15. ドクゼリ
那古野城の朝は早い。
東の空が白む頃には厨から白い煙が立つようになった。
それを見て慌てたのか、小走りで駆け込んできた女がいた。やや青ざめた固い顔で外をしきりに気にしている。神経質な性格なのだろう。何度も胸元を確認しつつ両手で抑え、十分な余裕のある戸口を小さくなって跨いだ。
むわっと蒸気のこもる中を、数人の女たちが忙しそうに動き回っている。
最も年嵩と思われる中年女が、ひょいと振り向いた。自分の娘くらいに年の離れた彼女のことは日頃から気にかけている。世話好きで、面倒見の良い女だった。
「あれ、今日は遅かったねえ」
「も、申し訳ありません」
「いいよ。近頃の若様が、やたら早起きなのが悪いのさ。今度は何を企んでいるんだか、廃嫡を聞かされて自暴自棄にならなきゃいいんだけど」
「そうですね……」
「もしかして朝に弱いのかい? 若いうちに鍛えときな。嫁に行ったら、姑さんからここぞとばかりに攻撃されちまうよ」
「はい、気を付けます」
口の達者な飯炊き婆である。
声をかけられた時には心の臓が跳ね上がる思いをしたが、大丈夫だ。怪しまれていない。ひとしきり喋ってスッキリした顔で、汁物の鍋を覗き込んでいる。
うん、あれがいい。
そうと決まれば、鍋にとりつく隙がほしい。不自然に思われないためには彼女たちを手伝べきだと分かっているが、ぎりぎりまで隠しておきたい。早くどけ、早くそこをどけ。
あっちに行って。
そんな思いが届いたのか、くるっと中年女が振り向いた。
「味見」
「あ、はい」
「腹が減ってるなら、これで我慢しな。仮にも若様の朝餉をつまみ食いしたとあっちゃあ、即座にコレだからねえ」
首をかっ切る動きに、女はぎこちない笑みを浮かべた。
どの道、待っている未来はそれしかない。見つかっても見つからなくても、既に地獄への道行きは始まっているのだ。戻れない一本道の先は、闇。
「ん? なんだい、それは」
「あ、あの、こっ、これは」
汁物の味をみるには、匙で掬って舐める。
だが中年女は腹をすかしている女のために、わざわざ小皿によそってくれたのだ。困ったことに、それを受け取るためには手を出さなければならない。なんとか隠したまま受け取れないかとモゾモゾ動かしたら、それが見つかってしまった。
必死に記憶を手繰り、言われたことを思い出す。
「あ、あの、とても滋養のつく、草です。苦いので少量だけなら、何かに混ぜてしまえば若様も気付かないのではないかと」
「あんた、……まさか」
中年女が目を眇める。若い女は喉の奥で声を詰まらせる。
「若様が好きなのかい?」
「そ、そうなんです!!」
緊張の極みにあった女は、甲高い悲鳴のような声で答えた。
どくどくと早鐘を打つ胸が苦しい。噴出した汗が全身をびっしょりと濡らしていた。大それたことをしようとしている恐れからか、体の震えも止まらない。
「とにかく、この
「違うだろ」
ぽんっと肩に誰かの手が乗る。
その声を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。
**********
きゃーっ、と女たちの悲鳴が上がる。
そんなに俺の登場を喜んでくれるなんて照れるぜ、フッ。
なーんて、冗談です。黄色い悲鳴じゃなくて畏怖の方だったね。おばちゃんの目線がものすごく怖い。戦国時代の女たち、実はつよい。逆らわないが吉。
(おっと、忘れるところだった)
気絶した女の手から、そっとソレを抜き取る。
可哀想に手が赤く腫れていて、震えながら呼吸も不規則だ。呼吸困難と痙攣、明らかな中毒症状だ。汗をかいているのに体が冷たい。これは急いだほうがいいかもしれない。
「若様! まだお食事はできておりません。このような所に足を踏み入れるなど、身分ある御方のなさることでは」
「はい、ごめんなさい。ついでに、この人も連れていくぞ。なんか本当に具合悪そうだし」
「先程の会話はお忘れください。この娘のためにも」
「分かっている。婚儀を控えている身だし」
連れていくのは構わないが、おかしなことをするなと釘を刺されてしまった。
そんな余裕ねーよと返したい。可哀想な娘さんの具合が悪いどころじゃないのは見れば分かる。厨房のおばちゃんも、さすがに異常だと気付いているようだ。
「邪魔して悪かった。朝餉はいつも通り、部屋に運んでくれ」
「承知いたしました」
おばちゃんの目が怖い。
こっそり隠れていたのがバレていたらしい。この時代の飯の作り方を見て覚えようと思っただけなのに。まさか毒混入の現場を目撃することになるとは思わなかった。そうかあ、俺ってマジで命狙われてんのか。
軽く動揺しながら、足をひたすら動かしている。
横抱きにしている女もすごく軽い。ほっそい体しているし、まだ少女くらいの年頃じゃなかろうか。黒髪を飾るのは丸紐一本だ。
可哀想に。そんな感想しか出てこない俺は冷たいかな。
「若」
「ナイスタイミングだ、一益。ドクゼリの解毒方法知っているか?」
