第29話

 時刻は二十三時三十分、新年を三十分後に控えた夜半。


 駅から少し離れた場所にある静かな公園に辿り着く。逸る気持ちを抑えずに全霊で駆け、真っ白な荒い呼吸と共に公園内を見回す。あの後、改めて彼女と約束した待ち合わせの場所は、二つの霞ヶ関の中間付近にある駅、その近くの公園であった。


 既に彼女からは到着の連絡を受けている。今度こそ、彼女はここに居るはずだ。


 寒さに汗こそかかないものの、酷く荒い呼吸で紗季は視線を巡らせる。


 そして、街灯の下、ベンチの上に宵闇に輝く星のような、美しい金髪を夜風に靡かせる少女が居た。彼女の姿を見た途端、紗季は呼吸をすることさえ忘れて魅入り、胸に熱を覚える。今までも何度かは顔を合わせることはあったが、こうして改めて、和解の為に向き合う彼女の姿は、紗季の心に火を灯す。思わず呆然と立ち尽くしていると、彼女は紗季の存在に気付く。少しだけ荒い呼吸を整えながら立ち上がり、嬉しそうな顔をする。


 そんな若菜の姿を認めた紗季は、息を整えながら彼女に駆け寄った。


 色々と言いたい言葉は互いにあっただろう。けれども、真っ先に飛び出たのは。


「お疲れさま」

「す、すみませんでした!」


 先ずは労いと謝罪だった。紗季は深く頭を下げる。本来であれば数時間前に話し合いの場を設けることができていたものを、紗季のミスによってこんな時間になってしまった。それを詫びる紗季だったが、若菜は穏やかに首を横に振る。


「私だって知らなかったから、謝らないでよ」


 そう言う彼女に、紗季は困ったような表情を浮かべる。しかし、若菜は一切気にしていないと言いたげな表情で笑い、それにしても疲れたと言いたげな表情で紗季を見た。紗季はしばらく申し訳なさそうにしていたものの、若菜のそんな顔を見て、微かに頬を緩めた。お互いに顔を見合わせて、少しだけ声を上げて笑った。


「それにしても紛らわしいよねえ、同じ漢字の同じ名前だし」

「ですね。せめてもう少し離れていてくれれば、分かりやすいのですが」


 だというのにその二つは東京と埼玉という至近距離なのだから、勘弁してほしいものだ。紗季がそう言うと、若菜は同意をするように笑った。しばらく笑った彼女は、立ったまま一度、何かを考え込むように夜空を仰ぐ。年末、ほんの少し先に新年を控えたこの国から仰ぎ見る星々に感嘆の吐息をこぼして、紗季に穏やかな笑みを見せた。


「会えてよかった」


 そっと紡がれた彼女の言葉は社交辞令などでは決してなく、それは、彼女の心の底から湧き出た本音であった。そして、その本音は紗季の胸の奥にも確かに宿っている。紗季はその言葉を噛み締めるように俯くと、顔を上げて彼女を見つめ返し、「はい」と震える声を絞り出した。


「私も……ずっと会いたかったです」


 紗季も嘘偽りの無い本音をそっと明かす。


 若菜もまた、それが社交辞令などではないことは理解している。嬉しそうに、けれどもほんの少しの緊張を表情に宿して「よかった」と呟いた。街灯に照らされたベンチの前、立ったまま見つめ合う二人の間を静かな夜風が撫でていった。


 何を話すべきか、何を話したいか、何を話そうか。互いが互いを追い求め、ここでその道が交わった。けれども、その願望ばかりが先行していた二人は、いざ対面したこの瞬間に、交わす言葉を忘れていた。会えるだけでよかった。それ以上は求めていなかった。


 しかし、紗季は伝えるべき言葉があるだろうと自分を戒め、久方ぶりの再会に浮かれる己の心を叱責する。緩んだ心に冷や水を掛け、呼吸を整えて覚悟を決めようとする若菜に、先んじて想いを伝えた。


「若菜さんに、伝えなければいけないことがあります」


 緊張と不安に震えて押し潰されてしまいそうな弱い声。それを聞いた若菜は紗季を案じるような表情を見せるが、紗季の不安に苛まれる表情の向こう側に固い意志を垣間見て、静かに耳を傾けることにした。


