193. 野村合戦

 元亀元年(1570年)9月、織田信治討死。

 毒殺でもなければ、謀殺でもない。織田家武将として楠軍と戦い、衆寡敵せず負けた。信治がよく耐えたおかげで、羽柴秀吉たちはすぐさま宇佐山城を取り戻すことができた――と、織田家の記録は綴る。

 そして楠軍は北へ逃げ、今は虎御前山にいた。

 小谷城は目と鼻の先だ。

 なだらかな稜線に沿って、いくつもの砦が作られているという。

 機動力の高さはさすがというべきか。六角氏にとって南近江はホームであるから、一向宗の過激派といえども江南の民を味方につけたのは上手いやり方だ。といっても、承禎や十郎の考えたことだとは思わない。

 甲賀衆に、一部の雑賀衆、そして比叡山の僧兵ども。

 合わせて一万三千の軍勢は武士・農兵・忍・鉄砲兵・僧兵とまあ、戦闘職のオンパレードだ。それでいて織田憎しと、最新技術を使わない時代遅れの装備だというから呆れる。俺を本気で殺す気があるなら、敵の長所を奪うくらいの冷静さは残しておけよ。

 付け入る隙があって、こっちは大変ありがたい。

「山を崩して埋めるか。いっそのこと、貯水湖にするか」

「三郎殿、声に出ているよ。それに山から下りてもらわないと、どっちも無理だから。分かってて言っているよね?」

「ふん」

 苦笑する信純を一瞥し、再び地図に視線を戻した。

 信直と入れ替わりに近江入りして数日、大体のことは頭に叩き込んだらしい。宇佐山へ葬られた墓――信治の遺言だった――に、手を合わせてから合流してきている。

 今、織田本隊は横山城に布陣していた。

 ここから北西に虎御前山、更に小谷城がある。

 なんとなくだが、近江国には古墳が多い。プレートの衝突で日本列島が生まれたから中部地方に山脈が連なっている、というだけじゃないようだ。明らかに人工的な形、有名な前方後円墳を連想させる山もある。

 この時代の人間にとって、古墳はちょうどいい陣地だ。

 同じように地図を眺めていた信純が呟いた。

「ちょっと拍子抜けしたかも」

「何がだ」

「こうも簡単に策にはまるとは思わなかったんだよ。彼、本当に大楠公の再来なわけ? 六角の爺さんは老いに勝てないとしても、……なんだか納得いかない」

「又十郎の話を疑うのか」

「三郎殿こそ」

 曖昧な笑みと、不自然に切られた言葉尻。

 俺がどう答えても意味はない。信治は生き返らないし、十郎の死は俺の中で確定している。奴に味方した人間も皆、同罪だ。生かしておいても害を及ぼすなら、仕方ない。

 若狭衆を連れ、長秀も合流してきた。

 ここから東の竜ヶ鼻には家康が布陣し、軍勢の一部を比叡山にも配置する。中立を保つという言い分が、どこまで信用できるか分からないというのだ。実際、あちらから少なくない数が六角軍に合流している。織田軍じゃないから大丈夫、という問題でもない。かといって家康の予測はまあまあ当たる。

 比叡山に配置する部隊は、徳川家臣・榊原康政さかきばらやすまさが指揮を執る。

 忠勝の幼馴染なら、問題児の扱いには慣れているだろう。

 追い込まれたとも知らず、楠・六角連合軍は小谷城の城下を荒らしまわった。長政には前もって避難勧告を出すように指示してあるし、城下町の再建には秀吉を遣わせる予定だ。長政は臭くない町を羨ましがっていたから、ちょうどいい。

「三郎殿。朝倉軍が大依山に着いたって報せが届いたよ」

「そうか」

 越前国には信盛を派遣していた。

 俺が出陣しているのに、大人しく留守居役で甘んじる男じゃない。義景と共に佐久間軍を連れてきているはずだ。虎御前山は小谷城に近いが、琵琶湖からは遠い。

 今回、尼子衆の出番はないかもしれない。

 そして可成は宇佐山城に置いてきた。信治にはこれ以上心配かけられない。万が一の抑えということで言い聞かせたら、まるで墓守のような顔をして頷いていた。ちなみに法事を終えた顕如たちは、織田軍と行動を共にしている。

 楠・六角連合軍の過激派一向宗どもは、これをどう見るのだろう。

 各陣営の合流まで睨み合いは続いているものの、裏では熾烈な忍術合戦が繰り広げられている。一益も滝川一族総出で、伴衆と共同戦線を張った。長利もそっちに行くかと思いきや、俺の護衛をするといって陰に潜んでいる。久秀もこれに倣い、壁に同化していた。

