13. 飢饉の村(後)

 子猿は何を言われたか分からない様子で、しばらく呆けていた。

 光の戻った目で俺たちを見回してから足元に視線を落とす。小さな手の中で、懐紙がくしゃりと音を立てた。

「……うそだ」

「信じないならそれでもいい。お前らは全滅するだけだ。さすがに心は痛むが、俺たちは生きているからな。そのうち、この村があったことも忘れていく」

 あえて冷たく突き放しているように、淡々と告げた。

 子猿、村の子供は俯いたまま肩を震わせる。

「ひとごろしっ」

「お前らが全滅すれば、そうなるな。生きるか、死ぬか。今、決めろ」

 本当は見捨てたくない。どうにかして救いたい。

 具体的な策はこれから考えるし、とにかく炊き出しの準備を早く始めたい。この子供のように食べ物があると分かれば、生きている奴は活力を取り戻す。

 衛生面も最悪だ。

 気にしないようにしていたが、とにかく臭い。色々混ざってかなり不快なのを顔に出さないようにするので精いっぱいだ。水の問題も早く解決しなければならないし、村が復興する前に流行り病で死ぬかもしれない。冗談じゃない。来年には嫁をもらう予定なのに、相手の顔も見ずに死ぬとかありえない。お市もきっと泣いて寂しがる。

 だから俺は絶対に、生きて帰る。

 この村を救って、堂々と城へ戻る。俺はノブナガだ。こんな小さな村一つ救えないで、諸国の英傑たちと渡り合えるわけがない。こんなところで、死にたくない。

「し……にたくない…………っ、死にたくないよう」

 子供がしゃくり上げながら、訴えてくる。

「分かった」

「若様!」

「子供、空き家はあるか。一つあればいい」

「あきや?」

「誰も住んでいない家だ。今日からそこに住む」

 俺が子供と話していると案の定、恒興が頓狂な声を上げる。

「若様!? 正気ですかっ」

「ああ、お前らは日が暮れたら戻れ。今日は俺の強引な呼び出しで集まっただけにすぎない。そのまま帰らなかったら、どんなことを言われるか分からんぞ」

「いいえ、それは若様も同じでございます。若様こそ城に戻られませんと、今度はどんなお叱りを受けるか」

「……ちっ、面倒くせえな」

 長秀の言葉はいつだって正論だ。

 俺のことを考えて、俺のために発言している。従順に命令を遂行する一益や犬松コンビとは違う。何でも反対してくる恒興とも違う。だが彼らにも彼らの考えがあって、俺と行動を共にしている。長秀の忠言に従って城に帰ったが最後、俺を二度と村に近寄らせないだろう。

 そして俺にだって譲れないものがある。

 うそだと言われて、若干ムキになっている自覚もある。

「犬!」

「わんっ」

「今より親父殿に文をしたためる。これを今日中に届けろ」

「っす!!」

「五郎左は、勝三郎を送り届けてやれ。目が覚めた時、宥める役が必要だ。このまま残れば、気が狂うかもしれん。……俺の家臣を守れ」

「承知、しました」

 腹の底から絞り出すような返答だった。

 不本意極まりない、と長秀の顔に書いてある。

 廃嫡寸前とはいえ、織田(分)家の次期当主を一人で置いていくことになるのだ。城下周辺の村と違い、十数里離れた村の民が俺のことを知っているかどうかもあやしい。俺たちの身なりからして、武家の若様だということくらいは分かるだろうが。

 体のしっかりした青年たちが消えた後で、どうなるか。

 うん、ゾッとしないな。

「そう心配するな、五郎左」

「若様」

「炊き出しやら何やらはもちろん手伝ってもらうぞ。腹が満たされれば、悪い想像もしなくなる。ぐうぐう寝て、起きたら朝日が昇ってる」

 渋い顔の長秀の横で、利家が笑顔で頷いた。

「早起きには自信あるっすよ」

「ほんとうに、たすけてくれるの?」

 おずおずと子供が割って入った。

 俺の袖の端を、小さな指で握ってくる。

 それがお市の癖を思い出させて、胸が詰まった。俺は腰を落として、子供と視線を合わせる。慌てて下がろうとするのを止めず、へらっと笑ってみせた。

「俺には夢がある。そのための第一歩が、この村だ」

「よくわかんない」

「うん。今日は腹いっぱい食べて、たくさん寝ろ。働くのは明日からだ。頑張ったら、また食わせてやる。働かざるもの食うべからず、ってな」

「むずかしい」

 子供は不満げに口をとがらせる。

「わかさまって、おしょうさまなの?」

「いや、違う。俺は信長。織田三郎信長だ」

「ながい。ノブナガでいい?」

「おう」

 ノブナガ、ノブナガと口の中で繰り返す子供の頭を撫でる。

 前世では子供に触れようなんて思わなかった。子供を可愛いと思ったことはない。喧しくて鬱陶しくて、この世の中から消えてなくなればいいとすら思っていた。

 俺も昔は子供だった。今も子供だ。

 途中から始まった人生だが、今度こそ俺は幸せな老後を送りたい。

 美人の嫁さんがいて、可愛い妹や家族がいて、子供も生まれたら絶対楽しい。その子供が結婚して孫が生まれたら、めちゃくちゃに可愛がる。俺の孫が可愛くないはずない。

 親父殿や土田御前みたいな親になりたくない。

「お、オレ頑張るっすよ! 炊き出しとかすげー頑張るしっ」

「又左、やり方を知っているのか?」

「べんきょーするっす」

「ねえ。べんきょー、ってなに?」

「賢くなることだぜ!」

「かしこくなったら、ごはんをたべられる?」

「え、えーっと……三郎様」

 なんだよ、その目。

 二人して期待する子供のような顔するんじゃない。いや、まだ子供か。利家は元服しているが、俺の感覚では二十歳前は未成年なんだよなあ。記憶力ともかく精神年齢は、村の子供と大差ないような気もしてきた。

「若様」

 長秀が無言のプレッシャーを与えてくる。

 泣きべそ恒興を背負ったままなので、兄貴っぽい雰囲気がいつもより三割増しである。そういえば、こいつに兄弟いるかどうか聞いたことがないな。弟がいたら説教臭い兄貴だと思われてそう。面倒見はいいから、なんだかんだ慕われてそう。

「何ですかな?」

「賢くなったら、こんな感じになる」

 長秀を示せば、子供と利家の視線が集まった。

 たくさん食べてでかくなった図体を居心地悪そうにしているが、さっきから頭良さそうな言動をしているので説得力はあると思う。

「若様、この子は女ですぞ。血筋もありますが、鍛錬と食事に気を付けてもそれがしのような体躯になるのは難しいかと存じます」

「ん?」

 長秀を見る。そして子供を見る。

 きょとんとして首を傾げる子猿のような――。

「んん?」

 元は着物であっただろうボロ布がはらりと落ちた。

 自然に、そっちへと目線が向かう。

 あれ、おかしいな? ついていない。男児にあるべき、俺たちに標準装備されているアレがない。光を取り戻した無垢な瞳が、俺に突き刺さる。

「ほ、ほみゃあああああああ!?」

「若様、気をしっかりなされよっ」

「……ノブナガ、うるさい」

 女の子だった。

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