10. うつけ者、蝮に遭遇する(後)

 前世も含めて草庵に入るのは初めてだ。

 外見通りの小さい家だが、質素ながらも綺麗に整えられていた。

 わくわくしながら戸口から入って、こぢんまりとした内装をまじまじと見てしまう。これは、土間と畳の間だけかな。敷居がなくて、ダイニングキッチンみたいに一体化空間になっている。畳の間に天井から吊ったやかんがないので、竈で湯を沸かすようだ。

 マムシが自分で炊事しているんだろうか、まさかな。

 物珍しさでキョロキョロしている俺に、利政が苦笑している。

 手振りで示してきたので、大人しく座る。いい茣蓙使ってんなあ。

「見ての通りのあばら屋ゆえ、うつけ殿には窮屈かもしれぬがの」

「いえいえ、風情ある庵で羨ましいです。隠居して、終の棲家にするにはよさそうだと思いました。調度品も必要最低限って感じで、すごくいいです」

「まだ若い身空で、隠居とは。覇気があるのだか、無いのだか分からぬなあ。されど、世辞でも褒められて悪い気はせぬ。礼を言おうぞ」

「恥ずかしながら、お世辞は苦手です」

 口八丁手八丁は俺の領分じゃない。

 大将は決して前に出ないをモットーに、厄介事は全て舎弟をはじめとする織田家臣団に任せる予定である。そのためには俺の意を汲んで、俺の狙い通りに事を運んでくれる才能が必要だ。これが育たないと、俺の人生計画は49年で終了する。

 そんなのは嫌だ。歴史の陰でこっそり生き延びてやる。

(まあ、そのためには夫婦の共同作業が……やべ、興奮してきた)

 濃姫こと帰蝶姫は美女だという。

 親に似なくてよかったね! 母親(正室?)が美女だったんだろう。利政と親子喧嘩している(らしい)息子と同腹のはずだが、本当に大丈夫か俺。織田家に続いて斎藤家の家督争いにまで巻き込まれたら困るぞ。いや、嫁のためなら頑張れる。

 その嫁さんはまだ顔も見てないんだけどな!

 この時代は写真がなくて絵師が似顔絵を描いてくれる。が、見合いの釣り書すら届いていない。政略結婚だから仕方ないかもしれない。俺の釣り書も出していないはずだ。カッコイイ絵姿で期待して、現実でガッカリされるのも嫌だぞ。

 まずは第一印象だ。寝所が殺人現場は絶対回避。

「そのように睨まずとも、茶は逃げぬよ」

「はは。緊張して、つい……」

 おたくの娘さんとイチャイチャする妄想してました、だなんて言えない。

 目の前には、どっしりした茶碗が置かれていた。こんな俺でも客として、抹茶を用意してくれたようだ。作法は沢彦からみっちり叩き込まれている。武家の嗜みらしいが、なんで寺の坊主がそんなことまで精通しているんだか。

「緊張、しておるようには……見えなかったがのう?」

 空気が変わる。

 ヤバイ。茶碗を取り落としそうになって、ギリギリ耐えた。

 美濃国だから美濃焼なのかどうかは知らないが、きっと相当に高い茶碗だ。もしも割ったら弁償しろと言われるかもしれない。親父殿に知られたら、また硯が飛んでくる。そんなの嫌だ。震える手でなんとか茶碗を抱えた。一回くるっとしてから香りを楽しむ。

(んー、エエ香りや。お高い抹茶使ってるんだろうなあ)

 ずずっと啜った。あ、意外に美味いなコレ。

 沢彦の茶はやたら苦かったが、これは爽やかな苦みだ。武家の嗜みというからには親父殿も茶をたてることがあるんだろうな。ちょっと想像できない。

「わしは今日、ぬしに会うのが楽しみじゃった」

「ぐふっ……お、俺もです。いや、それがしも楽しみでした」

「そうか」

「はい」

 ははは、と笑い声が唱和する。

 俺の背中は冷や汗でびっしょりだ。

 会うのが楽しみと言いきったぞ、このマムシ。

 ということは一益は、美濃側がわざと流した情報をつかまされたということだ。それで俺がホイホイ釣られて来ちゃったわけで、やっぱり親父殿の硯案件か。痛いの嫌だな。なんとか隠し通せないものか。

