第527話 真なる自由のその先へ
推測だがほんの数秒の空白があった。
景色が一瞬で様変わりし、はるか上空に飛ばされたのだとヤルダバオートは現状を把握した。
だが、その上昇速度はすさまじく、脱出を図ろうにも、再統合の終わらぬ状態では思うようにいかなかった。
さらには身体に纏わりつく気流の鎖が一緒に飛ばされてきた足元の岩盤から逃れることを許さない。
数秒の空白は武神
足下の岩盤の硬度からすると鉄か、それ以上の鉱物。
……ロランめ。
塔のように隆起した大地を砲台と化し、噴火活動のような力を利用して、余を惑星外に追放しようというのか……。
思考を巡らす間に、カドゥ・クワーズが凄まじい勢いで遠ざかっていく。
「ぐぶっ!な……、なんだ? 呼吸が……」
そのように発声したつもりが、上手くできなかった。
そして、その異変について理由を考える暇も無く、体中の水分が沸騰し始めた。
肺と血管が膨張した体内のガスによって破裂し、体の形を保つことができない。
激痛が悲鳴を上げる肉体のメッセージとして、ヤルダバオートに直接伝わって来る。
ようやく再統合により掌握しつつあった状況がかえって
現在のヤルダバオートは、微細に分けた神霊魂同士を脳内のシナプスのように≪神力≫で繋ぎ、その網目のようになった状態で、無数の魂魄や思念を包括するようにして存在している。
肉体も神霊魂の在り方に呼応して、神としての肉体ではない部分の方が大きい。
生命体の活性エネルギーや取り込んだ者たちの純粋な欲望の力を利用することで、老いた己の神霊魂を若返らせ、復活したことがこの宇宙空間においては不利に働いたのだ。
あのロランがここまで計算していたとは考えにくいが、この肉体は惑星外の活動には適していなかったのだ。
神ではない繋ぎの部分が死滅していく。
人族も、魔族もこの過酷な環境では生きられない。
水分を失った皮膚や臓器が爛れていく。
何故……。若く、美しかった余がこのような目に遭わねばならぬのだ。
ヤルダバオートは酸欠により脳が停止してしまう前に、肉体と取り込んでいた魂魄や思念の全てを切り捨てることを決めた。
元の老いた神に戻ってしまうが、この場で生物として死んでしまうよりはよほどましだ。
散り散りになっていた分かたれたる神霊魂を再統合のために伸ばした線状の部分を引き寄せ合い、密集させようとした。
だが、それをさせじとする者たちがいた。
「……ヤルダバオートさま……、ロランたちを殺してくれるって約束しましたよね」
「……もっと少年たちを犯したい……あの尻穴を……」
「もっと、この凄まじい力を持つ肉体で暴れさせてくれ、神よ。もっと人を殴らせろ!」
「自分だけ助かろうなんて許せない」
「ヤルダバオート様、素数……素数を数えるのです。そして私を見捨てたロランに死を……」
「ガリウス様……、ガリウス様。どこですか? ここは暗い。そして寂しいよ……」
「婚活……。一回ぐらい結婚したかったな。百一回以上、プロポーズしたのに……。ポーリン」
「沼の中から出れたと思ったのに、今度はなんだ?苦しい……」
「……マリーのもとへ、帰りたい」
「エマニュエル様、どこですか? くそう、あのロランさえ邪魔しなければ……」
ヤルダバオートの呼び掛けに応じ集まってきた魂魄、そしてこれまで取り込んできた様々な存在たちがその支配を解かれそうになり、自我を取り戻し始めた。
そしてヤルダバオートの網目のように展開している神霊魂にしがみつき始めた。
「くそっ、離せ。役立たずどもが。神にはないその混沌たる性質がさらなる
亡者のように縋りついてくる魂魄や思念を振り払おうとしている間に、次なる変化が起きた。
また風景が大きく変わったのだ。
さきほどの武神
肉体との切り離しはなんとか成功したが、老眼でかつてほどは見えぬとしても、超感覚でカドゥ・クワーズから大きく遠ざかってしまったことはわかる。
「ロラン……。あいつか。奉先が言っていた時を止める能力……」
どれほどの時間がかかるかわからないが、どこかの惑星で再起を図り、宇宙神に≪現世貢献点≫を支払うことができれば、カドゥ・クワーズに帰還することは可能だ。
だが、その前にこの推進力を何とかしなくては……。
そう考えたその瞬間、背後がやけに眩しくて、魂魄どもを振り払うことも忘れて振り返ってしまった。
それは大いなる光であった。
ロランがカドゥ・クワーズから放った≪
「お、おのれ……。ロォーラァーン!!!!」
≪
≪神力≫の糸で繋がり合っていたヤルダバオートの微細な神霊魂は為す術も無くそれを断たれ、虚無の海に散っていくこととなった。
大部分は消滅し、その残り僅かの部分も老いた元のヤルダバオートに戻っていてもはや風前の灯火のような状態であった。
ロランに一度殺された際にすでに寿命が付きかけていたのだが、若さを取り戻す秘術のためのエネルギータンクとも呼べる≪
地球文化の保管庫であり、魂魄の収蔵庫であった地球の
万策尽きた。
ヤルダバオートの数少ない断片の生き残りは、宇宙を漂いながらそう思った。
「無念だ……。だが……」
己が持つ全てを出し尽くし、真なる自由の国を目指して邁進してきたからであろうか。
不思議と気分は晴れ晴れとしていた。
そもそも自分は抑圧されたことによる鬱屈やストレスを力に変え、他者に放つしか能がない下級神であった。
神としては三流。いや、それ以下であった。
それが研鑽と研究を重ね、闇の世界の天才神と称賛されていたグナーシス神を屠り、その息子まで打倒して、傑作と言われたカドゥ・クワーズの世界をあと一歩で手中に納めるというところまで迫ったのだ。
無念だが、意外とこの無念という気持ちは嫌いではなかった。
そして敗北を受け入れた今となっては、この無念こそが「生の証」であると理解した。
そう、儂は紛れもなく生きていたのだ。
そして死んでいく。
分霊魂の秘術によりかろうじて残った断片である儂も、神霊魂の寿命が尽きるのと同時に消えて無くなる。
あとどのくらいの寿命が残っているかわからぬが、考えることはやめないでいよう。
自分という存在に昏い帳が落ち、何も考えられなくなるその瞬間まで。
あ…消える…消えるな…。
そうか…これが死か。消滅なのか。
いや違う。
この……全てから解き放たれ、全銀河に散っていくこの感覚……。
そうか、儂はここに来て、真の自由の意味を知ったのだな。
散れ、散ってゆけ!
そして真なる自由を得るのだ。
飛散しろ、ヤルダバオートよ。
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