【挿話】 松姫と奇妙丸

「その頃、奇妙丸は」の続きになります


子供枠:奇妙丸(ノブナガの嫡男。後の織田信忠)、甚九郎(佐久間信盛の嫡男。後の佐久間信栄)、勝三(森可成の子。後のヒャッハー武蔵)、平八(於八。梶原景久の子。後の団忠正)

大人枠:半兵衛(元斎藤家臣、竹中重治)、利治(斎藤道三の子。濃姫の末弟)

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 結局、甲斐・美濃国境を越えたのは新年を迎えた後だった。

「宴に参加したかったなあ」

「ばっか、於八。出奔した身で、のこのこ顔を出せるか!」

「謝れば許してもらえるかもしれないじゃないか。若様は美濃国に巣食う悪を潰したんだから、それで」

「私は戻らない」

「ほらみろ」

「うう」

 何故か威張っている勝三はさておき、悪を潰したというのは誇張でもない。

 誘拐事件を追っているうちに、近江国は比叡山にある延暦寺へ辿り着いてしまったのだ。西へ西へと歩き続けて、甲斐国とは真逆の山城国境付近である。何故琵琶湖辺りで気付かなかったのか。あんなに大きな湖が他にあってたまるか。また東へ向かうことを考え、ウンザリしている平八の気持ちも分からなくはない。

 だが、奇妙丸は意地でも甲斐国へ行きたかった。

 偉大なる父・信長は、やると言ったら絶対やり遂げる人間だ。その息子として、織田家を率いる後継者として、できることは何かを見定めたかった。

 だって奇妙丸は死にたくない。

 あと十年も経たずに殺されるなんて信じたくない。

 しかし奇妙丸の父は未来から来た転生者だ。輪廻転生は本当にあったのだ。尾張国を豊かにした数々の奇跡は、未来からの贈り物だと思えば納得した。遠い未来から家族を救うために、遥かなる時を越えてきた男が「我が父」なのだと大声で触れ回りたかった。

 でも駄目なのだ。

 信長が「爺」と呼んで慕っていた平手政秀は、自刃に見せかけて殺された。犯人は分からない。何でも知っている母や叔父たちも手が出せない相手だという。とんでもないやつだ。父の秘密を知ったばかりに、平手の爺は殺された。

 平手の爺を失ってから、信長はますます家族を守ることに必死になった。

 奇妙丸は織田家嫡男ゆえに、幼き頃より何度も命を狙われてきたのだという。そんなこと、何も知らなかった。だが父の秘密をきちんと理解した今ならば、本能寺が燃える日まで奇妙丸が死ぬことはないと確信している。

 だから多少の無茶は平気でやった。

「私はもう慣れたよ。若様は信長様にそっくりだと、皆が言うのも納得だ」

「西と東を間違えるところとか?」

「と、殿様はすごいよね! 南近江の前に伊勢国を併呑しちゃうんだもの。上洛すると言って尾張国を攻めようとした今川治部とは大違いだよね」

「六角氏も当主を失っては、南近江は荒れるだろう。後始末を浅井殿に任せる辺り、殿らしいと言わざるを得ないな」

 どこか疲れた顔で利治が微笑めば、平八が嬉しそうに頷いた。

 信長の快進撃を聞いてから、ずっと喋りたくてうずうずしていたのだ。大きな戦にならなかったので勝三は不満げだったが、命の奪い合いだけが戦ではないと信長は言っていた。きっと梶原親子や文官たちがすごく頑張ったに違いない。平八はそのことが誇らしい。

「うんうん、このまま畿内統一して天下人になっちゃえばいいのに」

 天下獲っちゃえ、は半兵衛の口癖だ。

 信長なら太平の世を導けるという意見には、奇妙丸も大いに賛同する。

 父の背はどこまでも遠く、大きい。そんな父の大事な存在を奪った坊主が大嫌いだった。特に生臭坊主、腐った僧兵どもはこの世から根絶すべきだと思っている。

 奴らの巣窟、比叡山は寺領だ。

 天台宗の総本山で、延暦寺の住職――天台座主と呼ばれる――が管理・運営する。しかも今代の天台座主は覚恕法親王かくじょほうしんのうといい、今上帝の弟だった。

 近江国にありながら織田の統治を受け付けない。

 朝廷の後ろ盾があるから、彼らは何も怖くないのだ。

 さすがに四千人の僧兵とまともにやり合うつもりはなかった。だが奇妙丸たちに何度も邪魔をされて、僧兵どもが我慢できなくなったらしい。そもそも民を誘拐する方が悪い。そこで半兵衛が一計を案じ、延暦寺の内部へ潜入することに成功したのである。

