150. 腹が減ったから戦はできぬ

 大河内城の包囲が完了して一昼夜が過ぎた。

「具盛の知らせは?」

「まだです」

 北畠氏は終わりだ。

 誰もがそう考えていた。

 国人衆だけでなく、支城に詰めていた将兵も投降してくる。長野や木造など、北畠親子の血縁者が織田に降ったのは大きい。織田軍は怖いが大将の俺は甘々だから、命乞いすれば助かるのではという考えもあるようだ。

 その認識は間違っちゃいない。当然、命は助ける。

 仕事のし過ぎで睡眠時間が無くなるようなこともない。

 人間は適度に寝ないと衰弱死する。だから無理やりにでも落とす。じゃなかった、一定時間の睡眠時間を確保させる。昇給・昇格に身分や出自は問わない。織田家は農兵分離を進めているので農家出身者の受け入れ基準は厳しいが、やる気ある人は大歓迎!

 俺は味方に甘いが、家臣に腹黒い人間がいるから要注意な?

 というわけで、現場の中継に戻ろう。

「お公家様、城を枕に討ち死にするつもりじゃねえだろうな」

 もしそれを選ぶなら、信念と覚悟をはき違えた馬鹿野郎だ。

 乱世に限らず、よくある話だ。信純も苦笑している。

「可能性は大いにあるねえ」

「残存兵力は百もないんだろ? そこまで意地を張るか」

「うーん、その数十倍の兵力で城を包囲している私たちの立場がないかな」

 血縁者の話によると、具教が相当頑固者だというのは分かった。

 そして現当主の具房が「馬にも乗れない百貫デブ」であると分かってしまった。ちなみに1貫は3キロくらいであり、百貫デブは物の例えである。

「大砲をぶちこんで、ショックde切腹されても困るしなあ」

「できれば生きたまま捕まえたいよね」

「こっそり忍び込んでも、見つかって逃げられそうです」

「かなり警戒されているからねえ」

「あの…………一体、何の話をしておられるのでしょうか」

「これ、止めぬか」

 おずおずと問いかけてきたのは、長野具藤という男だ。

 隣で止めようとしている爺さんは木造城主・左近衛中将具政で、二人は叔父甥の関係になる。北畠親子の首実検用に本陣へ置いているのだが、織田家への従属を誓ったので縄をかけていない。それぞれ監視役がついているものの、形式としてつけているだけだ。

「まるで狩りをするかのような話で――」

「それだ!」

「うん、いけるかもしれない」

「鍋の用意をするんですね。分かりました」

「え? はっ、え?!」

 信純の同意を得て、信包がさっさと天幕から出ていく。

 俄かに騒がしくなった本陣の様子に、青くなった具藤はそわそわし始めた。腰を上げようとすれば監視役が留めるので、また座り直すを繰り返している。そのうちに具政から窘められて、ちょっとは大人しくなった。

 説明するくらいはいいか。

「今から炊き出しをする」

「ま、まさか夜戦を仕掛けるおつもりでは」

「いいや、向こうから城門を開けてくると思うぞ」

「そんな……兄上に限ってありえぬ」

「俺たちは北畠現当主の身柄が確保できればいい。隠居爺がうっかり自決しないように、伊賀衆が何人か潜んでいる。北畠が負けても城に残るつもりなら、縛って引きずり出すまでだ」

「何故、そこまでして助けようとなさる?」

「俺は乱世の倣いって奴が、大嫌いだからだ」

 北畠の二人は理解できなかったらしい。

 信純含めた全員がニヤニヤしているのを見て、複雑そうな顔で黙り込んだ。武家に生まれた以上、当然の理として馴染んでいるものを否定されて面白がる奴はいない。怪訝そうに、不気味そうに、得体の知れない何かを見るような目で見られるのが普通だった。

 ほどなくして、出汁のいい匂いが漂ってくる。

「三十郎め、俺の乾物コレクションに手を出しやがったな」

「匂いで分かる三郎殿が凄いと思うよ」

「くそう! 絶対に北前船との交渉を成立させるぞ。じゃなかったら、北陸路との開通を早めるしかない。お山様をどうクリアするかが問題だが、琵琶湖沿いなら川を下って北へ抜けられる、かもしれない。朝倉はともかく、軍神は美味い酒で釣れるような気が、するっ」

「甲斐の虎は、塩とお艶様で釣れたもんね……」

 なんだか遠い目をする信純。

 お艶の方はすっかり信玄と仲良くなったらしく、尾張へ帰ってきてから文通する仲らしい。一応は情報漏れがないか確認しているが、ほのぼの仲良しな関係が気に入らないのだ。

 それとこれとは別、とばかりに同盟関係は不穏な気配を漂わせている。

 上洛するだけならご自由にどうぞであるが、侵攻目的なら絶対阻止しなければならない。塩の輸送を止めた場合、身分の低い層から真っ先にダメージを受ける。下からの突き上げで信玄が折れたとしても――。

