第28話
十二月三十一日。年越しを迎えた今日、夕刻。
クリスマスを終えて間もないというのに世間は迫る新年に胸を高鳴らせている。筑紫宅においてもそれは例外ではなく、例えば、さしもの筑紫紅葉も今日ばかりは意識的に受験勉強から離れ、リビングで何をすることもなく夕方の退屈な番組をぼんやりと眺めていた。
キッチンでは夕食や年越しそばの下準備をするべく、葵と紗季が立っていた。
まるで親子のように並んで準備を進めている。葵は紗季の調理の手際を眺めながら危険が無いように配慮をして、紗季はそんな葵から指導を受けながら世話になった筑紫宅の面々が喜んでくれるように、と手を動かす。紗季が雑煮用の里芋に手を伸ばすと、制止の声が掛かる。
「あ、里芋は軽く加熱してから切った方がいいわ。どうせ加熱調理だし」
「加熱、ですか?」
「痒みが出にくくなる――まあ、個人差があるけどね」
紗季はそんな雑学に目を輝かせ、今まで苦い顔をしながら悪戦苦闘をしていた過去を思い出しながら、彼女のアドバイスに従って鍋に里芋を入れた。サッと火を通す程度に留めておこうとキッチンタイマーをセットして、紗季は他の作業に取り掛かる。
それから、ふとリビングに掛けられた時計を一瞥する。
時刻は既に十七時を回ろうとしている。そして、ここ数日、まともに言葉を交わしていない彼女を想って表情を曇らせた。リビングに居ないのは勿論、今日に至ってはこの家にも居ない。折角の年越し、家族と過ごしたいだろう彼女を追い出してまで自分がここに居ることに、紗季は後ろめたさを覚えていた。
結局、あれから彼女と話し合う機会は無かった。
機会を設けなかったとも言えるが、どちらともにどうしていいか分からなかった。紅葉や葵はそんな二人の様子を認識しながらも、特に口を挟むことはせず、当事者での解決を望んでいる。しかし、紗季は再び彼女に同じ話をする勇気が出なかった。
一度、逃げた彼女を追いかけてまで追い詰める度胸は無かったのだ。
紗季は小松菜に伸ばした手を止め、顔を伏せて思考に耽る。
「どうかした?」
思考に海に溺れかけた紗季を引き上げたのは、葵の言葉だった。
気を遣い過ぎれば気が引ける性格だと知っているのだろう、作業の片手間、何げない調子を装いながら彼女は紗季にそう尋ねた。紗季は彼女の配慮に気付いて申し訳なくなりながら、母親の顔色を窺う子供のように、恐る恐る切り出した。
「あの……私、この調理が終わったら帰ります」
葵が作業の手を止め、紅葉も焦点を合わせずにテレビを眺めていた瞳を、静かに紗季へと投げた。表向きは事情を知らないことにしている紅葉は、紗季と若菜の現状を『喧嘩』と認識している素振りを取らなければいけない。だから迂闊に首を突っ込むことはできないが、葵の手伝いをして懸命に準備を進めた紗季が、独りで新年を迎えようとしているのは道理に反するだろうと、何かを言いたげだった。
それは葵も同様で、けれども両者ともに紗季がその選択に至った理由は知っているから、否定をすることはできない。
「若菜のことを気にしてるの?」
「……はい。私が居ると、若菜さんも帰り辛いんじゃないかなって」
暗い顔で絞り出した紗季の言葉を否定するのは難しくて、葵は微かに苦い顔を見せる。あれから若菜と紗季はまともに会話をしていないが、葵は時折、彼女のメンタルケアを試みている。ところが、ある日を境に何かを吹っ切ったようで心配は要らないだろうと判断していた。
時間が解決するだろうとそこから楽観視をし続けて迎えた今日、自分の目算の甘さを呪うしかなかった。腰に手の甲を当て、嘆息せざるを得ない。
どちらに家に居てほしいとも無いのだ。愛娘である葵は勿論、紗季だってもはや他人とは思えない。どちら共に同じ空間で同じ時間を過ごしてほしい大切な存在であり、葵の望みはどちらが、ではなくどちらとも、家に居てほしい。
しかし、ここ最近は紗季にばかり気を遣っている現状があり、それを紗季も認識しているが故の遠慮なのだろう。葵は熟考の後に否定を絞り出す。
「あの子なら大丈夫……だと思う」
「……でも、私がここに居て、若菜さんがここに居ないのは」
