192. 九郎

 楠十郎は命の恩人だ。

 俺は何度も、そう言った。

 今もその気持ちは変わらないし、長良川で十郎に見つけてもらえなかったら野垂れ死んでいたと思う。可成たちが見つけるのは、変わり果てた俺の姿だったろう。

 可成は近江騒動の後、京と大津を結ぶ街道付近に宇佐山城を築いた。

 宇佐山は琵琶湖のすぐ傍にあり、船着き場も新しく整えていたようだ。美濃国から近江国へ拠点を移す俺の考えを知り、地盤固めの目的があったと思う。秀吉は長浜城を築き、勝家は長光寺城を改修した。

 南近江の不安定な情勢を鑑みて、秀吉たちを配置した。

 だから摂津中嶋の戦いは水攻めの奇策を使うことになったし、顕如や長政の援軍も大いに助かった。本人たちには絶対言いたくないが、彼らの貢献度は計り知れない。だから労いの言葉をかけるついでに、少しでも情報を得ようと立ち寄った。それだけのはずだった。

「なのに、何故だ」

 ちゃんと分かっていた。

 とことんやり合うまで収まらない、と。利がなくなったから降伏する者もいれば、プライドと意地のために何度でも戦いを挑んでくる者もいる。そういう相手との戦は、どっちかが死ぬまで終わらない。

 俺と十郎はそういう関係じゃないはずだった。

「何故だ!!」

 叫んでも答える者はない。

 京から駆けに駆けて宇佐山城に入り、信じがたい事実を目の当たりにする。頭のどこかで天が味方していると、このまま何事もなく四十九の節目までいけると、愚かな考えに囚われていた。そこかしこで小さな不安を感じては、臆病な俺ノブナガが怯えていたのに。

 俺は、とんだ愚か者だ。

 がくりと膝をついて、おそるおそる手を伸ばす。

「九郎」

 どうして信治、お前がこんなところに?

 すっかり冷たくなって、ぴくりとも動かないんだ。穏やかな顔はまるで眠っているみたいじゃないか。触れても、抱きしめても、何も感じない。何も反応しない。

「……勝家」

「はっ」

「九郎は何故、死ななければならなかった? 尾張の野府城にいるはずの九郎が何故、こんなところにいるのか。俺でも分かるように話せ」

「若様が……」

「奇妙丸がどうした」

「嫌な予感がする、と仰るので尾張国へ使いを」

「それだけか」

「それだけにござる」

 奇妙丸はちゃんと岩村城へ戻った。

 護衛に連れていく分だけ守備が心許なくなるから、尾張国から増援を願ったのか。美濃と尾張のどちらに余裕があるかといったら、尾張の方だ。仏教宗派の軋轢もなく、かなり安定した生活が送れるようになってきた。

 清州同盟に揺らぎはなく、東の守りも万全だ。

 信治が野府城から出てきたのは、それが理由だろう。

「勝家。俺は、何故、九郎が死ななければならなかったのかと聞いている。九郎が自発的に兵を率いて、ここへ来た。それで宇佐山の兵は何をしていた!?」

「信長様、どうか……柴田殿を責めんでくだされ」

「猿が余計な口を挟むでない」

「責められるべきは柴田殿だけやのうて、わしら全員じゃ。宇佐山城は一度、敵の手に落ちてしもうたんじゃ。わしらがなんとか取り返した。信長様が到着する、ほんの一日前のことじゃ」

 淡々と語る秀吉の声には、深い悔恨があった。

 間に合わなかった。

 俺も、皆も、誰一人として間に合わなかった。鷹を飛ばしたのは奇妙丸じゃなくて、信治だったのだ。弟たちは皆、俺が教えた緊急信号を使える。可能性すら考え及ばなかった薄情ぶりに、ふつふつと怒りが沸いた。

 何が家族思いの織田信長だ。弟の危機にも気付かぬ愚鈍さに呆れ果てる。

「一度城が落ちて、取り戻したと言ったな」

「攻めてきたんは楠軍じゃ」

 今、なんて。

 反応できない俺の代わりに長政が問う。

「それはまことか!?」

「嘘を言ってどうなる! 今の服部党と一向宗を率いとるんじゃ。朝倉景健や六角承禎も取り戻して、一つのまとまった軍勢に成長してしまったんじゃ! 大楠公の再来とはよう言うたもんじゃ……柴田殿の長光寺城も、かなり危なかったしのう」

