に不満を抱いているようだ。それで鈴与姫に八つ当たりして、家臣たちからの評価も下がる一方である。事情を知っているはずの茶筅丸や信包が放置しているので、俺もなかなか言い出せない。
お五徳も、姑の築山殿とは上手くいっていないみたいだしなあ。
家康が今川家臣時代に迎えた正室で、今川家臣・関口親永の娘だ。母方の親戚が井伊家という噂もあり、織田家にとってもなかなか複雑な事情を持つ。いくら人心掌握に長ける家康でも、女の喧嘩には入りづらいだろう。
側室を戦場へ連れていったのは家康だったか?
羨ましい通り越して妬ましかったので覚えている。すっかり体が弱くなってしまった吉乃のことを思うと、帰蝶を連れ回すのは難しい。奈江は……、出家しちまったんだったなあ。そう考えると、お冬のお転婆ぶりは正しく母親譲りだ。
「顕如、本願寺にはいつ帰るんだ?」
「む?」
静かだと思ったらスルメ食ってた。
噛めば噛むほど味が出る干しイカは、七味マヨネーズがほしくなる。卵の生食は厳しいからマヨネーズは断念するしかない。スルメ自体は珍しくもない加工食品だが、自分で作った方が美味しく感じるのは何故だろうな。新鮮なイカを捌いて、きれいに洗い、天日干しにする。
真水じゃなくて海水で洗うのがコツだ。
旬にこだわるなら、やっぱりアオリイカがいい。大きくて肉厚、食べごたえがあって最高だ。スルメは縁起物だということで、俺がスルメ好きだと聞いた人間が貢いでくることもある。
その貢物のイカ足がピコピコ動いていた。
やだ、顕如ったらお茶目さん。
「もっと味わって食えよ! 一本まるごと頬張るとか、食いしん坊か」
「坊主ゆえに」
「誰が上手いこと言えと……」
おそろしく疲れたので、俺もスルメを齧った。
「これ、しょっぱいぞ」
「うむ」
「塩の味しかしない」
「うむ。拙僧は何も見ておらぬ」
「うるせ」
不本意な声が出そうになって、ハーブティーを一気飲みする。
気管に入って、激しく咳き込んで涙が出た。うん、だから仕方ない。ぼろぼろと涙をこぼしながら、スルメを咀嚼する。俺も顕如も、口からイカ足がピコピコしている。
「顕如どん」
「何であるか」
「結論、スルメとハーブティーは合わない」
「うむ」
蘭丸が新しい茶を持ってきて、空っぽの皿を下げていった。
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それからめちゃくちゃ泣いた
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