第2話

 その後、しばらくの間はいつも通りの日々が過ぎた。

 許嫁ができたからといって、過ごし方が変わるわけでもない。

 学校と習い事の往復。本当に、苦しくもなければ楽しくもない、代わり映えのない、いつも通りの毎日。

 そんな日常に変化が起こったのは、冬休みに差し掛かった頃だった。


 その日は珍しくレッスンが早めに切り上げられ、俺は自室で読書をしていた最中だった。

 コンコンと部屋のドアがされ、俺は本を読む手を一度止めた。


 そして訝しむ。

 俺の部屋に誰かが訪れるなんて、滅多にないことだからだ。

 兄弟は家にいても話しかけられることはない。食事も別々にとっている。

 嫌う相手と無理に顔を合わせても、彼らにとっては苦痛なだけであろうことは承知してるし、それが家族であるなら尚更だ。

 相互とも不干渉というのは気楽だし、それはそれで悪くなかった。


 さて、そんな話は置いといて、一体誰が来たのだろう。

 そう思うながら扉を開けると、そこにいたのは予想外の人物だった。

 俺の許嫁となった勅使河原。彼女が何故か、ドアの前に立っていたのだ。


「…父に言われて来ました」


 透明感のある、澄んだ声だった。

 そういえば、初めて彼女の声を聞いた気がすると思いながら話を聞くと、どうやら勅使河原は父親に俺と親交を深めるようにと言われ、わざわざ我が家まで出向いてきたらしい。


 今日の習い事が早く終わったのは、このためだったようだ。先日に引き続き、知らぬ間に段取りが済まされている状況だが、当事者である俺に話が通ってないのは、勅使河原と合えば伝わるのだからわざわざ連絡する必要がないと判断したのだろう。

 父が自分の子供の感情と都合を軽んじるところがあるのは、これまでの経験からよく分かっていたつもりだったが、いくら許嫁とはいえ、まだ他家の人間である彼女までこちらの都合に巻き込んでいることには、さすがに思うところがあった。


 確かに俺達は互いのことをまるで知らないが、大人の身勝手な都合によって無理矢理距離を縮めさせられるのは違うだろう。

 父への不満が初めて募るが、現実問題として目の前の勅使河原を放置するわけにもいかない。

 とりあえず部屋に入るよう促して、ソファーへと腰掛けさせた。


「時間までゆっくりしていてくれ」


「はい…あの、すみまん。聞きたいことがあるのですが」


「ん?」


「貴方には、好きな料理はなにかありますか」


 よくわからないことを聞かれた。

 どういう意図なのか量りかねていると、「最近料理を習い始めたので」と勅使河原は補足してくる。


「まだ下手なので、食べてもらえるような代物ではないですが、努力はしています。貴方が好きな料理があるなら、これから練習するつもりです」


「…それも親に言われたのか?」


 コクンと彼女は頷くが、俺は顔をしかめたくなった。

 習わせているなら大人が近くにいるのだろうが、まだ小学生の娘に包丁や火を扱わせるのは、事故や怪我に繋がる可能性がある。

 そもそも我が家と繋がりのあるくらいだから、それなり以上の家庭であるはずの勅使河原家が、我が子に小さいうちから料理の腕を仕込むこと自体が不自然だ。

 だというのに、そんなことをさせているのは俺―もっと言うならその後ろにいる父か―に向けての媚売り以外の何物でもない。


 要は将来の結婚に向けて、娘には今からこれだけのことをさせていますよという上っ面のアピールだ。

 完全に自分の子供を政略結婚の道具としてしか見ていないことは明らかで、彼女の家での扱いに、なんとなく想像がついてしまう。


「あの、なにかありませんか。父からも聞いてくるようにと言われてますので、その…」


 押し黙る俺を不安に思ったのか、勅使河原がおずおずと聞いてくる。

 好きにならなくていいとは言ったが、親からせっつかれているとあっては無視させるわけにもいかない。結婚すると告げたのは、ほかならぬ俺なのだ。


「そうだな…」


 とはいえ、少し困った。俺は別に好きな食べ物がない。

 嫌いなものもなく、出されたものが食べられるやつならばなんでもいいというタイプの人間である。

 しばし悩むも、ふと机の上に先ほどまで読んでいた小説が目に入る。


「…ハンバーグスパゲティー」


「え?」


「ハンバーグとスパゲティだ。俺はそれが好きなんだ」


 実際は小説の主人公の好みだったが、別にいいだろう。

 嫌いではないことは確かだし、スパゲティのほうはそこまで手間がかからない料理だったはず。彼女の負担も、多少は減るんじゃないだろうか。

 俺の返事を聞いた勅使河原は一瞬意外そうな表情を浮かべたが、コクリと頷くと、横に置いていたカバンからスマホを取り出した。どうやらメモを取るつもりらしい。存外、几帳面な性格なようだ。