「猿!! 貴様、ぺらぺらと――」

「攻め込まれたのか、勝家」

「城は無事でござる」

 否定はしないものの、むっすりと不本意そうだ。

 十郎は、秀吉や勝家が認めるほどの戦上手に成長してしまったというわけか。将来的に織田軍の精鋭を率いてもらおうと考えていただけに、惜しい。だが今は、信治の仇だ。最後にもう一度だけ頬を撫でて、元通りに寝かせた。

 白い着物の下は包帯だらけで、血が滲んでいる。

 痛かっただろう。苦しかっただろう。俺に助けを求めて、いつ来てくれるのかと待っていてくれたんだろう。命尽きる瞬間、何を考えていたのだろう。

「ごめんな、九郎。不甲斐ない兄で、ごめんな……」

 固めた拳を軽く、地面に打ちつける。 

 俺はもう泣き叫んで、暴れて、この狂いそうな激情を解放することも許されない。きっと誰も俺を責めないだろうから、俺も誰一人責められない。京を発した俺たちが無事に宇佐山城に入れたこと自体、信治の手柄だ。

 命果てても要所を守りきったからだ。

「長政」

「はい! 今すぐ小谷城へ戻り、兵を連れて戻りますっ」

「よく分かってんじゃねえか、義弟よ」

 俺が笑えば、長政も会心の笑みを見せた。

「私とて怒っておりますから。では!」

 きびきびと動いて、人の群れから一抜けしていく。

 俺はゆっくりと立ち上がって、天を仰いだ。震える息を吐き出して、吸う。吐いて吸うを繰り返し、なんとか激情を抑え込むことに成功した。俺がやるべきことは決まっている。

「織田尾張守様……、その」

「顕如、供養してくれ」

真宗われらでよいのか?」

「一向宗と一緒にするなと常々言ってるじゃねえか」

 いちいち訂正してこないだけで、顕如は真宗教団と一向宗を同一視されることをひどく嫌っている。一向宗が浄土真宗の過激派なのは間違いないが、思想を異にする全く別の集団というのが顕如の主張だ。どっちも腐った坊主が蔓延っている点は同じなのだとか、そういうツッコミをするとややこしくなるので横に置いておく。

「織田家、俺は宗派にこだわらない。いつかキリスト教に改宗したいって誰かが言ってきても、許すつもりだ。煩い奴らもいるだろうが、宗教ってのは心の拠り所であればいい」

 顕如とはこれから色々なことで話し合うことになるだろう。政教分離は俺一人じゃ成し得ないと、嫌っていうくらいに理解した。

 今はそんなことよりも、信治の弔い合戦である。

「秀吉は明日の軍議までに、出来る限りの情報を集めろ」

「ははあっ、お任せくだされ!」

「勝家は長光寺に戻れ」

「何故に」

「そろそろ虎のおっさんが動く。家康か、又六郎から連絡が届き次第、織田軍の全力であたることになるだろう。その時に、また悪さをする奴らが出ると面倒だ。この際、可能性ごと根絶やしにする」

「……承知、仕った」

 残りの面子にも仕事を言いつけて、俺は部屋へ向かった。

 宇佐山城が小さく思えるのは小牧山城や岐阜城で見慣れてしまったからか。主君としての特権で奥の間を使えるのはありがたい。呼ぶまで誰も近づかないように言い置いて、畳へ転がった。

 もうすぐ夕餉の時間のはずだが、空腹を感じない。

 せめて体を休めて、明日に備えなければ。

「全然眠れる気がしねえ」

 鍛錬でもしようかと刀を抜けば、抜き身を眺めるだけに終わる。

 ころしてやる。

 頭の中で、そればかりが繰り返された。十郎とは長島屋敷で会って以来だ。名前だけはチラチラと聞こえていた。警告もされていた。命の恩人を言い訳にしながら、十郎は弱者だと決めつけていたように思う。

 守るべき民の一人だから、傷つけられない。

 屍の中で目覚めた瞬間を忘れられない。長島の地は俺にとって死を象徴する鬼門であり、織田信長として再出発した原点でもあった。今はそこに長益が根づいている。

 あの龍興が民と共に生きる道を模索している。

 十郎はもう、いらない。

「誰だ?」

 足音に気付いて刀を握れば、懐かしい顔が現れた。

 俺を見つめて、何かをぐっと堪えるように唇を引き結ぶ。

「爺……じゃないな。五郎の方か」

「そこまで老けたつもりはありませんよ」

「減らず口も変わらんな」

 織田領がどんどん広がっていく中、平手家は尾張国に残った。

 久秀との不仲を揶揄する者もいたが、俺の方は特に思うところはない。妹のお清が長益の妻になったので、平手家はむしろ織田一族に近い存在だ。久秀は父・政秀の仇である沢彦を監視するため、尾張国に残ったのだ。その証拠に、小木村は平手家の所領に加えられている。

