【閑話】 この命を礎にして

※今回は信治視点

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 九郎信治は、織田信秀の五男として生まれた。

 弾正忠家の家督を継いだ信長とは、腹違いの兄弟になる。立場的には長子でありながら妾腹のため、嫡男として認められなかった信広と同じだ。正室の子、側室の子の差は歴然としている。

 だが、信長は違った。

 信秀の血を引く者、皆等しく兄弟として扱ってくれた。

 それがどれほど嬉しかったか、信長は知らないだろう。信広を含め、信治たちがどれほど信長のために尽くそうとしているか、一生気付かなくてもいい。そして信治の内に長らく存在し続けた劣等感も――。



 長男・信広は武芸に強い。

 脳筋と詰られながらも、大抵の場合で信長の戦についていく。平時には使えない頭も、こと戦に関わるとずば抜けた才を発揮するのだ。

 三男・信行は出家し、仏法僧として民の信頼を集めている。

 龍泉寺の道悦といえば、女たちがこぞって顔を染める美貌の僧だという。織田塾に入れない大人たちを誘って、手習いなどを教えている。宗派を問わない寛容さから、特に移住者からの信頼が厚い。

 四男・信包は信長による発明品を実用化し、財政面を支えている。

 信長が稀代の発明家として知られるようになったのも、信包がせっせと各方面へ売り込んだからだ。信広のように従軍させてもらえなくなってから、後方支援に徹するようになった。秘伝・蜂蜜飴のおかげで、長益に次ぐ有名人となった。

 六男・信興は九鬼水軍と共に船と港の開発に余念がない。

 海産物が好きな信長のために水産業に力を入れ始めたのだが、のめりこみすぎて当の信長が軽く引くほどになっている。水軍を率いる部隊に尼子衆が加わり、いずれ南蛮へ出発する船を目指しているという。

 七男・長益は有楽の号を得て、茶人になった。

 信長の密命を受けて早い段階で伊勢長島に根付き、美濃国から逃れてきた斎藤龍興を調教し、上手く長島城主におさめてしまった。自身は茶人として、交流の輪を積極的に広げている。信長が公家衆に一目置かれているのも、長益の助力があってこそだ。

 八男・長利は唯一定住しない生活を選んだ。

 妻子は信長の居城に残し、密かに習得した忍術で各地を飛び回る。織田家には滝川一族を含めた伊賀者が協力してくれているが、長利は独自の方法で動いているようだ。他の兄弟たちと違って必ずしも表に出ることはない分、信長に最も可愛がられている末っ子だ。



 五男である信治には何もない、わけではない。

 尾張野府城にて対武田の防衛線をずっと守ってきた。

 信長と一緒に料理をしたこともあるが、織田兄弟は揃って舌が肥えている。幼い頃から美味しいものを食べてきたからだろう。暴走しがちな兄弟たちを時に抑え、時に支えるのが信治の役目だった。

 それで満足できなくなったのはいつ頃からか。

「ようやく、だな」

 奇妙丸からの文を手に、信治は笑む。

 尾張のうつけと呼ばれた男の血を引くだけあって、奇妙丸は言葉もろくに話せない頃から普通ではなかった。正室・帰蝶姫の生んだ第一子で、念願の男児だったせいか。大事な会議中も子供をあやしている状態だった。

 信長が子供好きなのは、周知の事実だ。

 子供時代に知り合った家康と、青年になってから知り合った長政への対応の違いでもよく分かる。ただ子煩悩ゆえか、五徳姫のことになると家康を脅していた。

 信治に子が生まれた時も、大層喜んでくれたものだ。

「お前は父がいなくても大丈夫だ。兄上がちゃんと一人前に育ててくれる。奇妙丸をよく支え、よくお守りせよ」

「あい」

「いい子だ」

 頭を撫でてやれば、きゃっきゃっと笑い声を上げた。

 幼子を置いて逝くのかと叱る信長の声が聞こえたような気もしたが、信治はもう決めてしまったのだ。他の兄弟たちに比べて、信治はあまりにも貢献できていない。

 家康が順調に勢力を広げて、対武田の防衛線を担っている。

 武に長けているわけでもなければ、技術開発に加われる才能もなかった。与えられる仕事をこなし、織田家の中にあって仲を取り持つ。舌は良く回るようになったが、信長が京で見つけてきたという弁舌家には及ばない。

「兄上は今頃、摂津国か」

 三好残党が戻ってきて、畿内を荒らしているらしい。

 信長に恩情をかけられたことも気付かず、同じことを何度も繰り返す愚かさに呆れる。さすがにもう次はないだろう。いくら敵味方に甘い信長も限度はある。

 それにしても今回は長い。

 夏の初めに畿内入りし、もう秋だ。

 収穫期は勘定方が忙殺されるので、信長も城に詰めていることが多かった。今回はそうもいくまい。朝廷や幕府は、何かと信長を京に留めようとするから。

「今年の内に片付けなければ」

 そろそろ武田が動く。

 信長だって薄々気付いているはずだ。

 三好残党のことがなかったら、対武田の戦準備を進めていたはずである。信純と竹中半兵衛は依然として東美濃の岩村城にいる。信治と家康は連絡を密にし、近々武田軍の西上作戦が本格化すると睨んでいる。

