北緒りお

 「赤ちゃんができたみたいでさ、しばらくはお休みするね」

 グループに流れてきたアイコンは確か見たことがある顔だった。使っている写真はフェスに行ったときに撮ったものらしく、キレイ系の顔立ちとイベント向けに気合を入れたメイクで、アイコン一つでもかっこよさが際立っていた。お祝い感があるようなステッカーを探し、すぐに返信をする。同じような反応を皆がしていて通知はひっりなしにでる。

 強いつながりがあるというわけでもなく、いつも遊んでいる場所でよく顔を見る同士でグループ作ったらおもしろいんじゃないかと始まり、何年か続いてきた仲間だ。そこ以外の連絡先を知っているわけでもなし、本名すら知らない間柄だが、週末の夜になると何となくクラブで顔をあわせる。それだけのつきあいで近づくこともなければ離れることもなかった。

 青山の片隅にあるクラブでやってるレギュラーパーティーで知り合った面々なのもあり、音楽の指向が近い。約束した訳でもないのに、バーエリアでばったりと顔を合わし、そのまま無駄話をして朝まで一緒にいるということもあった。けれども、それはその場の流れで、そうしようという暗黙の了解すらなかった。

 デザインオフィスなのかデザイン素材作成作業員詰め所なのかわからないような事務所でPCに向かい、煩雑な確認事項や出てきた案件をモグラたたきのようにつぶしていく。少しの隙間を見つけてコンビニへと表に抜け出し、読むともなく見ていたチャットの流れの中に漂っていた言葉だった。

 冷たい雨が雪に変わるかもという予報で、雪を楽しみに出勤したのに、東京中に霧吹きをかけているような雨が続くだけで、強くも弱くもならず、雪の期待を裏切り続けていた。夕方4時過ぎのコンビニはてきぱき働く店員と、この世から闇を絶滅させたいかのような煌々とした蛍光灯の明かりが無気力な客を迎えてくれる。それにも関わらず、どこかけだるい雰囲気がしていて、やる気がない仕事の合間だとそのままどこかに行ってしまいたくなる。なんとなくパリポリやるのにちょうどいいナッツとコーヒーを買い、まだ残ってる仕事が消えてなくならないかと考えながら、イートインでスマホを眺めながらコーヒーをすすっていた。

 イベントが始まるのはだいたい23時で、そこに向けて少し食べて、それで呑んで、ちょうどいい状態で箱に入りたい。普段の仕事じゃ見せないような時間の逆算なんかをしながら、あと3時間ぐらいで仕事の山をやっつけると、そのまま週末に突入だ、なんてことを考えていた。

 平日をやり過ごして休みに突入する、そして、夜の興奮が抜けきらなかったら、そのまま昼までやっている箱に流れ込み、体力がすべて出尽くすまで遊ぶ。酒を飲んでゆらゆら揺れているだが、それでも12時間以上踊り通しているのだから、自分でもどうにかしていると重う反面、ここまで体を動かせばかえって健全なんではないかなどと勘違いしてしまう。

 今夜行くイベントはどれにしようかだいたいは決めてある。決めた言うほど大げさな話でもないが、気分がアガる流れにして仕事モードを早く落としたい。フロアにたどり着くまでに、仕事や生活なんてことをすべて横に置いて、頭をスッカラカンにする。

 食べて、呑んで、呑んで、呑んで。

 朝まで持つ程度に食べ、ほどよくアルコールで温まり、頭ン中も空っぽになった所で、クラブに到着する。それが理想であり、ほぼ毎週のようにやっていることだった。

 ほぼ計画通りに職場から抜け出すと、まるでスタンプラリーでもしているかのように段取り良く空腹を落ち着かせ酒も流し込み、駅からクラブへと続く陸橋を渡っていく。

 エントランスで免許証を出し、ロッカーエリアで上着と荷物を押し込むと、いよいよフロアに向かう。

 階段を下りていくとたどり着く、薄暗く薄汚いエントランスロビーはそんなに広くはなく、学校の教室ぐらいの広さだろうか。壁際にはロッカーが並び、その扉にはイベントやDJ機材のロゴなんかのステッカーがあちこちに貼ってある。そんなに広くはないロッカーに無駄にかさばる冬の上着を押し込んで、とにかく身軽にする。財布すら持たず、スマホに免許と何枚かのお札だけをポケットに押し込む。