 法親王を説得おどし、大規模な粛清をする約束も取り付けた。

 念のため山科言継の手を借り、朝廷から見届け人を出すように頼んだ。寺領の回復と引き換えだったが、仕方ない。父は生臭坊主を構っていられるほど暇じゃないのだ。

 そして甚九郎の父・信盛繋がりで、勘定方の貞勝から認可を得た。

 ちょうど信長が不在中の出来事であったので、事後報告として聞くことになるだろう。怒られるのは嫌だが、直接話せたなら詳しく説明できたものを。複雑な心地で奇妙丸は延暦寺を後にする。潜入のために丸坊主となった勝三は不機嫌なままで、平八によく八つ当たりしては甚九郎が仲裁に入った。彼らが賑やかなのは、奇妙丸の心中を慮ってのことだ。

 その年の寒さは、ひどく心に沁みた。




 甲斐国に入ったのは雪の深い時期だったが、松姫と会う頃には桜が咲いていた。

 桜といえば花見だ。織田家の宴は珍しい料理と甘味が振舞われる。派手なことが好きな父は、家族と花見をすることを毎年の楽しみにしていた。

「小牧山の桜も、今が見頃かな」

「寄り道しすぎなんですよ」

「うるさい」

 路銀を稼ぐ方法を知ってしまえば、長旅も苦にならない。

 正直なところ、甲斐の虎が怖くて日程を引き延ばしていたのである。あの父が「油断ならない相手」と称したのだ。すわどんな怪物かと恐ろしくなった奇妙丸は悪くない。痺れを切らした武田側の迎えに連行される形で、奇妙丸たちは躑躅ヶ館に入ったのだった。

 そうして今、新館にいだてという屋敷に滞在している。

 織田家との縁組にあたって、信玄が松姫のために建てさせたのだという。娘を想う気持ちの表れだと褒めそやす声に、奇妙丸は首を傾げた。他国に嫁いでしまえば会えなくなる。できるだけ傍にいてやる方が、子供は嬉しいのではないだろうか。

 貝合わせに興じる姫を見やり、そっと息を吐いた。

 かれこれ一月は経つが、彼女のことを妻として見る日が来るとは思えない。

 小さな女童が無邪気に遊んでいるようにしか見えないのだ。綺麗に着飾られた生き人形はとても上品に笑い、可愛らしく囀る。声が大きく、粗野な態度が目立つ勝三に驚いて気絶した日には大騒ぎになった。

 お冬なら面白がって喜ぶだろう。

 もう嫁いでしまったお五徳なら、負けじと大きな声で怒るだろう。それでいて帰蝶に厳しい指導を受けた彼女たちは、松姫と同じくらいに綺麗な所作もできる。

 溜息を吐いたところで、くるりと丸い瞳が見ていると気付いた。

「奇妙丸様、退屈ですか?」

「ああ、いや……妹たちのことを思い出していたんだ」

「まあ」

 姫は、小さな感嘆の後に何も言わない。

 ことりと首を傾げただけで、興味を失ってしまったらしい。ちらちらと貝の絵を気にしている。退屈そうな奇妙丸に遠慮しているのか。そういえば嫡男の義信と松姫はかなり年が離れている。他の兄弟の話も聞いたことがない。

 だが奇妙丸の家族になど興味がない、と言いたげな様子には不満を抱いた。

「私には弟が二人、妹も二人いる」

「ええ、存じておりますわ」

 御文に書いてありましたもの、と松姫は微笑む。

「お五徳様は、三河へ嫁入りが決まったとか」

「男顔負けの気性の持ち主だから、竹千代殿を困らせやしないか心配なんだ。書物を読むよりも体を動かす方が好きだし、負けん気が強くて」

「まあ」

 今度は顔をしかめている。

 女として相応しからぬ、と感じたようだ。織田家での日常が当たり前だった奇妙丸は、武田家の生活が退屈でならない。勉学や鍛錬は男児だけに許されたものであり、女はどんな年頃であっても認められていない。信玄の継室である三条夫人が公家出身だからだろうか。

 詩吟や雅楽の知識はとても高い。

 楽器は何一つ扱えないと知った松姫に笑われて以来、奇妙丸は笛の練習を始めている。琴が得意な姫と合わせやすいからだ。こっそりとやるつもりだったのに、勝三がへたくそすぎて早々にバレた。

 それからというもの、皆で堂々と練習している。

 よくよく考えてみれば、信長は草笛を好んでいたのだ。

 何度か見た猿楽での奏者は皆、男ばかりだった。信長が好んで舞う『敦盛』の主人公は、青葉の笛を大事にしていたという。桶狭間の出陣時には、帰蝶たちが奏者をつとめたというのも有名な話だ。