別名オオゼリ。
七草のひとつに数えられるセリによく似ていることから、間違えて食べて中毒死する奴がいるらしい。沢彦にそれを聞いた時には、軽く血の気が引いたものだ。中毒症状の説明は三流ホラーも真っ青な内容で、夏になったら怪談語りだすタレントを思い出してしまった。
おかげで、形状もしっかり覚えている。
手が傷だらけなのはしっかり握りこんでいたからで、傷口から毒が染み込んでいったのだろう。ドクゼリを包んだ懐紙は、血と草の汁で汚れていた。
「若」
「早く助けてやってくれ。たぶん利用されただけなんだ」
「…………」
「まさか解毒方法がないとか言わないよな? あるだろ、ほら。傷口から吸い出すとか、水分を与えて強制排出させるとか」
「若」
若、若うるせえんだよ。なんとかしろよ、何のための舎弟だ。
なんのための忍だ。俺の役に立つために、一益はいるんだろうが。その俺が女を助けろって言っているんだぞ。お願いじゃない、命令だ。お前は臣下なのに、主の命令が聞けないのか。
自分で自分が何を言っているのか分からなかった。
ぎゃあぎゃあと喚く声が、横滑りする。
ぱたり、と手が落ちた。
辺りに静けさが戻ってくる。
まだ夜が明けたばかりだ。あちこち騒がしくなってくるのは完全に日が昇った頃で、イマハマダ城内に動き回っている人間は限られていた。
細くて白い足が、土の上に投げ出されていた。
草履はここまでくる間に脱げてしまったのだろう。もっと慎重に運べばよかった。汗にまみれた肌に髪が貼りついている。一筋ずつ払ってやる俺の方が震えていて、彼女はもうぴくりともしなかった。
可哀想に。
一瞬だけ浮かんだフレーズをかき消すように、俺の中で激しさが駆け巡る。
厨で働いている女たちの中で、この子が一番若かった。いずれ誰かのところへ嫁いでいくのだろうが、城で働けるくらいには身元もしっかりしていた。
物言わぬ骸をそっと降ろす。
飢餓の村で死体を見たが、人が死ぬのを目の当たりにしたのは初めてだった。まだぬくもりが残っていて、それが肌を通して伝わってくる。嫌だとか不快だとかそういうのじゃないと思いたいのに、もう触りたくなかった。目を逸らして、綺麗さっぱり忘れたい。
分かっている。そんなことは許されない。
だから、こう考えることにした。
「俺が殺した」
「若!?」
「この女は俺をかばって、俺の代わりに毒を含んだんだ。俺を殺そうとしたんじゃない。毒入りの飯は既に作られていて、うっかり者の娘がつまみ食いをした」
静かに、ゆっくりと噛みしめるように、俺は告げる。
片膝をつき、こちらを見上げる一益の目が限界まで見開かれている。表情の乏しい奴には珍しく、かなり驚いているらしい。
「それは」
「噂として広めろ。廃嫡のことで少しは減るかと思ったが、俺を狙っている奴は相変わらず馬鹿だな。あるいは『俺が殺した』と吹聴するのを期待したか、まあ……どうでもいい」
すぐに浮かんだのは飢饉の村、そして信行だ。
誰だか知らないが、何が何でも信行に織田家を継がせたいらしい。思い通りの傀儡にならないのは薄々気付いているだろうに、俺がまともな死に方をしなかった件で動きを制限するつもりか。正義感が強く、曲がったことが大嫌いな弟だ。
お前のせいで死んだ、と言われたら罪悪感で苦しむに違いない。
このままでは子猿がいる村も狙われる。来年の秋までに復興できなければ、廃嫡すると親父殿が宣言したからだ。俺が、守らなければ。
「……ごめんな」
君を守れなくて、ごめん。
その日の晩。
城下町のある家で、夜通し慟哭の声が上がっていた。
何故どうしてと叫んでも答える者はない。噂を知った者たちが、娘との面識もないのに追悼の言葉を告げていった。ひっきりなしにやってくる弔問客からまことしやかに、織田信長を毒殺しようとした話が広がっていった。那古野城を預かる織田弾正忠家の嫡男と、勝幡城にいるもう一人の息子・信行との家督争いが現実味を帯びていく。
素行の悪さが目立つ信長、品行方正と評判のいい信行。
城下町では顔も知らない信行よりも、舎弟を引き連れてちょくちょく現れる信長の噂の方が多かった。それは決して悪いものだけはなかったが、名も無き娘が無関係の争い事に巻き込まれたという事実は変わらない。
娘は沢彦和尚の読経で送られ、荼毘に付した。
そして葬儀代を含めた段取りも信長の指示だということを、弔問客らは知った。とある村の復興も人々の噂になる頃、信長の評価は少しずつ変わっていくことになる。
********************
毒の知識はうろ覚えだったので、wikipediaを参照しています。
見分け方としてセリの葉は丸みを帯びているのに対して、ドクゼリはトゲトゲの葉で痛そうな見た目です。生息地に多少の違いがありますが、日本でドクゼリ中毒がないわけではないので、作中に使わせていただきました
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