第11話「遺言」


 火柱はしばらくの間タンドラを中央に渦巻いていたが、やがて部屋中に黒ずんだこげを残してフッと消え去った。


「……おい、お前ら大丈夫か!?」


 バイロンと共に間一髪火柱の外へと転がり出たゼンゲルが声を張り上げる。

 返ってきたのはヘレンの悲痛な叫びだった。


「いやあぁああぁあぁあぁああぁあぁぁあぁああ」


 部屋中に響く悲鳴。

 ゼンゲルたちも慌てて彼女の元に駆け寄るが、彼女の側に転がっているを見て思わずウッと呻きを漏らした。


 真っ黒に炭化した、それ。

 あまりにか細く、ちょっと触れただけで風にのって消え去りそうだった。


 もしその手に焦げついた斧が握られていなかったら、それが何だったのか誰にも分かることはなかっただろう。


「随分と小さくなりやがって……バール」


 そう呟きながらバイロンは彼の元にかがみ込み、かつて手だったものに触れる。

 もちろんそこに温もりはなく、代わりに彼に与えられたのはパラパラとした炭だけだった。


「私は結界魔法でな、なんとか防げたけど、ば、ば、バールには間に合わなくて……」


 時々嗚咽を漏らしながらヘレンが言う。


「わ、私が動くのが遅かったからだ……」

「馬鹿言うな、お前は何も悪くない。生きてるだけで十分だよ」


 俯くヘレンの震える肩を抱き寄せながら、バイロンが若干声を震わせながら言った。


「バールのことは、しょうがないんだ。あいつはよくやったよ」


 その言葉で何かがプツッと切れたのか、ヘレンはバイロンの胸でワーっと声に出して泣いた。

 バイロンはただ何も言わずに頭を撫でた。


 そんな彼らの様子を、ゼンゲルはただ突っ立って眺めていた。

 悲しむこともなく、怒ることもなく。


 ただ何が起こったのか理解しかねるように、バールの死体を見下ろしていた。

 そして絞り出すように、やっと一言。


「──どんな気分だ?」


 そう吐き出すと共に彼はくるりと向きを変え、部屋の真ん中で尽きたように仰向けになっているタンドラへと歩み寄った。


「なあ、ゴミ虫」


 歩きながら彼は言う。


「亜人の分際で人を殺して気分はいいか? あぁ?」


 そしてピタッとタンドラの元に立ち止まり、彼は唾と共に言葉を吐き出す。


「なぁどんな気分だ!? 答えろよなぁ!」


 荒々しい口調で彼は叫んだ。

 横たわるタンドラはしばらくボーッと天井を眺めたまま黙っていたが、やがて「ふふふふ」と笑い出した。


「……何がおかしい」

「どんな気分か、ね」


 彼は口角をニッとあげる。引き裂かれた頬と相まって、それはいかにも「化け物」という印象を見る者に与えた。


「……私にも復讐に燃えていた時期はあった。仲間を殺した連中を皆殺しにしたこともある。だけど私に残ったのは……虚しさだけだった。

 復讐なんかしたところで仲間は返ってこない。ただの自己満足に過ぎなかった」

「……なんの話をしてるんですか」


 元の口調に戻ったゼンゲルが苛立たしげに言う。


「どう思ったか、だったかな……答えは何も感じない、だ。心底どうでもいいね」

「──は?」


 その言葉で、ゼンゲルの中で何がプツリと切れた。

 同時に意識も途切れる。


 そして次に彼がハッと我に返った瞬間。


「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね──」


 同じ言葉をひたすら繰り返しながら、彼はタンドラを延々と蹴り付けていた。




**




(そんな、そんな、そんな──)


 隙間から事の顛末を全て見ていたケラントは、その場から動くこともできず、叫びが漏れないよう口を手で押さえながら父が痛ぶられるのを見ることしかできなかった。


 動かなければ、と思う。

 助けなければ、と思う。


 だが。

 身体が動かない。

 一方的に蹂躙される父を目前にしながら、彼は震えることしかできなかった。


(動け! 動け! 動け!)


 何とかこの縛りから逃れようと彼はもがく。

 だが意志に反して身体は、まるで石膏で押し固められかのように硬直している。


 このままでは父が死ぬ。

 助けなければ。

 母を殺したという連中がいる。

 仇を取らなければ。


 野生的な直感がそう告げる。

 だが──


 理性では分かっていた。

 挑んだところで、負けるに違いないと。


 父があんなにあっさりと倒されたのだ。

 まだ未熟なケラントが勝負を挑んだところで、父と一緒に仲良くおねんねをする羽目になるに違いない。


 メンバーが一人減ったとは言え、強力なことには変わりないのだ。戦い慣れしていないケラントでは歯が立たないだろう。


 直感か、理性か。


 彼が葛藤する間も、父はどんどんと弱っていく。



 ……どのくらいの間、タンドラは蹴られていたのだろう。


 やがてバイロンがフラフラと立ち上がり、既に意識が朦朧としているタンドラからゼンゲルを引き剥がし、懐からガラス瓶のようなものを取り出した。


(あれは……?)


