【閑話】 その頃、松と猿は
ぽかぽか陽気を浴びながら、草の茂る丘で大の字になっていた。
「あー、ダメだ」
「ダメじゃー」
「全然人が集まらねえ」
「廃嫡の噂、あっちゅう間に広まってしもうたー」
途端、成政が勢いよく跳ね起きる。
「てめえのせいだろ! この馬鹿猿っ」
「わしか、わしのせいなんか!?」
びっくりして半身を起こした日吉の首を掴むと、前後に振り始めた。
あまりの勢いに、手までガクガク揺れる。
「廃嫡寸前の若様を助けてくれとか言うからだろうがああぁ!!」
「正直、スマンと思っちょる」
「謝って済むことか!」
「ぐへっ」
キリッと引き締めた日吉の顔が、苦悶に歪んだ。
ゲンコツ一つで済ませたのは成政なりの気遣いである。とはいえ、信長の舎弟はこうも口より先に手が出てしまう。互いに殴り合っても平気なので、力加減も分かっていない。話によると、信長も父親の拳で空を舞ったらしい。
これだから脳内筋肉の輩は、と日吉は内心ごちる。
「助け合いの精神、悪くねえと思ったんだがなあ」
「落ち目の若様に誰がついていくかよ」
「それ、信長様の耳に入っても知らんで」
「てめえが黙っときゃあ、何も問題はないだろうが」
「いでででで」
脳天をグリグリするのは痛い。グリグリは痛い。
馬鹿になると悲鳴を上げれば、とっくに馬鹿だから問題ないと理不尽が返る。これでも佐々家の跡継ぎ様なので、領民相手の印籠にはもってこいなのだ。脳内筋肉でなければ。
「おい」
ぎろりと睨まれ、慌てて首をひっこめた。
「行くぞ。休憩は終わりだ」
「おうさ!」
日吉はぴょんと跳ね起き、信長の命じたことを思い返す。
『米問屋と庄屋と、織物問屋に金物屋に行って話をしてこい』
ちなみに成政は印籠なので、日吉の後ろでふんぞり返っている役だ。
せいぜい厳めしい顔をしていろということなので、蒼白になった番頭が転びそうになりながら店主を呼びに走ったのも何度かある。もちろん何事かとやってきた店主も、狐につままれたような顔をしていた。
日吉は「話をしてこい」と言われただけである。
だから話だけをした。
自分たちが三郎信長の家臣(候補)であることを告げた後は、ほとんど世間話に近い。てっきり商売の話だと思っていた彼らは、落ち目の若様と関わっても損するだけだとたちまち態度を硬化させた。それを成政は怒っているのだ。
もちろん商人の前でも憤怒の形相をさらしていたので、塩は撒かれなかった。
「おっ、鍛冶屋があるぞ」
「まさか松様、寄り道するつもりじゃ」
「んなわけあるか! 確かこの辺に、若様が預けた鉄砲を修理している奴がいるはずだ。刀を見るのはついでだ、ついで」
「やっぱり刀を見るんじゃ……あいたあっ」
前言撤回。利家の方が数倍いいやつだ。
「人を殴らんと話もできんのかのう」
「聞こえてるぞ」
すごい目で睨まれたが、拳は飛んでこなかった。
そのことにホッとする。これ以上殴られたら、それこそ馬鹿になってしまう。馬鹿は信長の役に立てない。つまり、出世できない。家族に楽をさせてやれない。
我慢だ、今は我慢の時。
日吉は耐えるのが得意だった。長く辛い冬はとにかく辛抱して、春の訪れを待つ。くだらないことでも何でも、考えている間に時間が経ってしまう。母にはサボるなと怒られるが、動かない方が腹も減らない。妙案なのに母はやっぱり怒る。
「松様、出世するにゃあどうすればええ?」
「強くなるしかねえだろ。強くなって、若様をお守りする。弾正忠家は今や、織田本家を凌ぐ力をつけつつある。美濃国にはさんざん煮え湯を飲まされたが、我らの力を思い知ったということだろう。その証拠に蝮の奴め、娘を差し出してきた」
「はあ」
「織田家を継いだ暁には、尾張国の統一。そして美濃国も手中に収める!」
「あ、いや、出世したいのはわしなんじゃが……」
「百年早いわ、馬鹿猿めがっ」
結局、殴られた。
百年経ったら、日吉もヨボヨボの老人である。
それまで出世できないなどと絶望的な話があってたまるか。老人になったら、きんきらきんの金に囲まれた生活がしたい。ちらっとしか見たことはないが、あれはいいものだ。見ているだけで金持ちになった気分になる。
「気分では、腹は膨れんのう」
「当たり前だ馬鹿。働いてこそ飯が食える。だから働け、日吉」
成政はたまーにイイコトを言うし、勘が働く。
ちょうど上がった頃だという三丁の鉄砲を預かり、とりあえず城へ戻ることになった。鍛冶師の説明は成政の頭に入っていないだろう。途中から生返事になっていたのを日吉は知っている。
だから代わりに説明をしてやろう。
信長が褒めてくれるかどうか分からないが、信長の役に立つことが日吉の喜びだ。
あの顔が笑うと、なんだか嬉しくなるのだ。
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脳筋→脳内筋肉→頭の中(脳内)が筋肉でできている。
この時代の医学レベルとして、脳が認知されていたかどうかあやしいので、舎弟たちが喋っている時代錯誤な単語は全て主人公の受け売りだと思ってください。
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