160. 天下なんざクソクラエ
各国人衆をほぼ据え置きにすることで、畿内の統治は整った。
できれば織田一門衆か側近の誰かを持っていきたいところだが、そうすると本当に織田領の一部として認めてしまう気がして思い切ることができない。信純も特に異論を唱えることなく、勝家たちと撤収準備を始めていた。
大偉業だと褒め称える小姓衆を抑え、六条御所へ向かう。
義昭様の提案で、宴が催されることになったからだ。すぐにでも岐阜城へ帰りたくて仕方ないのに、空気が読めない公方様と内心で毒吐いておく。ちょっと顔に出ていたようで、直前に松永弾正から注意されたのは助かった。光秀に見つかったら、また嫌味を言われる。
「あ、そうだ」
「いかがなされましたか?」
「御所の……本圀寺周辺と、洛中洛外に馬廻衆を出せ」
「えっ」
「見廻りだ!」
「あ、はい。すぐに手配させます」
織田に警邏隊がないのは悔やまれる。
洛中に入って分かったことだが、戦勝ムードで浮かれまくっていたのだ。今までの戦では必ず無法者が出ないように、軍勢全体へ指示を出していたから忘れていた。畿内は織田領じゃない。違うったら違う。
奴らは俺自身に従ったわけじゃない。
誓ってくれた忠誠心だって、どこまで信じられるか分からない。織田家よりも強い勢力が現れたら、さっさと鞍替えするかもしれない。そういう考え方を否定しない代わりに、裏切られる可能性だけは忘れないでおく。
「とはいえ、放っておくのもなあ」
朝廷と幕府で収入源の取り合いになる可能性もある。
今はまだ潰れてもらうと困るし、権力争いによる血生臭い話リターンズも面倒だ。
山科卿にはそれとなく話をしておき、河内国にも摂津三守護のようなものを選びたい。大和国は松永弾正、和泉国は細川様で確定だ。そっちはノータッチでいく。そんなことを考えているうちに将軍の到着が知らされた。
上機嫌な義昭様を見た途端、俺の機嫌が下がる。
後ろから(視線で)刺されない程度に笑えていたと思うが、細川邸での能見物は十三番まで組まれていたのを五番で終わらせてしまった。いや、俺に舞えって無茶ぶりするから。
せっかく観世大夫の見世物だというのに。
最大の功労者へ贈り物だといって、また煌びやかな何かが出てくる出てくる。もうお腹いっぱいです。金の山にしか見えない。崩れる寸前の幕府が無茶しやがって、と遠い目をする。
全く喜ばない俺の態度で、不安をおぼえてきたのだろう。
酒宴もそこそこに細川様から風呂へ招待された。山科卿に聞いて以来、細川邸の風呂には興味があったから断るわけがない。前例を踏まえて湯殿周辺には俺の知っている奴だけを配置し、ちょっとだけ上昇した気分がまた下がった。
湯けむりの向こうに何かいる。
「……いい湯だぞ。って待て! 去るでない。入ってゆけ!」
「公方様の風呂じゃねえですよ」
敬語失敗。
這うような声に、しまったと思っても遅い。
ほんのり上気していた義昭様の頬がだんだん色をなくしていって、白く濁った湯に鼻がくっつきそうだ。それっぽい匂いがするし、今日は薬湯にしたらしい。
「俺はいじめっ子か」
一人ぼやいて、湯で顔を洗う。
本当にさあ、なんで野郎とばかり風呂に入っているんだろうな? そりゃあ湯を溜めた風呂を全力で広めている中心人物としては、偉い人に体験してもらって話を拡散希望言いたい。言いたいが、俺は「公方様がお待ちです」なんて聞いていない。
風呂で疲れを癒してこい、と言われただけだ。
「くそ、ハメられた……」
忌々しい狸め。いや、狐の方だな。狸は山科卿だ。
織田家臣を名乗りながら、あの男はやっぱり将軍家の味方である。どちらかといえば義輝寄りだと思っていたが、現職を重んじるのも間違ってはいない。俺の立場的にも、義昭様を見る度に顔をしかめるようではマズい。
この辺で何とかしとけ、っていうことらしい。
「その、本願寺の法主に会ったそうだな」
こうやって爆弾落としてくるから、コイツ嫌いなんだよ!
