断章之五 愛と義のために

 白い雪が辺りを覆いつくそうとしていた。

 こんな日は一切の音が消える。

 だから急な訪いに気付く者は少なく、あっさりと奥へ通された。

「初めまして、ですね。浅井のおじさま」

「そなたは義兄上の……?」

「冬と申します」

 ふわり、ふわりと舞う雪のような微笑だった。

 黒髪をきちんと結い上げ、透き通るような白い肌に、ぽってりと赤い唇は南天の実を連想させる。それでいて男物の礼装を纏った彼女はまさしく「冬の使い」だ。信長の正室・帰蝶姫はときどき「雪女」になると聞いたが、長政としては可愛らしい冬姫の方が似合うと思う。華やかな顔立ちの多い織田一族で、妙に平凡そうな見てくれの父に似たのだろう。お市の美しさに比べるまでもないが、ふとした拍子に目を引きつけられる。

(さすがは義兄上の子というべきか……)

 彼女の供連れとおぼしき面々に視線を移す。

 前田の風来坊とおぼしき男を含めて大人が四人、それから冬姫と似た年頃の少年が鋭い目を向けてくる。まるで器を見定めるような、熱のない視線だ。

 彼らの関係性が分からず、長政は眉を寄せた。

 早くに嫁いでいった姉の五徳姫と違い、冬姫はまだ裳着を済ませていない。信長の子煩悩ぶり、家族への溺愛ぶりは周知の事実だ。可愛い娘のおねだりに負けて、護衛付きならばと許してしまったのかもしれない。

 元服の延期を不服として、城を飛び出していった嫡男のこともある。

 南近江の一件もおかしな噂があるのだ。

 曰く、織田の末姫が日野城にて降伏を説いた。

 当時はまだ足利義昭が上洛を果たしておらず、織田家に身を寄せていた頃のことである。細川藤孝が畿内の諸将に支援を求めたが、すげなく断られた末に美濃へ流れ着いた。朝倉家もその候補に入っていたが、六角承禎と対立したくない義景は申し出を断ったと聞いている。

 ともあれ、信長は上洛戦を決意した。

 情の厚い義兄は、不遇の将軍を見捨てることができなかったのだろう。まず長政へ上洛戦のことを通達したのは、六角氏との因縁を慮ってのことだ。先に六角家重臣の蒲生賢秀が降ったのは、信長にとっても予想外だったに違いない。

 結果はさておき、噂そのものは全く信じていなかった。

 十にも満たない幼子を、開戦間際の城へ近づけるわけがない。

 今は永禄13年、義昭が上洛を果たしてから二度目の冬。思えば、ちょうど今頃の時期だったろうか。もう何度、信長に驚かされたか知れない。

(姫がうつけの娘ならば、私はうつけの義弟だ)

 長政はふうっと息を吐いた。

 きっかけは朝倉宗滴の言葉だが、長政自身があの人についていきたいと思ったのだ。その思いは今も変わらないし、後ろを追いかけるだけでは足りないと思ったから父を討つ覚悟を決めた。

 その姿を見せてみよ、と信長は言っているのだ。

 彼女は織田の名代。ならば幼げな姫と侮るのはやめよう。

「遠路はるばる、よく参られた。本来ならば、旅の疲れをゆっくり癒してもらうなどして持て成すべきなのだが……見ての通りだ。温かい茶も出せずに申し訳ない」

「いいえ、おじさま。おかまいなく。急にやってきた私たちが悪いのですから。それと、お気遣いは無用です。おばさまから、預かり物を届けに来ただけなのです」

「市からの、届け物?」

 彼女は今、美濃にいる。

 織田家主催の収穫祭があると聞いたので、里帰りもいいだろうと勧めたのだ。既に万福丸も織田家に匿われている。長政に万が一のことがあっても、信長なら悪いようにはしないはずだ。