 近江の内情にかかずらっていられない。

 一気に片付ける「理由」が、必要だ。

「兄上は、怒るかもしれない」

 信治は二千の兵と共に野府城を出た。

 近江国境に差し掛かったところで、平手久秀と合流する。前もって約束していたわけではない。その顔色を見ただけで、誰を追ってきたのかは明白だった。どうやら奇妙丸の勘は当たっていたらしい、と信治は嬉しくなった。もちろん、そんな心はおくびにも出さない。

 次いで長利が来た。

 兄弟の中で最も情報通である弟の顔を見て、いよいよ南近江の情勢が緊迫していると実感する。何者かの手により、捕虜が解放されるという事態も起きていた。落窪合戦にて勝家は危機を乗り切り、なんとか長光寺城を守った。秀吉は長浜城の完成間近で手が離せないようだ。

 ますます信治の笑みが深まる。

「九郎にぃ」

 末弟に呼ばれ、はっとする。

「何考えてるの」

「ああ、もうすぐ収穫が始まるだろう? 去年は楽しかったな。あんなに多くの人で賑わう祭りを見たのは初めてだった。美味しいものもたくさん食べられたし、お市の娘も可愛かったし」

「うん、それだけ?」

「それだけとは何だ。兄上を誇りに思わないのか」

「だって兄上だし。九郎にぃ、いつもと違うし」

 長利は鋭い。

 久秀までが怪訝そうな顔で見てくるから、信治は困ったような笑みを浮かべた。今の南近江を放っておくと信長の背後を脅かしかねない。奇妙丸は無事に美濃入りしたとはいえ、信長を失ったら織田領は崩壊する。

「これほど悪化するまで放っておいたことには、怒っている」

「誰に? まさか兄上に、とは言わないよね」

 詰問口調の長利も大概に余裕がない。

 二人のやり取りをハラハラしながら見守る久秀も、きっと平静ではない。何故なら、あの男が関わっているから。許しさえ得られるなら、真っ先に消し去っている男が性懲りもなく暗躍している。

 信長は基本的に放任主義だ。

 家臣も一族にも好き勝手やらせている。だが信長が認めないことは絶対に認められない。特に生死に関して、信長はかなり厳しい。信長のために信長の意志に反したが最後、その信頼を失いかねない。

 だから手を下せないでいた。今までは。

「ねえ、どこまで行くの」

「宇佐山城だ。江南の東には三十郎兄上も、稲葉たちもいる。北には柴田に羽柴……となれば、肝心の西が手薄だ。湖西の尼子衆を信用していない、と言わないが」

「それこそ尼子衆がいるのに、湖を渡ってくるとは考えにくいよ。お猿の長浜城は湖が臨める。おかしな舟があったら、すぐ見つけちゃうかも」

「宇佐山城は森三左殿がいたはずでは?」

「ああ。三好残党が戻ってきたことを受けて、先行して摂津入りしている。今頃は池田兵部を追い出した荒木何某を追いかけ回しているんじゃないかな」

「荒木……」

 久秀は摂津国の情報に詳しくないようだ。

 同じ尾張国内にいても、外へ意識を向けるか否かで変わってくる。それに久秀の使命は、尾張国である男を監視することだった。尾張国内の細かな状況に通じていても、それ以外のことには疎くなるのも仕方ない。

 全てに通じるのは難しい。

 奇才・信長でもなかなか成し得ないことだ。

 足りない部分を補えるから、完璧でない兄でよかったと思う。

「九郎にぃ」

「ん?」

「変なこと、考えてないよね」

「私は常に織田家のことと、兄上のことを考えている」

 長利は鋭いから、嘘は言わない。

 隠していても知られるのなら、その時まで隠し通す。


**********


 宇佐山城に入って二日目。

 信治にとって待ちかねた一報が届いた。

「この期に及んで和議とか」

 侮蔑を隠しもしない長利に苦笑し、信治は返事をする。

「すぐに伺おう」

「九郎にぃ!?」

「楠十郎殿は、我が兄の恩人。礼を欠くわけにはいかない。これ以上、近江国を戦火に晒したくないんだ。分かってくれ、又十郎」

「嫌だ。兄上だって、そんなの絶対認めない」

「じゃあ、こうしよう。兄上に文を送る」

 信長が飼っている法空という鷹は、長利が世話をしていた。

 本来は鷹匠に任せるものを、奇妙丸以外にはちっとも懐かないせいだ。飼い主である信長に対しても、懐いているというよりは小馬鹿にした態度をとる。差し出した腕を一瞥してから、髷に止まろうとした時には慌てたものだ。