 もしかしたら小姓衆も楽器が扱えるのかもしれない。

「姫、今日は琴を奏でないのか?」

「奇妙丸様が弾けと仰るのでしたら」

 これである。

 はんなりと微笑みつつ、あくまでも決定権は男に預ける狡猾さ。従順で大人しい姫だと言われているが、嫌なら嫌と言えばいいのに。一度だけ問い詰めたら、泣きそうな顔をされた。


『奇妙丸様、こわい』


 ものすごく傷ついたので、二度と言わない。

 織田家で大人しい性格といえば、信長の側室である吉乃が思い浮かぶ。娘のお冬はのほほんとしているから大人しく見えるだけで、行動の予測がつかない問題児だ。思ったことが口をついて出るお五徳や三七を反面教師として、何でも心に秘める癖がついている。

 叔母のお市だって、大人しい性格どころか快活な人だ。

 教養の高さでは帰蝶が他の追随を許さない。

 奇妙丸は見た目麗しく、内面も磨き抜かれた女たちに囲まれてきたせいで理想がとても高かったのである。自覚していないだけに、松姫に感じるイライラを理解できずにいた。

 愛らしいと思う。

 将来の妻として大事にすべきだと思う。

 だが信長と帰蝶のような関係になれるかと問われれば、どうしても頷けない。松姫は住み慣れた甲斐国から遠く離れた美濃国へ嫁いでくるのだ。頼るべき者は奇妙丸しかいないのに、奇妙丸自身が松姫を気遣ってやれないかもしれない。

「半兵衛の言ったとおりだな」

「え?」

「甲斐国へ来てよかった」

 数度瞬きをした松姫は、すぐにふんわりと微笑む。

 お冬と違って、彼女が何も考えていないのは明白だった。言葉通りに受け取って喜んでいる。姫らしい教養を身に着けているのに、中身が空っぽだと思う。いちいち身内と比べてしまうのは、奇妙丸の知る世界が狭すぎるからだ。

 それは岐阜城を出た日から、何度も痛感した。

「姫、外へ出よう」

「え……、それは」

「そこの庭なんだが」

「おからかいになるなんて、ひどいです! わたくしだって庭くらい、いつでも」

「ついでに颯斗のブラッシングをしたい」

「おうまは、こわいから……いやです」

「ぷっ」

「奇妙丸様!」

 ひどいひどい、と怒る松姫にまた笑う。

 人形めいた作り笑いよりも、こっちの方が人間らしくて好きだ。縁談が決まってから文や贈り物を届けてきたが、それも信長に言われたからだった。何もかもが与えられ、進む道すらも定められた中で、松姫に会うことは奇妙丸自身が決めたことである。

 あれから何度か、信玄と話をした。

 最初は偉そうな爺だと思った。今は面白い爺だと思っている。あの人を舅と呼ぶ日が来るのも不思議な感じがする。残念ながら、松姫は父親に似なかったようだ。

 そういう様々な情報も、甲斐国に来なければ分からなかった。

 本当に半兵衛の言う通りだ。

 情報は重要。民の噂は案外侮れない。何が正しくて何が間違っているかを判断する以上に、自分で見聞きして得た情報ほど有益なものはない。

「そういえば、奇妙丸様はいつもお一人ですのね」

「私だけじゃつまらない?」

「そんなことっ、ありませんわ! ただ……奇妙丸様をお守りする立場ですのに、その職務を放棄するような者を傍仕えとして置いておくのはおかしいと思いますの。あ、あの、わたくしごときが差し出がましい口を申し上げました。お許しください」

 最近の松姫は、こんな風にぽろりと口を滑らせるようになった。さっきみたいに一度怒らせた後は、不思議と饒舌になるのだ。

 狙い通りだと奇妙丸は目を細める。

「ああ、彼らはね。新館から出られない私の代わりに、あちこちで見聞を広めてくれているんだよ。せっかく甲斐国へ来たのだから、この国の素晴らしいところを見習いたいと思っている」

「まあ、そうでしたの」

 納得した松姫に庭へ誘って、しばらく散策を楽しんだ。

 それから数日後、勝三と平八が新館での謹慎を言い付けられる。どこぞでやらかした失態に対する処罰であった。同盟相手の、しかも元服前の子供ということで大目に見てもらえたというが、全然戻ってこない半兵衛と利治はどうなっているのか。

 奇妙丸はうそりと笑う。

「得る物は、多い方がいいからね」





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スカートめくりして女子の気を引きたいお年頃と大差ないことをしている自覚はあんまりない

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