「そのままスマホをいじっていていい。もしまた来るように言われたら、同じように適当に時間を潰して欲しい。俺も読書か勉強をするから、なにかあったら言ってくれ」


 それだけ告げると、俺は自分の机へと戻った。

 後は互いに不干渉を貫いて、時間がくればそれで終わりだ。

 そう思いながら、読書に集中することにした。

 誰からも干渉されない本の世界に浸るのが、俺の数少ない楽しみだった。





 数時間ほどかけて本を読み終え、満足したところで顔を上げた。

 時計を見ると、やはり結構な時間が経っている。そろそろ彼女も帰る頃合だろう。

 そんなことを考えながら振り向くのだが、勅使河原は何故かスマホを膝の上に置いて、ボーッとしていた。


「どうしたんだ。スマホを見てたんじゃなかったのか」


「いえ、人の家でそういうことをするのは、良くないと教わってきましたので」


 当たり前のように、彼女は言う。

 手持ち無沙汰になったというのに話しかけてこなかったのは、勅使河原なりの配慮なのだろう。

 どうやらよほどしっかり躾けられているようだ。

 いい意味でも、悪い意味でも。


「すまない。気が利かなかった。今度からは…」


 言いかけて、言葉が止まる。

 話し相手になる、というのは無理だ。向いてないし、できる気がしない。


「…部屋にある本を、好きに読んでくれ。もしくは自分で好きな本なり勉強道具なりを持ってきてもらえると助かる」


「分かりました」


 頷く彼女を見て、俺は密かに胸を撫で下ろす。

 助かったという安堵の気持ちが強かった。勅使河原がお喋り好きな性格だったら、俺ではどうにもならなかっただろう。


「…………」


 そんな中、彼女の目があるものに向けられていることにふと気付く。

 俺も釣られて視線を向けるとそこにあったのは、部屋の一角を占めるグランドピアノだった。


「ああ、部屋にピアノがあるのが珍しいか」


「はい…名家とは聞いていましたが、ここまでとは思っていませんでした」


 自分の家と比べているのか、勅使河原の声にはわずかな自嘲が混じっていた。

 様子を見るに、少し訂正しておいたほうがいいかもしれない。


「元々、ここは応接間だったから。使わなくなったから改装して俺の部屋になったんだが、ピアノ自体は元から置いてあっただけだ。本は家の図書室にあったものを俺が貰った。イチイチ移動するのが面倒だったからな」


 このことも兄弟から嫉妬を買う要因のひとつだったが、そこまでは言う必要はないだろう。

 そう考えてのことだったが、勅使河原から返ってきたのは「そうですか」の一言。

 あまり関心はないのだろうか。ただ、その視線は未だピアノに固定されており、じっと眺め続けている。


「…興味あるのか?」


 気付けば、俺は尋ねていた。

 後はこのまま帰せば終わりで、聞く必要なんてなかったのに。


「…いえ、昔習っていたので、そのことを少し思い出しただけです」


 そう呟く勅使河原の目には、諦めの色が浮かんでいるような気がした。

 これからの未来を憂いているのか、こうなるはずではなかった過去に思いを馳せているのか。それを聞くことはできなかった。俺にそんな資格はない。


「そうか」


 一言だけ返し、俺は足を踏み出した。

 ただ、ドアには向かわない。彼女の視線の先にあるものに向って進む。

 一分もしないうちにたどり着くと、俺は椅子へと腰掛け、鍵盤蓋を持ち上げた。


「あの…」


 離れたところから聞こえる彼女の問いかけを無視し、いくつかの鍵盤を弾いて、音の調子を確かめる。

 シ、ファ、ソ、レ…耳に伝わるそれらの音に狂いはなく、正確だった。

 家で弾くことなどないため、これまでこのピアノに触れる機会などなかったが、これなら問題はないだろう。


 一度だけ横目で彼女の姿を確認する。

 俺の突然の行動に、戸惑っているのか、なんともいえない表情を浮かべている。

 それでも、彼女の目は俺を捉えているのは間違いない。


 改めて鍵盤へと向き直る。これから弾く曲はモーツァルトのピアノソナタ、ハ長。

 譜面は必要ない。習ってきた曲は指と頭、そして耳が覚えている。

 その中でこれを選んだのは、以前ピアノを習っていたというなら、彼女も知っている可能性が高いと思ったから。深い意味は特にない。

 そもそも、何故こうしてピアノを弾こうとしているのか、自分でもよくわからなかった。

 まとわりついてくる妙な感覚を振り切るように、俺は演奏を開始する。

 少なくとも演奏に集中し、弾き終わるまでは、彼女の顔を見ずに済む。


 俺が勅使河原の前でピアノを弾こうと思った理由は、きっとそれだけだった。

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