腹芸苦手な俺だが、ピンポイントで嫌なところを突かれると腹立つもんだな。自分はなるべくやらないように心がけよう。今後は特に喧嘩売る相手を選ぶべきだ。隠し事を直感で見抜く景虎みたいな人間は、稀有なタイプなのだから。
「うちの領地に結構な人数入り込んでいるんで、世話料請求しました」
「まことか?」
「公方様に嘘吐いてどうするんですか」
嘘だよ、残念。
内心で舌を出しておいて、溜息も吐く。
「何か問題が?」
「いや、ないわけではないが。尾張守にはよくよく人が集まるのだな、と少し羨ましく思った。余の味方をしてくれるのは十兵衛と、其方らだけだ」
「俺は味方じゃない」
「そうかもしれぬ。だが、其方のおかげで余は将軍でいられる」
それは事実だ、と義昭様は言う。
濁り湯で分からないが、蒸し風呂と同じように褌をつけているようだ。裸の付き合いというのは、隠し事をせずに胸襟を開いて話すことに尽きる。山科卿と細川様の考え方の違いを目に見える形で表せば、この風呂のようになるのだろう。
細川邸の湯殿は空間の一部を中庭に繋げ、季節の移ろいを堪能できる。
湯を溜めているのは石じゃなく木材だ。壁の部分にも小窓や装飾がさりげなく配置され、まるで別世界のような雰囲気を味わえる。しばらく無言で浸かっていると、義昭様に抱いている感情も湯に溶け出していくような気がした。
「本当に、あれこれ言える人間じゃねえんだがなあ」
「尾張守は」
「褒め言葉は聞きたくありません」
「そ、そうか」
分かった、同族嫌悪だ。
将軍と同列にできるわけがないから除外していただけで、自分の評価と他者からの評価が食い違う現実に悩む辺りが似ている。できるか、できないかは別問題だ。自分に自信が持てないから、そういう価値を見出せないから褒め言葉を受け入れられない。
本来あるべきはここじゃない、と強く思ってしまう。
「俺は織田信長じゃないんですよ」
「ああ、影武者であったか。それは、残念だ」
「そういう意味じゃなくて、本来の織田信長とは違うって意味。理解してくれとか、信じてくれとは言わねえよ。なんだかんだで、俺のまま二十年は生きてる。夢から覚めても、しばらくは混乱してしまうくらいに」
「夢、か。余もまた、将軍になった夢を見ているのかもしれぬ」
「俺が抜けたくらいじゃ、将軍を止められるとも思えませんがね」
「逆であろう。尾張守がいるから、余は将軍を止められる。幕府を潰すという兄上の願いを、叶えたいのだ。誰が反対しようとも、余が叶えたいと願う」
「願えば、叶いますよ」
「自分の願いではない、と叱られる」
「他力も自力も、本気で願うなら叶いますよ」
一欠片も、一瞬たりとも疑わなければ、きっと叶う。
叶わない願いがあったなら、それはどこかで疑っているからだ。人間は考える頭があるから、余計な気も回る。回転がいい奴ほど、余計なことを考える。
愚かな奴は疑わない。馬鹿は分からないまま疑う。
俺はうつけもうつけ、大うつけだから疑うことを意識的に止める。心が動くまま、体が動くままに任せる。後から悔やむのも俺だ。他の誰でもない俺だけに許されている。
どこぞの織田信長じゃない、俺自身の心だ。
「義昭」
ぱしゃん、と水音がした。
「時が来たと感じたなら、俺に挑め」
「何を、馬鹿な」
「いいか? 織田に、じゃないぞ。俺に、挑んで来い」
幕府を潰すのは簡単じゃない。
朝廷は権力が戻ってくるのを歓迎するだろうが、武家の台頭から影を薄くしていた公家衆に今の戦国大名を制御できるとは思えない。どいつもこいつも天下に覇を唱えられる英雄ばかりだ。全く、恐ろしい時代に転生してきたものだと思う。
俺が信長じゃない誰かだったら、秀吉みたいに出世街道まっしぐらか。