 それに今の近江国は、危ない。

 お市や茶々の命が狙われない保証はないのだ。

 誰が味方で、誰が敵かも正しく判別できないとは情けない話である。しかも長政にとって味方でも、織田の血を引くお市と茶々を邪魔だと感じている者もいる。

 暗い考えに沈む長政の前で、冬姫が従者を促した。

 恭しく差し出されたのは、紫の紗に包まれた袋。

「これは?」

「小豆です。冬は、お汁粉やぜんざいが大好きで」

「こら」

「あっ」

 少年に突かれて、冬姫は白い頬を赤く染めた。

 恥ずかしそうに笑う様は、年相応に見える。

「小豆か」

「はい、小豆です」

 長政は小豆袋をしげしげと眺めた。

 片手で持てなくはないが、しっかり重い。良質な小豆が詰まっているのは間違いない。戦を間近に控える長政を想う、お市の心遣いが沁みる。

「ありがたくいただこう」

「浅井の殿様よ、何か気付かないかい?」

「めっ、ヒントはあげないの!」

「おっと、これは失敬」

 親子ほども違う冬姫に叱られ、風来坊が肩をすくめた。

 その微笑ましさに、一同が頬を緩めてしまう。これから肉親同士が争う醜い戦が始まるとは思えない、ゆったりとした時間が流れていた。

 後から思えば、長政はひどく追い詰められていたのだろう。

 余裕がなくて視野が狭まっていた。

 同じく冬姫の襲来を受けた義景から、書状を受け取るまでは――。




 あれから一月が経ち、雪解けの待ち遠しい三月を迎えた。

 春の訪れはまだまだ遠い。

 しかし長政は武具を纏い、開け放った広間にて報せを待っていた。姉婿の京極高吉きょうごくたかよしがそわそわと落ち着かなさげに足を揺らす。数人の側近、小姓が控えている以外は動き回る人影もない。随分と減ったものだ、などと他人事のような感想を抱く。

「前後を塞がれた小豆の袋、か」

「殿?」

「義景殿はご無事だろうか」

「今は、何とも……」

 長政の呟きに反応した家臣は言葉を濁らせる。

 父を討つという決断が間違っていたとは思わない。今でも、それは正しかったのだと断言できる。だが信長を目指すなら、もっと早く行動すべきだったのだ。気が付いたら若狭武藤氏は松永軍の手中に落ち、武田元明に代わって若狭国の統治権を主張している。そもそも松永久秀は朝倉領にいる元明を救い出すのが目的ではなかったのか。

 いや、大和国平定の恩義を何故忘れたのか。

 信長に対する恨みつらみを並べ立て、それを口実としていたが何ともしっくりこない。

 不思議に思っているのは義景も同様で、悩んでいる間に劣勢へ追い込まれてしまった。織田が後ろ盾についているはずの足利義昭をどう言い包めたのか、今や松永軍は将軍の勅命を受けた官軍である。

 松永久秀が挙兵したのが一月のこと。

 続いて弟の内藤宗勝が出陣したのだが、反織田としてではなく兄の久秀を止めるためだったらしい。逆に説得されては元も子もない。轡を並べて若狭国へ侵入し、親織田として起った一色義道は早々に討たれている。

 背後の憂いを断った松永兄弟は越前国へ進軍。

 ここで様子を窺っていた久政が共闘したい、と使者を送ったらしい。信長の横暴は目に余るものがあり、仮にも将軍職にある義昭をないがしろにする不敬の数々は全く許しがたい云々。この時を待っていた、とばかりに朝倉家臣・朝倉景恒あさくらかげつねのこもる金ヶ崎城を攻め落としてしまったのである。

 景恒は義昭に友好的で、美濃へ向かう際も警護の兵を出した。

 だが義景の命とはいえ、若狭武田氏の現当主である元明を攫って一乗谷城へ軟禁したことが口実にされたのだ。朝倉家中では朝倉景鏡あさくらかげあきら景健かげたけと席次を争っていたともいう。

 彼らは義景を見限り、久政側へついた。

「義景殿、お労しい。その心中は如何ばかりか」

「朝倉家の心配をしている場合ですか、殿! このままでは小谷城まで攻め上ってくるのも時間の問題です。何のために六角氏の支配下から脱し、織田との同盟を組んだのですか!」

「ああ、分かっている」

 嫡男を亡くしてから、義景は厭世的になっていた。

 それを引き戻したのは信長である。だが一度放り出したものを取り戻すのは難しい。義景から移った権力を奪い合い、他国に攻め込まれる。それも越前とその周辺だけの話ではなくなった。