 紗季は胸を押さえながら呼吸を整える。――若菜だって穏やかな胸中では居られなかった筈だ。本来であれば乗り越えた筈の過去、その傷口を私利私欲のために抉った。


 自分が全てを隠して彼女との関係を推し進めることを恐れたばかりに、その臆病さが彼女を傷付けた。そのせいで、彼女はこの数日間、苦しんだ。たとえ今、こうして彼女が再び目の前に来てくれたことを喜ぶよりも前に、すべきことがあるだろう。


 紗季は彼女を真っ直ぐに見詰め、それから。深く、頭を下げた。


「――父のこと、それを隠していたこと。何より、若菜さんの気持ちを考えずに打ち明けたこと。全て、改めて謝罪をさせてください。誠に申し訳ございませんでした」


 できる限りの謝意と誠実さを言葉に乗せ、紗季は謝罪の言葉を絞り出した。


 冬の夜風に乗って公園に響く切実な言葉を、若菜は真剣な表情で受け止める。茶化すことも、受け流すこともできた。筑紫若菜という人間は今まで、こういった謝罪を『気にしていないよ』という言葉で誤魔化してきた。けれども彼女の言葉や過去が若菜を傷付けたことは事実で、それを彼女は理解している。そして、それに適当な返事を返すことは、きっと今まで以上に彼女を追い詰めることに繋がると理解して、若菜は頷いた。


「うん、確かに受け取った。謝られたから、許すよ」


 そっと、穏やかな笑みが浮かべられる。


 そんな、あまりにも簡潔な若菜の返答に紗季は困惑を見せるも、若菜は言葉を訂正しない。彼女は――島津紗季は自分を罪人だと認識している。そして、そうでないと周囲が否定をしたところで、その言葉は彼女には届かない。だからこそ、大事なのはその罪を認めてやり、その上で赦すこと。若菜はそう確信した。


 紗季はそれでも戸惑いながら食い下がろうと、その赦免に意義を唱えようとする。しかし、若菜はそれを遮るように語る。


「紗季ちゃんはたぶん、自分を許せないんだ。この際、『身内の罪はその人の罪なのか』っていう本質的な罪の有無は問わないよ、紗季ちゃんは譲らないだろうから」

「……はい」


 自分の悪い部分だとは理解していても、その一線だけは譲れなかった。紗季は申し訳なくなって詫びるも、若菜はそれを笑みと共に受け止める。


「問題なのはいつまでもその罪に追われていることなんだ。ずっと――どれだけ謝罪をしても、償いをしても紗季ちゃんは自分を許そうとしないし、それどころか追い詰める。それだけ重く捉えるのは大事なことだと思うけどさ、友達が苦しんでるのに放ってはおけないよ。だから、私が許すんだ」


 友達という言葉が紗季の心の奥底に沁みて、私が許すという簡単な言葉が、心を優しく包み込んだ。あの日、葵に抱き締められた時のような心の温度を知覚した紗季は、言葉を噛み締めるように胸を押さえる。若菜が、優しく笑った。



「君が自分を許せない分だけ、私が代わりに君を許すよ」



 事件から八年後、被害者遺族から加害者家族へ。笑いながら語られたその言葉はきっと、多くの者が共感できないものだろう。けれども、存在しない罪に苦悩する友の姿を見てきた一人の少女が下した結論として、それはあまりにも力強く美しかった。


 紗季は大きく目を見開いて、絶句した。


 許されてはいけない自分を彼女の瞳の奥に見て、何かを言い返そうとするも言葉は出ない。自分を許さないのは自分の勝手だが、人の判断に口出しはできないのだから。


 何より、その綺麗な言葉が大きく自分の心を揺さぶった。ほんの少しだけ胸の奥と目頭が熱くなって、紗季はそれを誤魔化すように顔を俯かせた。唇を噛んで感情の抑揚を抑え込み、服の裾を掴む。そんな紗季の感情の揺れを理解しながら、若菜は続ける。


「君の分まで君を許す――そうすることにしたんだ」


 この数日で導き出した若菜の結論が、それだった。


 しかし、家族を失う痛みを知り、家族を奪う罪を知る島津紗季にとって、遺族から伝えられるその言葉は受け入れがたいものだった。


 葵から受けた赦免は、彼女の価値観に基づく心のままに導き出された結論だった。けれども若菜は、紗季の罪に大きく傷付いた。そんな彼女が自分を無理に許そうとする様を許容はしたくない。他でもない筑紫若菜には、幸せになってほしいのだ。