いや、そんなものに興味はない。片田舎で美味い飯と、愛する家族と一緒にのんびり暮らしていただろう。信長だから会えた人たちもいるし、そういう意味で後悔はしていない。
「天下なんざクソクラエだ」
「ふ、ははっ」
何故か義昭が笑い出した。
呆然とする俺の前でしばらく笑い倒してから、赤らんだ顔で涙を拭く。
「そんなに嫌いか? 権力が」
「嫌いだな、二番目に」
天下を権力と言い当てる辺り、本当に似た者同士らしい。
なりたくなかったのになってしまった後悔だけは、どちらも認められない思いだ。心の片隅に残っていても、ちらりと見ることすら許されない。
「一番目は?」
「……っ、さあな」
うっかり答えそうになった。
義昭は不満げにしつつも、今回は空気を読んでくれたようだ。
鶴千代ならしつこく問い質してくるだろうが、義昭は立派な大人である。将軍とは名ばかりで、義昭の方こそ天下人とは言えない。かといって義輝のように、傀儡でもない。
糸を切ろうと身を捩って、死にかける心配もない。
「兄上が羨ましい」
「は?」
「其方と共に駆けることを許された。名前しか知らなかった存在を、このように思うのはおかしいだろうか」
「血が繋がってるんだ。どっかで呼び合ってんだろ」
「そうか。何やらこそばゆいな」
照れてクネクネするので、慌てて距離をとった。
「気持ち悪いからヤメロ」
「将軍に向かって無礼な奴め」
「お手紙将軍のくせに、今更ブレイモノとか言うんじゃねえよ」
「おてがみ?」
文のことだと言ったら、何やら考え込んでいた。
思えば義輝も各地へ書状を送りまくっていたという。俺の方に届いたのは激励文の一通だけ。その激励の言葉は、義輝にとって記憶にも残らない些細なことだろう。暗殺現場に飛び込んで命を助けた理由を何度も訊かれたが、酔っぱらって間違えたで通している。なんだそんなことかと言われるのが嫌で、本当のことを言えない。
足元が不安定なら、手紙を送るしかないのも道理だ。
各地の戦乱を仲裁することで、将軍の権威を示そうとした。その動きが三好長慶の勘に障ったらしい。これは俺の想像だが、長慶は戦乱が多発するのを歓迎していたと思う。胸糞悪い理由だろうから、その先は考えたくない。
ただ、その長慶に従っていたのが三好三人衆である。
どうにも引き際が良すぎて気に入らない。
「義昭」
「今度は何だ?」
「三人衆の動向、ちょっと注意しといてくれ。西国と手を組んだら厄介だぞ」
「可能性があるとしたら毛利だ」
「……毛利元就、まだ生きてんのか」
マジか、70は越えているはずだぞ。
「よし、余の初仕事であるな。毛利のことは任せるがいい」
「お手紙公方って呼ぶぞ」
「其方なら構わぬが、どちらかにしてくれ」
許可が出たので今後はお手紙将軍(公方)と呼ぶことにした。
将軍が出す手紙はただの手紙じゃない。御内書という、ちょっと無視できない大袈裟な手紙である。そのせいで俺は畿内に手を出すハメになったし、他の戦国大名も悩めばいい。
そして俺たちは、長風呂のせいで揃ってのぼせた。
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細川様「ふふふ、これで信長殿も公方様を無視できぬでしょう」
侍従「さすが細川様、やり方があくどい! そこにシビれる、憧れるゥ!!」
観世大夫の見世物...能楽(猿楽)の一派、観世流の大夫。
この頃、岐阜にいたと思われる観世小次郎元頼ではなく、観世宗節の甥・三郎元尚(八世大夫)が演じた。元頼の舞台は分かりやすいので、ノブナガは気に入っている。
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