「どうか無事に着いてくれよ」

 鷹は振り向きもせずに、空を目指した。

 信長を鷹狩の名人といわしめた初代法空が生んだ雄で、親よりも気まぐれな性分だと聞いている。だが紙切れを入れた小さな筒を結わえる時、妙に神妙な様子だったのが可笑しい。

 綴った文字は、信長が教えてくれた暗号だ。

 何かあった時に「ここは危ない」と知らせる意味がある。いや、もう少し違った風に説明していたような? 信治は首を傾げたものの、鷹の姿はもう見えない。

 まあいいかと踵を返せば、長利がいた。

「九郎にぃ、やっぱりやめよう。行っちゃだめだ」

「罠だからか」

「うん」

 長利は気付いている。

 楠十郎は嘘を吐いていて、信治を殺すつもりだ。そして十郎にいらぬ知恵をつけたのは、あの男に違いない。捕虜を逃がし、民を煽動し、収まりかけていた火に油を注いだ。そうまでして信長が憎いのかとも思ったが、おそらくは違うのだろう。

 あの男なら、信長を確実に殺せる。

 回りくどい手を使うのは、信長に何かをさせたいからだ。尾張国に留まっていたからこそ、信治は気付いた。他の兄弟たちと違って、信治には抜きん出た才能がない。

 ずっと考えていた。

 己の死に場所を見つけて、ようやく理解した。

 あの男は信長を壊したいのだ。この狂った世の中を終わらせるには、まともな神経では無理だから信長を壊して、戦乱の時代もろとも葬りたいのだ。信長は土地を豊かにして、民を慈しんだ。そこまではよかった。

 同族と戦い、強敵と戦い、悉く勝利した。

 だが信長は寛容すぎた。臨済宗以外の宗派も、神道も、耶蘇キリスト教すらも認めてしまう。皆仲良くしろよと言うだけで、宗教について取り締まることもしない。各地で暴動を繰り返す一向宗の総本山、本願寺顕如とも馴れ合う始末。

 あの男にとって、耐えがたい話だろう。

 信治たちには「あの兄だから仕方ない」で笑って済ませてしまうのに。きっと顕如だって信長の寛容さに触れ、その規格外の器に影響されて、戦なんか馬鹿馬鹿しく思えてくるに違いない。

 信長はそれでいい。

 そんな兄が、信治は大好きだ。

「私の死は、楠十郎を討つ理由になる」

 好きだからこそ、背を押す一助になろう。

 きっと信長は信治の死をひどく悼み、嘆き悲しむ。

 深く傷つけることになろうとも、あの男の好きにさせてはならない。完全にあの男の手駒として堕ちた楠十郎は、ありし日の信行を彷彿とさせた。いや、最近はもっと酷い。あんなものを野放しにしておくわけにはいかない。

「又十郎、ついてくるのは構わない。だが邪魔は許さない」

「そんなのいやだ!」

「お前はいつまで、そんな子供じみたことを言うつもりか。もう妻も子供もいるだろう。私はやっと、兄上のために全てを捧げられる。どうか、止めないでくれ」

「九郎にぃ!!」

 そして信治は、毒を呷った。

 楠十郎は和議の席で、飲み物に毒を混ぜていたのだ。薬草に詳しい信長の弟が、毒に気付かないわけもない。止めようとする長利を制して、一気に飲んだ。

 哄笑する楠十郎など、どうでもよかった。

 彼が確信している勝利など、泡沫の夢にすぎない。

「また、じゅうろう」

「九郎にぃ」

「刀、を」

 血を吐きながら震える手で、腹を裂いた。

 筋書きは長利へ伝えてある。

 せめて楠十郎は武士として戦い、武士として死にゆくがいい。見え透いた罠に嵌めて、見当違いの相手を毒殺するなど、大楠公が聞いて笑わせる。

 信治の描いた筋書きはこうだ。

 宇佐山城は電光石火の攻めにより落城。すぐさま秀吉たちによって奪還されるも、さっさと撤退した楠軍は影も形も見当たらない。守備にあたった信治は討ち死。長利や久秀はこれに間に合わなかっただけだから、信長の叱責も軽くなる。

 そして「真実」は闇へ葬られる。

 信治は薄れゆく意識の中、長利に背負われるのを感じた。

「ぐすっ、ううっ」

 べそをかきながら、末弟が歩く。

 織田の男が情けない。それでは敵に笑われるぞと言ってやりたかったが、信治の目はもう何も映してはいなかった。小さな吐息を最期に、ふっと笑う。

 これで信長の憂いは一つ消える。ああ、よかった。

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