「むう」

「これは、味方にも影響が出そうだねえ」

 美味しそうな匂いがだんだん本陣内にも広がってきて、腹が鳴る。

「……弥三郎、粥の用意」

「了解しました」

 腹ペコ織田軍なんて笑えない。

 籠城中の城に食べ物なんて大して残っていないだろう。飢えた人間の思考なんて、増水した川の堤防ほども役に立たない。厄介なのは、ある程度満たされていても美味しそうな匂いに弱い人間の本能だ。

「兵糧、大丈夫か?」

「一旦戻らないと無理かな。隊を分けて帰還させるにしても、統率力に不安が残る。以前と違って、今回は将軍の後ろ盾として上洛するんだからね」

「かといって神戸城を落としてすぐに帰還したんじゃ、皆の鬱憤が溜まる一方だったしなあ。近江の問題は、あくまでも長政主導で片付けさせたい」

「浅井家が力をつけるのはいいの?」

「お市を守る力になる。……朝倉次第だな」

 何度も、何度もシミュレーションした。

 長政が死ぬ運命は、朝倉家の動きと密接に関係している。だが今、それを考えるべきじゃない。後回しにしていい問題でもないが、今の俺たちが対面しているのは北畠氏だ。

 それにしても腹が鳴る。

 あちこちでグゥーグゥーと輪唱みたいになっているので、俺以外にも腹ペコがいるようだ。とはいえ、本陣を空けるわけにはいかなかった。北風が吹いている今しかない。ここから南に位置する大河内城に、美味しそうな匂いが届けば耐えられまい。

 風下の兵たちも辛いと思うが、ここが正念場だ。

「門が、城門が開きました!!」

「よし!」

 待ちに待った報せに、伝令も俺たちも表情が明るい。

「ただちに突撃せよ」

「全軍突撃!! ……終わったら田楽食べ放題だからね」

 はたして信純の余計な一言が聞こえたのか。

 地面がぐらぐら揺れるほどの勢いが籠城中の城に押し寄せた。たちまち北畠親子は捕らえられ、猿轡まで噛まされた状態で陣幕に引っ張られてくる。最大期の長利をほうふつとさせる若者が具房で、地獄の鬼みたいな顔をしているのが具教か。

 お公家様にも色々いるんだなあ。

「何を、している」

「ご飯なう」

 見りゃ分かるだろ。

 猿轡を外されての第一声が、俺への文句だとは恐れ入る。

 己の命なんざ、とっくに捨てたも同然なのだろう。首を落としたら、歯を剥いて飛んできそうだ。ちなみに具房の方は入ってきた時から汁椀に釘付けで、涎がだらだら垂れている。

 さすがに見苦しいので、何かないかと腰を探った。

 出てくるのは信包にもらった鉄玉ばかりで、食べると腹を下すこと請け合いだ。やれ困った、捕虜に毒を与えるのは主義に反する。小腹がすいた時のために何かしら持っていた気がするのに、陣羽織を叩いてみても何も出てこない。

「……三郎殿、何やっているの」

「食べ物ないか」

「ありますよ」

 信包がひょいと手を振る。

 具房の半開きになった口に、小さな塊が吸い込まれた。カッと目を見開いた後、大きな体を揺らして苦しみ悶え始める。

「むご!? ご、が……ぐえっ、がは」

「貴様、一体何をした!」

「吐き出さないでくださいね。貴重な蜂蜜を固めたものなんですから」

「それも完成したのか?」

「はい。量が作れないので、あれ一つだけです。疲れた兄上の癒しになるかと持っていたのに、こんなところで使うはめになるとは思いませんでした」

 実に不本意です、と顔に書いてある。

 確かに甘い物は好きだが、蜂蜜の塊はさすがに甘すぎるだろう。ちょっと心配になって具房の様子を窺えば、喉を抑えた格好のまま固まっていた。

「死んだか?」

「う、ううっ」

「具房! しっかりするのだ、具房!!」

 叔父が声をかけているのに、父である具教はチラとも見ない。

 その姿に親父殿を重ねてしまう。俺があんな感じで苦しんでいても、親父殿は心配する素振りもみせないだろう。見苦しい、と吐き捨てることはあっても。

「うう、ううう……」

「この人、泣いています」

「貴様の仕業であろうが! 信長殿は決して殺さぬと明言したにも関わらず、このような場所で毒を与えるとは武士の風上にもおけぬわっ」

「だから毒じゃないって言っているでしょう」

「信じられるか!!」

「蜂蜜は、仏の教えにも認められた食べ物だ。薬として、だがな」

「く、薬? 毒では、ないので……?」

「砂糖と同じだ。甘すぎて、脳がびっくりしたんだろうなあ。おい、大丈夫か?」

「ありがとうございますありがとうございます」

 手をこすり合わせて、涙を流し続ける具房。

 まるで俺自身がありがたがられているような気がする。

 そういえば具盛はどうしたと視線を向ければ、後方で所在なさげに片膝をついていた。目立った外傷はない。無事で何よりだ、と頬が緩む。

 俺の表情に気付いて、具盛が慌てて頭を下げた。

 別に気にしなくてもいいのにな。

 二日待つと言っておいて、匂いで釣るという悪質な戦法を選んだ俺たちが悪い。平和的手段がいいこととは限らない。とりあえず兵糧が心許ない。

「このように美味なもの、初めて食しました」

「そりゃよかった」

「固くて冷たく、つるりとした舌触りもさることながら、喉を滑り落ちてしまいそうな小さい塊に凝縮された上品な味わい……素晴らしいです。この世のどんな甘味も、この魅惑の粒には敵わないでしょう。ただ甘いというだけでなく、舌で転がすたびにとろけていく何とも言えない」