「私は……! そんなことをしてもらえるような人間じゃ……」

「それは紗季ちゃんじゃなくて私が決めるよ。紗季ちゃんのことを傍で見てきて、凄く誠実で立派な人だと思った。ずっと罪に苦しんできたことも分かった。この数日離れて過ごして、耐えられないくらい寂しくて辛かった。私は紗季ちゃんとの関係を、ここで途絶えさせたくはないんだ。まだ、友達で居たい」


 『友達』という言葉が深く紗季の心に突き刺さり、心が揺れる。


 そんなこと、自分だって同じだ。彼女との関係を終わらせたくはないし、まだ友達で居たい。もっと関係を深めたい。この空白の数日に葵から貰った幸福が、どうしても足りないものだったのは、彼女がそこに居なかったからだ。しかし、どれだけ彼女を求めようとも、手を届かせる資格があるか否かは別の話だ。


 紗季は激情を宿した表情で顔を上げ、濡れた瞳で若菜に訴える。


「私だって……! 私だって、若菜さんとの関係を終わらせたくはないです。でも、私なんかの為に若菜さんが辛い思いをするのは、本意ではありません」


 紗季は己の胸を掻き毟りながら絞り出すように想いの丈を明かす。


「……自分の家族を奪った相手も、その家族も、許すのは容易なことじゃありません。あの日見た、若菜さんの傷付いた顔は嘘じゃない筈なんです。それなのに――!」


 あの日、彼女は確かに傷付いた表情を浮かべていた。それには見覚えがある。


 母親を病気で失った時。その訃報を耳にした者が浮かべたような、やるせない喪失感や、命を奪ったモノに対する行き場の無い感情の渦。彼女の浮かべていた表情はそれで、その時の感情を紗季は知っている。


 誰かの為に。そんな理由で覆い隠せるほど容易な感情ではない。


 叫ぶように若菜の赦免を否定しようとする紗季だったが、若菜は対照的に微かな笑みを浮かべて、緩やかに首を横に振った。


「違うよ」


 穏やかで優しい声だったが、その声は激情に濡れた紗季の声よりもずっと、夜に染み渡る。目尻に雨粒を浮かべる紗季は、優しい否定に口を噤んだ。


「ごめんね。一度逃げたから、紗季ちゃんに思い詰めさせちゃった。確かに紗季ちゃんの言う通り、傷付いたし、君の隠し事を受け止めきれなくて悩んだよ。でもね、自分の感情に嘘を吐いている訳じゃない。私の中には二つ、本音があったんだ」


 若菜は瞳を瞑り、静かな語り口で続ける。


「紗季ちゃんや紗季ちゃんのお父さんを許したら、私の父さんの想いはどこに行くのか分からなくて――どうすればいいのか分からなかった『筑紫明人の娘』。それと、ずっと思い詰めて悩んで、償いに生きてきた友人に手を差し伸べたい『島津紗季の親友』。どっちも私の本音で、どっちも、私にとって大切なものなんだ」


 静かに紡がれる若菜の言葉は、紗季を説得するためだけの出任せなどではない。それは紛いの無い本音であり、それを理解した紗季は何も言えずに黙って彼女の言葉に耳を傾ける。目尻の雨粒が肥大化して、一条の雫を頬に伝わせた。


「もう逃げないよ。紗季ちゃんが頑張って自分の過去に向き合ってくれたように、私も逃げずに向き合う。安心してよ、私は紗季ちゃんの為に無理をしている訳じゃないんだ。私は――」


 そっと瞳を開く若菜。その語り口は依然として穏やかなままだったが、開かれた瞳が微かに潤んでいることに気付く。それでも彼女は笑みを浮かべた。


「私が幸せになりたいから、君に幸せになってほしいんだ」


 その声は何かの感情に震えていて、それを見た紗季の瞳から、玉粒の涙が頬を伝って落ちていく。自分の為に泣いてくれる人が、まるで自分の苦悩を理解してくれているようで。紗季はコートの袖で懸命に目尻の涙を拭って、歯を食い縛って涙をこらえる。