「待て。なんでお前がここにいる?」

「申し訳ございませんっ」

 様子がおかしいと思ったら、がばっと頭を下げた。

 声を詰まらせての謝罪に目が動く。血と、泥の匂いもする。

「おい、怪我してんのか。一体、何があった!?」

「説明する」

「今度は又十郎か。ますます只事じゃないな」

「うん、ごめん。九郎にぃを、守れなかった」

「どういうことだ」

 握ったままの刀が金属音を立て、久秀が床に額を擦りつけた。

 放っておくと父に倣って切腹でもしかねない様子に眉を寄せ、それから枯れ葉色の忍び装束をまとった長利をまじまじと見やる。接点のなさそうな二人が揃う理由。

 信治が関わっていること。

 それはつまり、十郎の――。

「宇佐山城は落ちてない。九郎にぃは罠にはめられた」

「五郎の様子との関係は?」

 長利が口を開く直前、何となく察した。

 平手家を継いだ久秀だからこそ、個人的に頼んでいたことがあった。となれば久秀が今、ここに現れた理由も一つしかない。

「あの男が、この国にいるのか。……沢彦宗恩が」

「申し訳ございません!!」

「声がでかい。てめえが何度謝っても、九郎は生き返らねえ。又十郎の言い分が正しいとするなら、猿どもが嘘の報告をしたことになるぞ」

「うん、嘘。考えたのは、僕」

「あ?」

「奇妙丸は確かに、九郎にぃへ手紙を送った。それは臨済宗の僧が、真宗教団と接触したらしいという話を聞いたから。五郎はいなくなった僧を追いかけて、近江国境で九郎にぃと合流した。兄上にそれを知らせるために、京に一番近い宇佐山城で九郎にぃは待つことにした」

 その頃の南近江は、かなり危うい状況だった。

 伊勢信包美濃長益尾張信興で連携し、独自に防衛線を張っていたのだという。

 肝心の長政が摂津国の戦乱に加わっていたせいで、残った浅井家臣たちで何とかしようにも限界がある。そのために秀吉や勝家たちを残していったのだが、捕虜がいなくなったことで状況は悪化した。朝倉景健は粛清されなかった武将たちを糾合し、六角承禎は甲賀・雑賀の者たちと挙兵する。

 彼らは三公七民は織田軍の流したデマだと言った。

 織田軍は嘘ばかり吐く輩だという主張も、俺の悪評やら近江騒動の茶番やらで信憑性を得てしまった。ついでに本願寺勢力は、法主である顕如と俺が親しくするのも気に食わない。

 俺は摂津国にいて、側近たちは各地に散っている。

 南近江は、もともと六角領だった。

 本来あるべき姿に戻るだけ、と利害関係が一致した彼らは団結した。おそらくは六角氏が所領を取り戻した暁には、それぞれ土地を与えるなどの協定でも結んだのだろう。

 何も知らない俺が近江国へ踏み込めば、あっという間に殺される。

 信治はそう考えたらしい。

「本願寺勢力と六角軍、朝倉の一部勢力、甲賀と雑賀……これらを全部繋げたのが沢彦和尚。嘘と本当を混ぜて、何年もかけて、自分の言葉を信じ込ませた。特に近江騒動のことは予見された通りだったみたいで、服部党は参加してない」

「信治様は兄弟にしか分からない連絡手段があると仰っていました」

「ああ、ちゃんと届いた」

 助けを求める救難信号。

 ああ、信治。俺に危険が迫っていると警告したかったのか。それすらも気付かず、俺は慌てて京を出発してしまった。長政や勝家が城を出てしまい、秀吉も出払っている。宇佐山城の守りが薄い今なら、俺の首を狙えるかもしれない。

 長利は静かに告げた。

「大丈夫、兄上は守る」

「私もおります。ここで御身に傷一つ付けようものなら、父に祟られます。信治様にも、顔向けできません。傍でお守りすることを、お許しください」

「十郎めが攻めてくると?」

「来る」

 二人が同時に頷けば、もはや疑いようもない。

 あの清廉な若者を歪めてしまったのは、他ならぬ俺だ。ここまでこじれてしまう前に、直接会いにいけばよかった。京に比べれば、伊勢長島なんて近所だ。織田領の一部なのだから、家臣たちも止めやしない。