「長い」

「……え? ま、まだ半分も表現できて」

「やかましい」

「申し訳ありません」

 まだ半分以上もあるとか、正気の沙汰じゃない。

 しょんぼりと肩を落とす具房の隣で、具教がゆるゆると息を吐いた。

「茶番はもういい。さっさと、この首を落とせ」

「ド阿呆」

「そう簡単に死を与えてやれぬな、と殿は仰せです」

 いつぞやのように代弁する信純を睨めば、にっこり笑顔が返る。

 本当にこの時代は、死に急ぐ奴が多すぎた。家や領地を守るために投降してくる奴もいるが、その代わりにと自分の首を差し出す馬鹿が嫌いだ。死にたくないのに、死の概念すら理解できないのに、草を刈り取るように奪われていった命を何だと考えているのか。死を選び、死を望み、死の価値を語れる傲慢さをまず理解すべきだ。

 だが、俺は彼らに語る口を持たない。

 腹の中で罵詈雑言吐くぐらいなら許されるだろう。顔に出てしまうのは仕方ないので、忌々しげに舌打ちをする。

「殺さねえよ。あんたらに死を与える奴は別にいる」

「……何?」

「そんなことよりも、上洛命令に従わなかったらしいな。どういうつもりだ」

「落ちた権威に何の意味がある」

「まあ、確かにな」

「貴様が伊勢を攻めたのは、それが理由か?」

「いや、茶と蜜柑のためだ」

 織田側は微妙な顔になり、伊勢側はぽかんとする中、具房が反応した。

「蜜柑……美味しいですよね! 紀州もいいですが、伊予のものは素晴らしいです。織田殿も、茶道に心得がある方だとは知りませんでした。ああでも、有楽の茶というのをご存じありませんか? この伊勢のどこかで作られているそうなのですが」

「具房」

「も、申し訳ありません。父上、ではなく……大殿」

 大きな体を小さく丸めて謝罪する。

 そのやり取りから親子関係も想像できた。武家としては普通かもしれない。弟にも甥にも見捨てられた男は、今まで何を支えに生きてきたのだろう。同じ血を引いているとは思えないくらいに、具房が明るく喋っていたのが印象的だ。

 肥満体の原因は単純に食べすぎ、と見た。

「動けば減るか」

「え?」

「そのままだと、そこの頑固親父の年になる前に死ぬぞ」

「ええ!? あ、いや、私はここで殺されるんですよね。死ぬ前に、あのような素晴らしいものをいただけたのは望外の極み」

「それはもういいから」

「……はい」

 子供みたいに素直だな。

 この性格を知っているから、具盛は説得する案を出してきたのか。出来すぎる親父がいると、子供は何もしなくてもよくなる。氏真はデブメンだという噂を聞かないが、あちらも似たような子供時代を過ごしたのだろう。

 ただただ食って寝る。勉強を嫌がっても、強く咎められない。

 何故なら子供から親に、悪口を告げられたら困るから。ひたすら媚びて、ヨイショして、是非是非自分の良い話をしてください。重用するように頼んでくださいと甘く囁く。信行は自分にも他人にも厳しい性格だったから堕落しなかったが、周囲の言葉をよく聞き入れた。

 その結果、俺との間に大きな溝ができた。

 子供時代にもっと違うことをしていれば、信行は寺にこもらない道を選んでくれただろうか。他の兄弟たちみたいに、俺と共に戦ってくれただろうか。

 小さな目をキョトキョトさせる具房を見やる。

「死ぬ覚悟があるなら、死ぬほど頑張れるよな?」

「え、あ、はい。たぶん」

「たぶん?」

「が、頑張ります!! 死ぬ気で!」

「ということだ。具教、聞いたな? 息子の監督を任せる。残りの人生をかけて鍛え直せ」

 具教の目がぎょろりと動いた。髭に覆われた唇が動く。

「……貴様、正気か? 反逆の芽を育てることになりかねぬぞ」

「おお、何度でも挑んで来い。相手をするのが俺とは限らんがな」

「兄上が出るまでもありません。潰します」

「ひっ」

 信包、下を見るな。

 あちこちで内股になって竦み上がった野郎どもは見なかったことにして、俺は一件落着と息を吐いた。尾張は弟たちが守ってくれるし、利治と奇妙丸がいない美濃は俺が直接統治下に置く。伊勢は間接的に織田家が監督することにして、北畠氏を存続させるのだ。

 後のことは信包たちに任せ、織田本隊は岐阜へ戻った。





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