 何かを言いたかったけれども、何も言葉が出なかった。


 涙を堪えるせいで言葉を紡げないのか、彼女の言葉に建前を否定されて、本音を明かす勇気が無いだけなのか。自分でも分からなくなりながら、ただ子供のように涙を流しては、それを隠すように拭う。


「いい加減、自分の人生を歩いていいんじゃないかな」


 若菜が続けた言葉に、紗季は唇を噛みながら顔を上げる。


 それでも――誰かの人生を奪っておいて、自分の人生を歩める道理も無かった。否定の言葉を口にしようとする紗季だったが、若菜の優しい声が先んじる。


「いいじゃん、『先生』。良い夢だと思う――立派で、綺麗な夢だよ」


 言葉の意味を理解し損ねて、紗季は言葉を失う。けれども、彼女が何を言っているのか、次第に理解が追い付いてきた紗季は、目を見開く。


 脳裏を過ったのは小学生の頃の記憶。六年生の最後、卒業アルバムに書いた将来の夢。それは己の展望を豪語するものではなく、夢の足跡を残すためのもので、捨てたはずの夢。捨てたはずの、贖罪の重荷だった。教師だった母を失って、父が人を殺して。己の人生を捨てようと決めた時に書き残した本音。


 五年前の自分から、手離したはずの卒業アルバムを伝って届いた思い出。その中に詰まった、家族との楽しく幸せだった歳月を思い出す。目を背けたはずの己の幸福を目の当たりにして、紗季は視界が酷くぼやけるのを知覚する。感情が頬を濡らすのを知覚した。


 確かに見据えていた大切な友人の姿が、見えなくなった。


 嗚咽がこぼれる。紗季は袖で涙を拭うが、涙は際限なく溢れ続ける。


 幸せなんて、とうの昔に捨てたはずだった。


「本当、は……」


 嗚咽混じりの声を懸命に紡ぐ紗季。涙に濡れた声を、若菜は聞き逃すまいと真っ直ぐに紗季を見詰めて耳を傾ける。自分の声が判然としない自覚があった紗季は「ほんとうは」と掠れさせながら繰り返して、ボロボロと涙を溢れさせる瞳で若菜を見た。


「幸せになるのが……怖いんです」


 一人の男性が辿る筈だった幸福な人生を奪った。その人が居るという幸福を多くの人々から奪った。病気で他界して幸福を手離した母親と、その末に誰かを殺めた父親が居る。


 その中心に立つ島津紗季が己の幸福を追求することが、怖くて仕方が無かった。


 懸命に絞り出した紗季の本音を、若菜は「そっか」と優しく笑って受け止めた。


「確かに、誰かの幸福を奪ったのに自分が幸せになる――っていうのは難しいのかもしれないね。不安になるのも分かるし、怖くなるのも分かる」


 どこか寂しそうな表情で若菜は真夜中の公園を見回し、街灯の明かりに伸びる影を眺める。それから顔を上げて星空を一瞥した若菜は、紗季に視線を戻して続けた。


「でも、幸せになってほしいと願う人が居ることは、忘れないでほしい」


 真っ直ぐに見詰める力強く優しい瞳に、紗季は言葉と呼吸を忘れた。


 涙に濡れた瞳を見開き、その言葉の向こう側に筑紫葵を重ねた。


 最愛の夫を奪った男の子供を、抱き締めて励ます彼女に救われた。卑怯だと罵るばかりの自分の生き様を、誠実だと評して敬意を示してくれた紅葉が居た。ずっと――誰よりもずっと、長い間、傍で支えてくれた恩師が居た。


 今、目の前で、それに気付かせてくれた親友が居た。


 泣きじゃくって立ち止まるばかりだった幼い自分の手を引いてくれる人達が傍に居たことを思い出し、暗闇を恐れる自分の為に道を照らしてくれた人が居たことも思い出した。ずっと孤独だと思っていた自分の人生が、いつの間にか大勢の人達に支えられ、助けられてきたのだと、ようやく自覚できた自分が居た。