 ケラントは強く嫌な予感を感じる。

 そんな彼を尻目に、バイロンは中に入っていた液体をタンドラにぶっかけた。


 その瞬間。


「ああぁあぁあぁあああぁあぁああああ!!!!」


 タンドラの絶叫が響き渡った。

 ケラントの顔からサーっと血の気がひいていく。


(一体何が!?)


 状況を把握しようと努めるケラント。

 だがそんな彼の思考を邪魔するかのように、もう一つの声が響き渡った。


「あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ」


 ゼンゲルの不気味な笑いである。

 その声はタンドラの叫びと入り混じり、ケラントの脳裏に強くこびりついた。

 やがて父の叫びは意味のわからない笑いへと切り替わり、ケラントの意識に強く揺さぶりをかけた。


(やめろやめろやめろやめろやめろやめろ──)


 ささやかな抵抗を試みるが、功をなさない。

 2人の笑いが、耳を超えて脳へと直接語りかけた。


「もうたくさんだ、やめてくれ……」


 今にも泣きそうな声でケラントは言う。


 だが現実は非情で、残酷だ。


 そして突然ピタリとその笑いが止められたかと思うと、ゼンゲルがタンドラの髪を掴み、グググと持ち上げた。

 明らかにされたタンドラの顔。

 それを見た瞬間──


 ケラントは、自分の中で何かが音を立てて崩れていくのを感じた。


 それはもう、タンドラではなかった。

 完全に皮膚が紫色に爛れ、あちらこちらから筋肉が顔を覗かせている。

 かつてタンドラだったものは「えへ、えへへ」と妙な笑いをこぼしつつ、虚な目で虚空を眺めていた。


 タンドラは喉から溢れる叫びを抑えようと、口元を抑えていた手の甲を噛みちぎった。

 襲いかかる強烈な痛みが、なんとかケラントの自我を繋ぎ止める。


 そうこうしているうちに、ゼンゲルが手に持っていた剣を振り上げた。

 

 次に何が起こるか。

 答えは見えている。


「──やめろ」


 手の甲を押さえつつ、ケラントはぽろりと言葉を漏らす。

 だがそれで止まるはずがない。

 剣は問答無用で振り下ろされ始める。


「やめろ、やめてくれ」


 今にも消え入りそうな声でそう呟いた途端。

 

 タンドラとパチリと目が合った。

 

 その瞬間。

 理性を失っていたかに見えたタンドラが一瞬、悲しそうな表情を浮かべた。

 ケラントは思わず息を呑む。


 そして声には出さず、彼は口だけを動かしてケラントに最後の言葉を伝えた。



『に』



『げ』



『ろ』



 そして父の首が飛ぶのと同時に。

 ケラントは暗闇に向けて無我夢中で駆け出した。




**




「はっ、はっ、はぁ」


 暗闇の中、ケラントは全速力で駆け抜ける。

 辛い現実から逃れようと彼は足掻く。


 だが現実は変わらない。

 父は、目の前で殺された。

 母も、知らないところで殺された。


「考えるな考えるな考えるな!!」


 首を振って何もかもを追い出し、彼はがむしゃらに走る。

 今は失ったものを数えている場合ではない。

 父の最後の頼みに従い、ひたすら逃げるのだ。


 学問都市、メテラルシアに。


 地下道は想像よりも短く、15分ほど走るとすぐに壁に当たった。

 入口と同じ要領で天井を押し上げると、なんの抵抗もなくパカっと持ち上がった。


 蓋を投げ捨ててヒョイっと地上に出ると、確かに大通りのすぐ脇に出ていた。

 すぐに南を目指して走り出す。


 だがそこに広がっていたのは──地獄と言える、いやそれ以上に悲惨な光景だった。


 地面一帯に血の海が広がり、そのところどころに死体が浮いている。

 死体の様子もまたひどいものだ。


 手足を斬られた者。首を斬られた者。脳天を貫かれた者。なぜか黒焦げになっている者──

 目を覆いたくなるような死体がそこら中に転がっていた。


「うわあぁああぁぁあああぁあぁああ!!」


 叫びながら彼は血の海を駆け抜ける。

 ピシャリピシャリと走るたびに音が立ち、それが吐き気を誘う。


「見るな! 見るなあああああ! ああぁああ!!」


 訳の分からないことを叫びながら彼は走る。


 燃え盛る家。

 そこから這い上がる半ば炭化した人。

 彼もしくは彼女は言う。


「たす……けて……」


 女が横たわっている。

 その脇にはまだ5歳にもならないだろう子供。

 子供は女の胸を掴みながら泣き叫ぶ。


「おかあああさあああん! おきてよぉぉぉねえええええ」


 だが彼女が返事をすることはない。

 だって首がないのだから。


「やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ」


 どこまで行っても地獄。

 どこまで行っても地獄。

 どこまで行っても地獄。


 彼は叫びを抑えるようにグッと歯を食いしばり、さらに加速する。

 どんどんと後ろへ流されていく地獄絵図。


 直視していたら、自分という存在が死ぬ。


 自分を守るため、あらゆる情報をシャットダウンし彼は走る。


 だが突然、彼はピタリと走るのを止めた。

 なるべく周りを見ないようにしながら、彼は目の前を睨みつける。

 彼の耳は聞き取っていた。


 馬を走らせる音を。


(誰か来る……?)