 反織田を掲げ、諸大名が包囲網を形成している。

「……いや? 何かおかしい」

 長政が小谷城に籠っているのは、理由があった。

 決して、何があっても、どんな理由があっても、城の外へ出るな。一歩でも出たが最後、愛する家族とは二度と会えないと思え、なんていう恐ろしい脅迫文が信長から届いたからである。

 あの義兄なら、絶対にやる。

 残った家臣からは何故、お市や子供たちを織田にと責められた。

 人質を取られたようなものではないか、と言われたが正しくそのつもりだったので反論もできない。肯定すれば更なる抗議を受けるから何も言えない。

「申し上げます! 南から、六角軍が」

「な、なんだと!?」

「大楠公の再来を名乗る男もいるそうですっ。いかがいたしましょう、長政様。やはり、ここは打って出るべきではないのですか。御方様には申し訳ないとは思いますが、うつけめの脅しに屈して籠城していても埒が明きませぬっ」

「…………お市……そうだ、私は」

 くわっと目を見開いた。

 軍議のために用意された机には、あの小豆袋がある。それをわし掴めば、変わらぬ重さと共にザラザラと音がした。それはひしめき合う軍勢の立てる音の如く――。

「両端を封じられた小豆だ!」

「そ、その、我らのことでございますか?」

「違う! 私たちはまだ負けておらぬ、ということだ。このように口を封じられ、逃げられるようにされるのは」

「申し上げます!!」

「来たか!」

 台詞を遮るように駆けこんできた伝令に、長政は光明を感じた。

 唖然としていたのは大歓迎された当の伝令もだったが、速やかに報告せよと促されて何度か咳払いをする。乾ききった喉で無理矢理動かして、キッと長政を見上げた。

「敵味方反転でございます」

「は?」

「今しがた、織田軍より通達がありました! 若狭国から侵入した軍勢は敵にあらずっ。浅井久政、朝倉景鏡らの軍を取り囲み、金ヶ崎にて追い込みにかかっております。既に岐阜より織田尾張守様もご出陣、こちらへ向かっているとのことです!」

「義兄上の許可は出たか!?」

「え、いえ。それはまだ」

「そなたは……いや、無理をしてはいかんな。他の者に使いをさせよ。義兄上にこう伝えるのだ。今こそ好機! 長政は義景殿と共に、この地を乱す悪を討つ!!」

 信長が出てきて、長政が出ない道理はない。

 久しぶりに心が沸き立つ。さっきから足の震えが止まらない。ふと見やれば、家臣たちも同じように強張った笑みを浮かべていた。長政と似たり寄ったりのおかしな格好である。

「武者震いにござる」

「おう、わしもじゃ! こんなに血沸き踊る戦は久しぶりだわい。先代様に恨みはないが、野良田の戦いに参じてから長政様に一生ついていくと決めておる」

「同じく」

 少し前まで悲壮感すら漂っていたのが嘘のようだ。

 誰もが立ち上がり、覇気に満ちている。たちまち馬が用意され、旗指物が並べられて、いざ出陣と長政が号令をかけようとした矢先のことである。

 一騎だけが真っすぐ城門を目指し、駆けてくる。

「んぬあがまっすあああああっっ」

 伝令ではない。

 鎧を着ているものの、兜はどこへ行ったか。はためく陣羽織が黒金に輝き、地鳴りのような唸り声で確信した。来てくれた、と歓喜が心を占める。

「義兄上!」

「こンの、ド阿呆が!!」

「ぐはっ」

「な、長政様ああぁ!?」

 一体何が、と思う暇もなかった。

 疾駆する馬の勢いそのまま強烈な殴打アッパーを食らった長政は、生まれて初めて空を飛んだ。その浮遊感を満足に味わえなかったことを残念に思いながら、その意識も高く飛ばしたのだった。





********************

あいきゃんふらい(by長政)



朝倉家臣や若狭国内の事情が出てきましたが、特に(本編では)重要でもない方々なので覚えられなくても問題ないです。ちなみに作者は朝倉一門衆の景鏡(いんけん)・景健(たいしょー)・景恒(ひより)と覚えています。

この頃の京極家は没落したも同然でしたが、小谷城に滞在していたために妻(のちの京極マリア)から「顔ぐらい出しておけ」と蹴り出されました。息子の小法師(のちの高次)を織田家へ人質に差し出し、ノブナガから「託児所じゃねえって言ってんだろ!」と怒られる予定です

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