 フロアに入る扉を開ける。

 その瞬間、音楽は耳で感じるものから、全身で受け止める刺激になる。

 体中に低音が浴びせられ、リズムマシンが刻む心地よく低い振動の連打が内蔵をも揺らす。体はフロアを支配する統制されたカオスの波に揺さぶられ、足は舞い、体は酩酊する。目をつぶり音楽の大波に揺さぶられ、その濁流に飲み込まれ、全身で浴び続けた後に目を開くと、レーザーとミラーボールが不規則に発する光のうねりに翻弄される。

 途切れなく続く四つ打ちに身をゆだね、ゆらゆらとなにも考えず、そして目と鼻の間に時折うかぶ享楽の清流を追いかけるように瞬間の羅列におぼれた。なにか呑みたくなればバーで調達し、フロアで踊りながら、汗と一緒に抜けていったアルコールを継ぎ足すかのように呑み、ただただ踊り続ける。

 深夜から夜明け前の時間まで、なにも考えないで踊り続けて、リズムと振動と音圧に体を揺さぶられる。

 気づけばDJのブースだけじゃなく、フロア全体が明るくなり、この数時間の祭は終わったと気づく。

 バックステージに引き上げるDJに拍手なんかをしながら、帰ろうかほかで遊ぼうかと漠然と考えていると、知っている顔がいた。名前は知らないが、暗黙の了解というかなんとなくの悪ふざけで顔を見るとハイタッチをするという関係だ。こういう場だから成り立っている関係だが、それはそれでおもしろく、深入りもしないし、お互いに知ろうともしないしという距離感も良かった。

 だが、おもむろに「見た? 赤ちゃんだってさ、めでたくね?」と切り出され、この人はこういう話し方するんだと初めて知ったのと、適当な関係が共通の話題で急に接近したことに少し驚いた。やたらとお祝いをしたがるパーティームードの中で、この話題はちょうどよかった。

 「いつ生まれんだろうね、めでたいよねー」と感情からの発言ではなく、その場にあわせた言葉で返事をした。

 その頭の片隅で、急に冷たい風が吹いたような気がした。

 真夜中の熱狂がおわり、それを引きずったまま寝るまでいようと考えていたにも関わらず、急に現実の空気に呑まれた。

 その女性だって、そんなに知っている訳でもなく、お互いについて知っている事柄といえば会社の同僚以上に少ない。こういう遊びの場で一緒に騒いでる時間を共有していて、華やかな時間を共有している量は圧倒的に多い。けれども、本名すら知らない。

 赤ちゃんが産まれるというのは、遊んでいる時間の奥底に流れている、無責任で怠惰でその場だけの楽しみで許される期間が終わり、時計の針と一緒に責任が毎日の中に根を下ろしていくということだ。

 そこに気付かずにいたわけではなく、ただ目をそらしてみないようにしていた。体は疲れ果て、けれども頭は冴え、とはいえ思考能力は下がり心の根っこがでているような、心が無防備になっている今、違う話題で視界の中心を置き換えることはできなかった。

 彼女のがいる世界と自分が突っ立っているところとが大きく隔たっているような、おなじ所にいたはずなのにまったく違う地平線に行ってしまい、なにかで比べて競っているわけでもないのに、なぜか取り残されたような気持ちになり、くらりと貧血を起こしたような暗い感情が腹の底に沸いてきた。妬んでいるのでもない。ひがんでいるわけでもなく、特別な想いがある女性というわけでもない。ただ、ふらふらと今日と明日と、ついでぐらいにあさってぐらいにしか考えてない自分との間にある大きな違い気づかされてしまった。

 真冬の朝5時は、まだ夜の続きだが、街は完全に寝静まり静寂と寒風のなか、まだ営業している店から漏れてくる明かりから、ほかの夜遊びの余韻がちらほらと見えていた。傘をさすまでもない雨が顔にあたり、あまりにも小さい雨粒はそのまま消えていく。

 この街で遊んでいる人間はまだ陶酔の中にいる。けれども、フロアでするともなく交わした二言三言の会話が陶酔の熱を奪い、なにやら重くよどんだ感情が腹の奥底に横たわっている。いつもだと早朝の不便さすら一夜の空騒ぎの余韻で面白がっていたのに、すべてが白々しく、街頭の明かりが照らす通りに時折通り過ぎる車の音が一台増えていくごとに、気持ちの泥沼に少しづつ沈んでいくような気がした。自分が小さくなっていくように思い、肌に当たる雨のようにそのまま消えていくんじゃないかと感じた。

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北緒りお @kitaorio

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