 別に堂々と傍にいてくれてもいいんだが。

「三郎、まだ開戦せんのか!」

「貧乏ゆすりやめろ、鬱陶しい」

「輪宝強請り?」

「誰が仏像の話をしとるか! この馬鹿兄貴が」

「ぬお!? やめるのだ、三郎。刀を向ける相手が違うであろうっ」

 直後、ハリセンが小気味良い音を立てた。

 俺じゃない。すごくイイ顔をした信包が、蹲る信広の後ろにいた。鼻歌まじりに短筒を弄っている信興の横では、長益がのんびりと茶を啜っている。訃報を聞いてすぐに兄弟が揃ったのは、信治が大切に思われていた証拠である。慶次には荒ぶる嫡男奇妙丸が城を飛び出してこないように抑え役を頼んでおいた。利家をはじめとする血気盛んな奴らはとっくに外だ。

 いつ開戦してもおかしくない。

 織田領の全軍が集結しているんじゃないかと疑いたくなるくらいの陣容だが、俺は緊急招集をかけていない。ほんの一年前には笑い合っていた奴らが、それはそれは恐ろしい形相で同じ方向を睨んでいる。

「刈り取るのは、作物だけでいい」

「三郎殿、冷静にね」

 言わなくても分かっているだろうけどと、信純が囁いた。

 もちろん、分かっているさ。首は刈るんじゃない。刎ねるのだ。

 ちょうど皆の視線が集まったので、俺は立ち上がった。ここは尾張国じゃないが、尾張国出身の者が大半を占める。親父殿と側近たちを見て、尾張は修羅の国だと思った幼き日が懐かしい。代替わりしても修羅どもは健在のようだ。

「そろそろ頃合だ、先に仕掛けるぞ。鬨の声を上げろ! 九郎の弔い合戦だ。この近江から一兵たりとも逃がすな。残らず殲滅しろ。楠十郎を見つけたら、俺の前に連れてこい。生きていれば、十分だ」

「ははっ」

 一同が揃って頷き、俺も頷いた。

 ばたばたと散っていく背を見やり、そっと息を吐く。

 長政が裏切らなかったから? 長島の一向一揆が起きそうにないから? 死ぬべき人間を生かし、見逃し、うだうだと言い訳を重ねてきたから?

 だから信治は、死なねばならなかったのか?

 俺のせいだ。貴様のせいだ。

 頭の中でわんわんと鳴り響く呪いの言葉をそのままに、俺はうっすらと笑った。我が師沢彦宗恩が何を願い、何を望み、何を目指しているのかなんて、どうでもいい。

 どうせ、人間はいつか死ぬのだ。

 あの男だけは死を与えない。天命尽きるまで、苦しめ。

 俺は死なない。狂わない。貴様の思い通りになってやらない。

 生きたいと望んでも死んだ奴らの分まで、浅ましく生き延びてしまえ。俺は絶対に手を下さない。救いなど与えてやるものか。

「小谷城、大依山から浅井・朝倉軍が出陣!」

「虎御前山より敵影が分かれ、姉川に向かった模様!」

 本陣に届く報せを聞き、ふと首を傾げた。

「ここで軍勢を分けるか?」

「北の動きに対応したんじゃないかな。ちょっと考えたくないけど、こっちには気付いてないみたいだねえ。合流させずに、こっちも二つに分けようか」

 そして野村、三田村の郷でそれぞれ戦端がひらかれた。

 戦場になるであろう地域はあらかじめ収穫を済ませ、民の避難を終えている。自国領は戦火に遭わせないのがモットーだったのに、今年はイレギュラーが多すぎた。何度目の出陣かと考えるだけでウンザリしてくる。

 いや、これも俺の業だ。

 もっと上手くやれたはずなのだ、織田信長ならば。

「佐和山城から磯野丹波守様、ご着陣! 殿にお目通りを願っておりますが、いかがいたしましょう」

「通せ」

 イソノさんちなら会おうじゃないか。

 近江騒動で生き残った武将、という意味でも興味がある。もうすぐ還暦を迎えようかという初老の男が大股でやってきて、具足のまま片膝をついた。普通の落ち武者ヘアに、日焼けした顔のシワがくっきり出ている。

「浅井家臣・磯野員昌いそのかずまさと申します」

「三郎信長である。ところで、員昌は入り婿か?」

「違います」

 だよね。知ってた。

 律儀に挨拶しにきただけという員昌の出陣を見送っていると、信純の生温い視線を感じる。ものすごく物言いたげでありながら、今にも吹き出しそうな気配だ。

「磯野家、息子が二人と娘が一人いるから」

「素晴らしいじゃないか、磯野君」

「ときどき、三郎殿の考えていることが全部透けて見えないかな、って思うことがあるよ。長政殿が誤解しちゃうから、彼の前では止めてあげてね」

「もちろんだ」

 磯野員昌は後れを取り戻すかのように奮戦した。

 その勢い鬼神の如し、とは近くで戦っていた美濃三人衆の言だ。たちまち三田村の六角本陣へ迫る猛攻を見せ、六角承禎の首級を挙げる一番手柄を掴んだのである。六角家臣のほとんどは討ち取られ、奥で守られていた義治も捕縛。