「この数日、ずっと……どうやったら元通りになれるか考えた」

「……はい」


 若菜は自分に呆れるように続ける。


「無理だった。どれだけ頑張っても、何も知らなかった頃には戻れなかったし、全て無かったことにして元通りなんて無理だったよ。元々の関係には戻れないって結論に至った」


 紗季は「はい」と絞り出すように頷いて、傷付きそうになる自分に『当然のことだ』と叱責の言葉を叩き付ける。しかし、そんな紗季の胸中とは裏腹に、若菜は穏やかに笑う。


「だから、ここからやり直そう。全てを知った上で、ここから」


 驚きと共に顔を上げる紗季。彼女の言葉に思考が、理解が及ばない。


 確かに全てを知った今、知らなかった頃には戻れないだろう。けれども、全てを知った上で、また新しい関係を構築しようと、彼女はそう言ったのだ。紗季の瞳を真っ直ぐに見詰めて、若菜は笑う。その笑みは自分の見知った大切なもので、何もかもが変わってしまったものの中、変わらない確かな絆としてここに残っていた。


「――私達、うまくやれると思うんだ」


 クリスマス。スカイツリーの天望デッキで告げられた言葉の焼き直し。ただの親友だったあの時とは決定的に違う関係で、それでも彼女の想いはより強固になっていた。


 父親が彼女達の父親を殺害して、その償いに奔走する日々だった。彼女達が乗り越えた過去を掘り下げるべきではないと隠した癖に、隠したまま発展する関係性が怖くて打ち明けた。身勝手に彼女を傷付けたのに、それでも彼女はやり直そうと言ってくれた。


 紗季は揺れる瞳で若菜を見詰める。彼女の言葉に靡きそうになりながら、それでも本当に、自分にその資格があるのかと確かめる。


「私、は――」


 答えを出すことは簡単なことではなかった。


 島津紗季が八年間の歳月で積み重ねてきた贖罪の日々を忘れ、何も知らない被害者遺族と隠し事をする加害者家族から、全てを打ち明け合った親友になるのだ。容易な決断では無くて、紗季は葛藤を表情に俯く。


 けれども、その時、真っ先に誰かの言葉が脳裏を過る。


 『頑張るんだ』――そう紗季を激励してくれた恩師が居る。彼女はきっと、この先にある関係や光景を期待して紗季の背中を押した。これは彼女が繋いで、巡り合わせてくれた縁だ。そして、今、臆しそうになる紗季の背中を再び押してくれたのも、ずっと己を支え続けてきてくれた恩師の言葉であった。


 紗季は己の頬を濡らす不安を拭う。それでも、溢れ出た不安が再び頬を濡らし、紗季はとても情けなく弱々しい表情で若菜を見詰めた。嗚咽のような震える声が紡がれる。


「私ばかり……幸せになっていいのでしょうか」


 それは今までのように幸福を恐れるが故の言葉だったが、同時に、幸福を辿ろうとするが故の問いでもあった。それが前に進む者の言葉だと理解して、若菜はそっと紗季に歩み寄る。それから、その華奢な体躯を優しく抱き締めた。


 真冬の夜中、凍てつく世界に温もりを覚えた。


 愛おしく大切な香りが、感触が全身を優しく包み込む。熱望していた最愛の人に抱き締められながら、紗季は頬を濡らす孤独を忘れる。彼女の背に手を回せないまま、ただ彼女の抱擁に身を委ねた。


「分からない。でも、幸せになってほしいし、幸せにする」


 彼女の優しい言葉が紗季の耳を撫でる。暗く寒い部屋で、ただ孤独に日々を過ごしていた頃、求め続けた人の温もりを傍に感じる。追い求め、けれども遠ざけ続けてきた幸福を目の前に見て、紗季は再び熱いものが瞳からあふれ出すのを知覚する。


 若菜の服を汚してしまわないように唇を噛んで堪えるが、止まることを忘れたそれが彼女に熱を伝えた。


「だから、私を幸せにしてほしい。傍に居てほしいんだ」


 紗季の背中に回された手が力を帯び、それを感じ取った紗季は、嗚咽をこぼしながら彼女の背中を強く抱き締めて返す。震える、覚束なく怯えた所作で、けれども確かに彼女の存在を繋ぎ止めるように。自分の存在を幸福だと称してくれた彼女に応えるように。