「帰蝶の婿をうつけ殿を指名したのはな、このわしよ」

「へ?」

「美味いか」

「あ、美味しいです。じゃなくて、いいお点前でした」

 うろ覚えの台詞の後に、これまた慎重に茶碗を置いた。

 割らずに済んだことに安堵して、ため息が出る。

「意外や意外。うつけ殿には、茶道の心得がおありかのう」

「いや、これが初めてです。思ったほど苦くないんですね」

「ほほう」

 利政がにやにや笑っている。

 くそう、何が楽しいんだこのマムシ。

 誘いに乗ってノコノコ現れた俺が間抜けで面白いってことなら納得だ。一益は悪くないし、恒興はさんざん止めてきた。それでも行くと決めたのは俺だ。だって近くまで来ているなら会ってみたいだろ? がっつりご対面するところまでは想像していなかった。さすがにそこまで図々しくない。

 って、草庵の中で話し込んでいる時点で説得力皆無だな。

「それで話の続きだがのう。……婿殿?」

「あ、はい…………はいぃ!?」

「そう驚くことでもあるまい。帰蝶が嫁ぐは既に決まったことじゃ。なれば、うつけ殿は婿にあたる。わしが婿殿と呼んで、何か不都合でもあるのか?」

「いえ、ないですけど。姫が認めてくださるかは、その……別問題かと」

「婿殿は己に自信がないと申されるか」

「俺の価値は、俺に関わる人間が決めることです。姫にも理想がありましょう。俺も噂でしか知らない姫のことを、婚儀の場で見極めるつもりです」

「ほお、言うてくれるわ。蝮の娘が怖くないと?」

「毒を仕込むなら、とっくに」

 飲み干した茶碗を畳に転がし、手の甲で口元を拭った。

 ここが正念場だ、三郎信長。腹をくくれ。

 美濃のマムシと直接対話できる機会はこの先、二度とないかもしれない。まだ見ぬ嫁のためにも(便宜上)婿と呼んでくれるマムシのおっさんのためにも、斎藤家の親子喧嘩に介入する覚悟を決めよう。そうしたら嫁も、俺のことを好きになってくれるかもしれないし!

 マムシのおっさんは目を眇める。

「分かっていて含んだか、毒を」

「蝮は毒を持つ生き物ですよね」

「くくっ、ふはは…………ははははは!! 痴れ者めがっ」

 耳元を何かが突っ切る。ガシャン、と背後で音がした。

 勢いよく引き戸が開け放たれ、外の風がふんわりと入ってきた。森の香りにホッとする。いや、まだ安心はできない。マムシのおっさんが本当に怒っているのか、怒ったふりをしているのか見極めなければ。

 毒すら呷ってみせると言った、俺の覚悟が届いたかどうかを。

「利政様!?」

「利政様、いかがなさいましたか!」

「騒がしいわ。よい、ほんの戯れよ。其の方らの目は節穴か? 耳は塞がっておるのか」

 マムシのおっさんの呆れた声を聴く耳を、誰かが引っ張る。

「いっ」

「若様!? お怪我を――」

「これ、薬。ちょっと痛い」

「い、痛い痛い! ちょっとどころじゃなく痛い!! 一益、擦りこむなっ」

「よく効く」

 気持ちはわかるが、八つ当たりはやめてほしい。

 飛んできた茶碗が耳を掠めただけだし、きっかけを作ったのは俺だ。硯が命中しても死ななかったんだから大丈夫、って聞くわけもないか。まだ和睦を結んだばかりで、斎藤家とは敵同士だったのだ。

 手当を優先するのも俺のため。恒興も今は口を噤んでいるが、視線が痛い。刺さる。口よりモノを言いすぎである。

「落ち着け。大した傷じゃない」

「ますます惜しいのう。其の方が姫であれば、逃さぬものを」

「そうしたら、噛み切って逃げます」

「ははは! そうきたか、婿殿はやはり面白い。尾張のうつけとは、よう言ったものよ」

 実は俺も、その二つ名が嫌いじゃない。

 上機嫌で膝を叩きつつ笑う利政と、声を出さずに笑う俺。よかった、この場はなんとか凌げたみたいだ。試しもせずに命を賭けるもんじゃないな。今回は嫌ってほど痛感した。

(それでも……覚悟は、した)

 マムシのおっさんは想像した以上に、すごい人だ。

 ちょっと話しただけでも圧倒されるし、強いカリスマを感じる。きっと家臣団にも慕われているに違いない。だから美濃国は二つに分かれた。息子・義龍に人望がなかったというよりも、マムシのおっさんがデカすぎたんだと思えば納得できる。

 味方になってくれれば、これほど心強いことはない。

 大悪党と呼ばれるくらいだから、虎の威としても影響力抜群だろう。尾張の虎は親父殿だし、甲斐の虎は武田信玄だが、どっちも威を借りたくない相手だ。どんなお返しを期待されるか分かったもんじゃない。





********************

この時代の茶道は、武家のステータスでもあったようです。

茶道具蒐集も同じく。

茶碗が量産品だからって、投げたり割ったりするものじゃありません。よいこはマネしないでね!

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