 嫌な予感がしたケラントは近くの路地裏にスッと身を潜めた。

 それからそう時間の経たないうちに馬に乗った数人の群れが通過して行った。

 だがその最後尾に──もう1人、人がいた。


「いやだぁぁぁぁぁぁぁ! 助けてくだささささぃいたいいよおおおおおお」


 馬に縄をくくりつけられ、真っ裸の男が地面を引きずられていく。

 彼は生き延びようと必死に助けを懇願するが、それも無駄だろう。

 全身の皮や筋肉は剥がれ落ち、時々骨がその姿を覗かせ、片腕は既に取れており──要するに、助かるわけがない。


 助かるわけがない。それなのに生きようとする。

 生物としての生き延びようとする必死さが、ケラントの正気を揺さぶった。


 その後、一団が遠ざかるまでケラントは口を抑えてなんとか立っていたが、音が聞こえなくなった瞬間膝から崩れ落ちて、


「ぼぇええぇぇぇえぇえ」


 と、堪えきれずに胃の中身を全て吐き出した。


「……なんでだよ」


 悪臭を放つ胃液。

 その中にぽたりぱたりと雫が垂れる。


「なんでこんな目に遭わなくちゃならないんだよ……」


 彼らは何もしていない。

 ただ普通の生活をしていただけなのに。


 なぜこんな理不尽な目に遭わなければならない?


「くそっ、くそっ、くそっ……」


 彼は地面を豆腐を扱うように殴る。

 そしてそのままうずくまり、肩を震わせて泣いた。


 惨めだった。

 情けなかった。


 死んでしまったらどれほど楽だろう、という気持ちも一瞬よぎる。

 だが。


(ん?)


 どこからか人の声を聞き取り、彼は顔を上げた。


(生きている人がいるのか?)


 声の大きさを聞くにそう遠くはないところにいる。

 それに釣られるように彼はフラフラと立ち上がり、

その声のする方へ駆け出した。


 右は曲がり、左へ曲がり、やがて声の発生源と思われる開け放たれた窓を見つけた。


「大丈夫です──」


 一階であることを幸いに顔を出して声をかけようとする。

 だがそこで彼が見たのは、後ろから屈強な男に抱きつかれ胸を揉まれる女の姿だった。


「いやっ! いやぁぁあぁあぁぁあぁぁ!」


 女は叫びを上げて抵抗する。

 だが男は意にも介さず、構わず胸を弄りつづける。


 だがケラントの声に男はピクリと眉を動かし、窓の方へと顔をやった。

 そして声が出ずにわなわなと震えるケラントを見つけて、ペッと唾を吐き出した。


「亜人如きが何見てんだぁ!? こっちは見せ物じゃなんだぞ、あぁん?」


 そして女を地面に突き飛ばすと、腰の鞘から剣を抜き取った。

 突き飛ばされた女は地面に平伏すと、すぐにケラントの方へ向けて手を伸ばしつつ、そっと言った。


「助けて……下さい……」


 その声にケラントは動こうとする。

 だが動かない。身体が言うことを聞かない。

 わなわなと口が動き、冷や汗が溢れる。

 

「お願い……しま」


 女が再びケラントに語りかけようとする。

 だがその言葉が最後まで続くことはなかった。


 言い終わる前に、男がその脳天に剣を突き刺したからだ。

 四方に深紅の血が飛び散り、その一部分がケラントの頬を染める。

 貫通した穴から黄土色の液体が溢れる。


 女はしばらくケラントの方を恨めしげに睨んだ後、白目を剥いてぐたりと力尽きた。


 ……どこからか声がする。

 耳の裂けるような叫び声だ。


(うるさいなぁ。今の女か?)


 ケラントは考える。

 だがふと我に帰ったとき──


 彼はその叫び声が、自分から発せられていることに気づいた。


「わあぁあぁああぁぁああぁあ!!!!」


 そして窓を越えてケラントに掴みかかろうとした男の頭を拳で叩きつけると、彼はその場から逃げ出すように走り始めた。


 その後、彼がどのような道を走ったのかは分からない。


 ただふと気づいたとき、彼は街から遠く離れた、街全体を見渡せる丘の上に呆然と立っていたのだった。

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