第3話
結論から言うと、俺の行動は失敗だった。
演奏を終えたまでは良かった。一息ついて勅使河原へと目を向けたのだが、彼女はあの黒曜石のような瞳を大きく見開きこちらを見ていた。
それだけだった。
少しだけ開かれた口からは声が聞こえてくることもなく、手元も膝に置かれたまま。身動ぎひとつしていないのか、演奏前と姿勢も変わらずそのままだ。
要するに、なにも反応がなかったのだ。
別に拍手されるを期待していたわけでも、褒められたいわけでもなかったが、演奏後に観客からのリアクションがないというのは初めての体験だ。
一分二分と経っても、彼女はなにも言ってこない。
気まずい―少なくとも俺にとっては―空気が流れ始める。
(…選曲が勅使河原の好みではなかったのだろうか)
まず思い浮かんだのがこれだった。
冷静に考えてみれば、こういう時はまず聞きたい曲があるかを聞くべきだったのではないだろうか。
そうだ、演奏会では前もって観客にプログラムが渡されるから、それで聞きたい曲を判別できる。だが俺は勝手に、なにも言わずに弾き始めた。
そのことに彼女は引いているのかもしれない。なにを気取っているのかと思われてもおかしくないだろう。
迂闊だった。空気を読めていなかったということか。だが、空気とはなんだろう。そもそもこの部屋の主は俺だ。ここにいる限り、なにをしたって俺の勝手ではないのか?だがしかし、部屋に招き入れたのは俺だから、彼女をもてなす義務もあるわけで、失敗したなら結局俺が悪いんじゃ…
頭の中がグルグルする。思考は加速しているのに終着点が見えない、実に奇妙な感覚だった。
混乱―そうだ、俺はきっとこの時、混乱していたのだろう。言葉にして表すと、しっくりくる。
では、何故混乱しているのだろうか。
…わからない。答えが見えない。まるで袋小路に迷い込んでしまったかのよう。
これは実に俺らしくないことだった。
無駄なことを嫌う父の性質を受け継ぎ、自身もまた無駄を省く行動を取ることを常としてきたはずだった。
なのに、今の俺は明らかに無駄な行動を取り、その結果で思考にエラーが生まれている。
まったくもって不可解だ。
俺はいったい、なにをしているのだろうか。
苛立ちにも似た感覚を覚えていると、不意に振動音が耳に届いた。
演奏を終えてから、俺は鍵盤には触れていない。そもそも、もっと機械的な鳴動だ。
俺の耳はその発信源をすぐさま捉えるが、具体的な反応をする前に音が止まる―勅使河原が、スマホを手に取り、画面を見つめていた。
「…迎えが来たようです」
そしてそれだけ呟くと、彼女はスッと立ち上がる。
合わせるように、俺も椅子から身を起こす…助かったと、正直思った。
「玄関まで送るよ」
「それは…いえ、お願いできますか」
俺の提案に一瞬躊躇した勅使河原だったが、すぐに頷き返した。
気を遣うのは結構だが、時と場合によっては良くないこともある。
俺との仲を深めることを目的として送り出されたというのに、別れの際に見送りをされないというのは、上手くコミュニケーションを取れなかったという誤解を生みかねないからだ。
誰が迎えに来るかは分からないが、雇われの立場の人間なら、雇い主である彼女の父にそのことを報告するだろう。その結果が、さらに面倒な事態に繋がるであろうことは、想像に難くない。
勅使河原もそのことに思い当たったのだろう。
ドアを開けて前を進む俺の一歩後ろに付き従うように、ピッタリとくっついてくる。
(これも、彼女の家の教育の賜物か)
この感じでは礼儀に作法、言葉遣いに至るまで、徹底的に仕込んでくるのではないだろうか。
俺は別にそんなものは望んでいなかった。
出会った時から勅使河原の顔はずっと暗いままだ。
気を遣って送り出した自分の娘が、親にどれほど気を遣っているかなど、彼らはきっと考えもしないだろう。
勅使河原が家で過ごす日々は、きっとひどくつまらないものであるに違いない。
笑うことなど、あるのだろうか。
(笑う…?)
そこでふと、俺はなにかに気付きかけた。
探していた答えの端に触れたような、そんな気がしたのだ。
「あの、北大路、さん。玄関に着いたみたいですが」
だがそれも、背後から聞こえた声によってかき消される。
「…ああ、そうか。そうだな」
「はい…今日は、ありがとうございました」
「いや…」
気をつけて帰ってくれ。
俺は何もしていない。
気を悪くすることをしてすまなかった。
どれを選ぶべきか、少しだけ迷う。
別れの言葉としてはどれも相応しいようで、同時にそうではないような気がした。
「また、な」
結局口から出てきたのは、再会を願う、短い言葉。
なんでこれを選んだのかは、わからない。
もっと、かけるべき言葉があったはずなんだが。
「…はい。また」
囁くような呟きを残して、彼女は玄関の扉を開ける。
自分の意志で来るわけではない、彼女の「また」に含まれた意味を考えかけ―すぐにやめた。
「ピアノ、聴かせてください」
か細い声は、外のエンジン音に呑まれたが、それでも―確かに、俺の耳へ届いていた。
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