「私で……いいんですか」


 嗚咽混じりの不鮮明な言葉が彼女にそう尋ね、「紗季ちゃんがいい」と静かに紡ぎ返された本音を聞いて、溢れ出た感情のままに彼女を強く抱き締める。


「君の分まで君を許すよ。だから、私の重荷を一緒に背負ってほしい――君の足りない部分を補うから、私の足りないところを補ってほしい。傍で、支え合いたい。同じ人生を分け合って生きていきたい」


 彼女の言葉が次第に熱を帯び、何かの感情に濡れていく。


 止まることなく紡がれ続ける想いの糸を受け止め、紗季は己の心の奥底に宿っていた、眠っていた感情が肥大化していくのを感じる。筑紫若菜は凄く魅力的で、紗季にとって憧れの人だった。その生き様も、その性格も。何もかも、焦がれるくらい愛おしかった。


 それでも、その想いは隠さなければいけないと思っていた。


 しかし、今、隠す必要は無くなった。何で覆うことも隠すこともせず、ただ、感情のままに想いを伝えてもいいのだと、この抱擁が教えてくれた。紗季の背中に回された手に力が入り、彼女もまた、抱いた感情を純然な言葉で紡ぎあげた。



「一人の女性として、紗季ちゃんが好きです。私の傍に居てください」



 クリスマス、スカイツリーで。――『私の秘密を聞いた上で、まだ想いが冷めていなかったなら。もう一度、聞かせてください』と、紗季は彼女にそう語った。それを覚えてくれていたのか、そうでないかは分からない。確かめる必要もないだろう。


 今はただ、伝えられた想いに応えなければいけなかった。


 紗季は彼女を両手で抱き締め、涙を拭うこともできずに尋ねる。


「こんな私を、愛してくれますか」


 震える声が夜の公園に染み渡る。


 泣き虫で、卑怯者で、狡くて、情けない。そんな自分を愛してくれる人がこの世に存在するのだろうか。尋ねると、最初の返答は言葉よりも明確な抱擁だった。力強く手に力が入れられて、若菜が頷く。


「今までも、これからも」


 何も変わらない。紗季は一度、重圧に負けて彼女を傷付けたのに。それでも彼女の心は離れなかった。今までもこれからも、何も変わらずに。


「私を、幸せにしてくれますか」


 涙に濡れた声が彼女に問う。


 一度、この手から離れたもの。自分にそれを得る権利は無いと、恐れて目を逸らし続け、それでいて渇望し続けてきたもの。幸福という言葉は普遍的で曖昧で、概念的に語られることは多いけれども、今、それは二人の目の前に確かに存在した。


 若菜は紗季の不安を拭うように、優しい声色で約束した。


「世界で一番幸せにするから、私を二番目に幸せにして」


 冬の風が二人の周りを駆け抜けていく。けれども、心の熱は一向に冷める気配が無かった。紗季は腕の中の彼女を確かめ、その存在が偽物でないことを何度も確かめる。この世があまりにも自分に優しく、まるでこれが夢なのではないかと錯覚させた。


 しかし、冬の寒さも、それを忘れさせる心の熱も、彼女の感触も香りも、首を撫でる吐息も。その全てが偽物ではない確かなものだと確認した紗季は、こぼれる涙をそのままに感情を言葉に紡ぐ。


 この想いは、もう隠さなくてもいいのだ。



「――好きです。私を、貴女の傍に居させてください」



 紗季は強く彼女を抱き締め、想いの丈を打ち明ける。


 若菜は言葉よりも雄弁な返答として紗季を抱き締めて返す。


 ふと、静かに吹いた夜風。公園の時計が零時を示すとともに、遠くから風に乗って除夜の鐘の音が届く。百八の最後の一回が、まるで二人を祝福するように耳を撫でていった。


 償いに生きた日々だった。前を向いて生きていいと多くの者が手を差し伸べたが、それでも紗季は人の命を奪った家族の過去から目は背けられず、今後も、きっとその罪悪感は消えないだろう。


 しかし、今、その途方もなく目的地も見えない道のりを共に歩く友を得た。


 もう何も、隠し事なんて無い正真正銘の友人を、そして恋人を得た。


 島津紗季は加害者の家族で、筑紫若菜は被害者の遺族だ。しかし、想いを阻む筈だった二人の関係が、今はその繋がりをより強固にしている。


 ようやく掴んだ幸福を繋ぎ止めるように、手放さないために、二人は互いの身体を強く抱き締め続けた。

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