「虎御前山の本陣はどうした」

「出陣の際、完全に引き払ったようです」

「……うーん、楽ができていいと喜んでおこうか。それで楠軍の方はどうなったのかな? 虎御前山から出て、野村の郷へ向かったはずだよね」

「はっ。浅井軍の突撃を受け、ほどなく本陣も落ちるかと思われます」

 たった数刻の戦だった。

 朝餉の後、夕餉の前に全て終わってしまった。長期戦も覚悟していただけに、この顛末は拍子抜けしたとしか言いようがない。だが姉川は流れた血で真っ赤に染まり、十日経っても元の澄んだ水に戻らなかった。味方にも多くの死者を出したが、楠・六角軍はほぼ全滅した。

 死屍累々の光景は、長良川を思い出させる。

 そこにいると報告を受けて、俺は姉川の河畔へ来ていた。

「久しいな、十郎」

「ようやく出てきたか、織田信長!」

 ぜえぜえと息を切らせ、十郎が吼える。

 返り血なのか、傷を負っているのか分からないくらいのボロボロ具合だ。敵も味方もいなくなったにも関わらず、真っすぐに俺を睨んでくる。歪んだ顔は、いつか見た清廉な若者の面影なんか見当たらない。憎悪と怨嗟の入り混じった手負いの獣、それが今の十郎だ。

「刀を抜けえっ」

 促されるまま、圧切長谷部をで持つ。

「抜いたぞ」

「はは、そうだ。織田信長ぁ……私と、戦え! そして殺されろ。織田信長! 貴様のせいで、私は…………そうだ、私の手で、私によって、私の恨みをその身に刻んで、死ね! 死ね死ねシネシネシネ!!! あっははははああ!」

 壊れている。

 人間が壊れたら、あんな感じか。俺も一歩間違えたら、同じようになっていた。必死に抑え込まなければならなかった憤怒も憎悪も、十郎の哄笑に消されていく。

 すうっと冷えた心に滲んだのは、悲しみだ。

 信行を死なせまいと考え巡らせたように、十郎のことも気遣えたらよかった。奈江を側室として迎えてから、女として愛してしまって、子供が生まれて、どこか後ろめたくなっていたのだ。本来なら十郎の妻として、楠家の正室として采配を振るっていたかもしれないのに。

 二人の仲を裂いたようなものだ。

 あの時、長良川で出会わなければ――。

「おおおおだあああぁのおおおぶううながあぁあっ」

「十郎、俺は」

「しいいぃねええぇ!!」

「貴様と、友達になりたかったんだ」

 頬が濡れる。

 こちらに走ってくる十郎が、やけにのんびりしているように見えた。死の危機に際して、超感覚に覚醒することがあるらしい。今、そんな感じかと頭のどこかで冷静に判断する。

 動かすのは利き手。持ち上げた短筒の先が、ごりっと当たった。

 ちりちりと火縄が燃える。後はそう、引き金を引くだけ。

 振りかぶった刀が止まり、十郎の額に穴が空く。

「な、ん……」

「この短筒は、俺たちの願いだ」

 初めて狙いに命中させた。

 これだけ至近距離なら、外すこともない。刀は俺の額をうっすらと斬りつけて、後ろへ倒れ込む十郎と一緒に地面へ落ちた。そして、ぴくりとも動かない。

 信興にメンテナンスを頼んで正解だったな。完璧だ。

 後ろから長利が駆けてくる。

「兄上、大丈夫?」

「掠っただけだ」

「二度は、嫌だからね。僕、嫌だって言ったんだから」

「知ってるさ」

 俺は手出し無用と言った。長利は耐えた。

 褒美だとばかりに頭を撫でてやれば、くしゃくしゃに歪めた酷い顔になった。泣くのを堪えているのだろうが、ひん曲がった唇の下に富士山ができている。

 おかしな顔だと笑ったら、ぬるい滴が顎から落ちていった。





********************

姉川の戦いは浅井軍が野村、朝倉軍が三田村に布陣したことから、「野村合戦」「三田村合戦」とも記されているそうです。姉川の周辺地域にあたるので、どの呼び方も間違いではないらしい。

呼び方のイメージは「南近江」が領地で「江南」が居住域。

土地は「江南」の方が狭いです。



磯野員昌...通称は丹波守。元京極家臣で、没落後は浅井家に仕えた。

 その戦いぶりは「員昌の姉川十一段崩し」として伝わる(史実)

 某国民的アニメとはたぶん無関係。ノブナガの腹心にして、軍師と名高い信純を(笑い)殺せる相手(本編ネタ)

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