「分かった」

 長利がほっと息を吐く。

 伝えるべきことは伝えたと思ったのだろうが、肝心な話がまだだ。抜き身で忘れていた刀を鞘へ戻し、これから何をすべきかを考える。敵がどれくらいか、十郎はいつ攻めてくるのか、増援は間に合うのか、長政は無事に小谷城へ着いたのか。

 嫌な予感は、必ず当たる。

 それが信治を示していたとしても、これ以上失うのは嫌だ。

「五郎」

「はっ」

「夜戦に備え、城を見回ってこい。可成とよく相談してな」

「承知しました!」

 使命感に燃える男が去っていき、俺は弟を見やる。

「九郎は、罠に嵌められたんだったな」

「うん」

「詳しく説明しろ。本当に、お前が全て考えたのか?」

 長利が迷うように目を泳がせる。

 聞かせたくない奴は当分戻ってこないし、俺は知っておかなければならない。十郎は恩人で、沢彦は学問と武術の師匠だ。長利にも下山甲斐守という師匠がいるから、俺が苦しむことを考えて躊躇ってしまうのだと分かる。

「又十郎」

「えっと、楠の方から使者が来て……話し合いしようって。講和? あっちの言い分を飲んでくれるなら戦をする必要がなくなるし、兄上の手を煩わせることもなくなる。六角とか、甲賀とかは自分が説得するからって」

「どう考えても罠だろ」

「うん。僕、止めたんだけど。何度も止めたんだけど。あの、怒らない? あっもう怒ってる、よね。や、やっぱり話すのやめ」

「又十郎」

 涙目の弟は、こくりと唾を飲み込んだ。

「九郎にぃの死は、楠十郎を討つ理由になるからって! 兄上は優しすぎて、敵も味方も守ろうとしちゃうから、これくらいの理由がないと動けない。兄上のために死ねるなら本望だって言って、た」

 その時、俺の目にしゃくり上げる長利は映っていなかった。

 柔らかな微笑みすら浮かべて、聞き分けのない弟に諭して聞かせるように信治が言う。幼い頃の面影はすっかり消え、守りたいものができた男の顔をしていた。


『私の死は、楠十郎を討つ理由になる』


 九郎、このド阿呆が。

 ただそれだけのために、貴様は死んだのか。

 表向きの理由はあまりにも「真っ当すぎて」納得しかけていたから、残酷すぎる真実が心を切り裂く。シンプルすぎて、疑う余地もない。信治はその弁舌で皆を言い包め、上手く操縦してきたのだ。それっぽい理由をでっちあげることなど、二重三重の嘘で真実を覆ってしまうことなど造作もない。

 長利は忍術を習得している。

 こっそりと陰で見守ることも、信治の死を直前で防ぐこともできた。そうしなかったのは、信治と長利にこんな運命を背負わせたのは誰だ? 俺だ。十郎なんかじゃない。他の誰でもない、俺の甘さだ。

 涙を拭いた長利が、鈍く光る目で見つめてきた。

「兄上。アレは僕が探しておくから」

「手は出すなよ」

「えー」

「俺がやる。アレでも、俺の師だからな」

「兄上は無理だよ。弱いもん」

 さらっと酷いことを言われ、さすがに傷つく。

 確かに沢彦は学問だけじゃなく、武芸にも秀でている。俺はあらゆる面で勝てなかった相手だ。勝てない、というだけなら世界中にたくさんいる。俺はどこまでも凡人だ。強くなれないまま、少しずつ老いていくのだろう。

 いや、一つだけ勝てるものがある。

 それは年齢だ。沢彦よりも長生きする。今回の件だって、俺を殺すための計画だ。信治が十郎の手にかかったのは計算外だったろう。あるいは大事な弟を喪い、気が狂うのを期待したか。

 もう次はない。狂気に逃げる選択もない。

 今は楠十郎を討つ。それだけだ。





********************

作中の長光寺城が大変だった話は、落窪合戦のこと。

「瓶割り柴田」の異名をとる逸話として伝わっていますが、本当にあったことかどうかよく分からないらしい(諸説あり)

敵方も浅井軍ではなく、楠軍です。


近江騒動(金ヶ崎の戦い)→摂津中嶋の戦い(野田城・福島城の戦い)→(落窪合戦)→野村合戦(姉川の戦い)という流れ。敵味方を入れ替えつつ、戦の概要をなんとなく模倣してお送りしております。

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