眉尻を下げて弱々しい表情で呟く紗季。紗季は葵の目を盗むように遺影の方を見て、明人を追い出してこの家に居るという現状に胸の痛みを知覚する。自分を優しく受け入れてくれた葵には、決して頭が上がらないほどの感謝を抱いている。彼女に甘えて、その優しさの中に生きていきたいとも思っている。しかし、その優しさを享受して幸せになる権利は未だに持ちえない。少なくとも、若菜を突き飛ばしてその座には座れまい。
葵は自分の罪を許してくれた。けれども、まだ、紗季は自分の罪全てを許せてはいない。恐る恐ると誰かの優しさに手を伸ばす今、取れる行動は身を引くことだけだ。
俯きがちに、けれども意固地な表情を見せた紗季を見て、説得は難しいと悟ったのか。
「元日は来るの?」
「母さん」
紅葉が不服そうに腰を浮かすが、葵はそれを視線で制する。
「若菜の方も気を遣ってやらないと」
そう言うと、姉を蔑ろにしたい訳ではない紅葉は心底不服そうな顔をしながらも渋々と腰を落とした。そんな彼女を尻目に、葵は紗季に向き直る。
「ありがとうね」
そう告げて、紗季の身体を抱き締めた。
料理の手伝いをしたことに対してか、若菜を気遣ったことに対してか。きっと、その両方なのだろう。紗季はこういう行動に対して誰かに礼を言われることに慣れておらず、戸惑いながらも懸命に応じようとする。
言葉も無く葵の背中に手を回して、ぎゅっと抱き返した。柔らかく温かい感触に、人の温もりを感じて――自分が一人ではないのだと再認識する。紅葉の前で気恥ずかしいという想いもあったが、それ以上に心が愛情を渇望していた。顔を真っ赤にしながらも、元日は来るのかという問いに、紗季は「元日も、来たいです」と恐る恐る本音を告げた。
葵は微かも躊躇う素振りを見せずに紗季の背中を撫で、「待ってる」と返した。
『何やってるんですか』
一通のメッセージが妹より飛んできて、「む」と若菜は立ち止まった。
年越しを迎えた都心。人通りの多い場所を当てもなく歩いていた若菜は、紅葉の苦情を確認して道の脇に退散する。喫煙者の中に紛れてスマートフォンと睨み合い、唐突なメッセージの真意を探りながら指を動かす。
何をやっているかと問われれば、瞑想と答える他にはあるまい。
紗季に対する自分のスタンスは固まった。しかし、だ。あんな離れ方をした相手にどんな顔で会えばいいのか。これから自分が何と言おうとしているのかも加味すると、決行に踏み切るのが難しかったというのが本音だ。情けなくも今まで気持ちの整理をしていた若菜は、しかし年越しにまでこの確執を引きずるつもりは無かった。
そろそろ帰宅をして紗季と膝を交えようとしていたところだ。
ちょうど、彼女も葵を手伝って年越しの準備をしていた。きっと正月も家に居るだろうという目算での放浪だったのだ。若菜はこのメッセージを契機に帰ろうとしていた。
『今から帰る! 今から年越し前までに紗季ちゃんと和解する!』
文面の後、妹や母親には気苦労を掛けただろうと、明るいスタンプメッセージを貼る。筋骨隆々な手足の生えたマグロがブレイクダンスする意味不明なイラストだったが、紅葉はそんなものを欠片も眼中に入れず、無機質な文章を叩き込んできた。
『先生は帰りました』
「嘘ぉ!?」
若菜は携帯の画面を見詰めながら声を裏返らせ、喫煙者たちのニコチンスモーク越しの視線を一斉に浴びる。彼等に奇声を詫びつつ、しかし詫びもほどほどに駅へと早足に歩き出す。電話帳から紅葉の番号を探して彼女へ呼び掛けた。
「もしもし、紅葉!? 紗季ちゃんもう帰っちゃった!?」
『帰りましたよ。三十分前に、自分が居たら姉さんが居辛いだろうって』
彼女らしい理由を聞いて若菜は鼻白み、段々と駆け足になりながら罪悪感と共に尋ねる。
「電話とかで呼び止められない!?」
『生憎と私は番号を持っていませんので。それに、流石に遅いでしょう』
冷静な指摘を受け、若菜は言葉を詰まらせる。確かに、三十分も経っていれば帰宅を済ませていてもおかしくない。そうでなくとも、引き返すのは億劫な位置だろう。返答を引き延ばした自分に責任がある。ここは、自分の方から彼女を迎えに行くのが筋だろう。
「家に居るかな」
『分かりません――私は事情を知らない体で通してるので突っ込みづらいんですよ』
「そうだった」
紗季は受験を気遣って紅葉に明人の件を話していない。しかし、聡い紅葉には全て勘付かれている。そんな状態で紅葉を頼る訳にもいかず、若菜は自力で動くべきだと考えを改める。
改札を抜けて電光掲示板を一瞥し、電車がそろそろ発車しそうなことを確認した。
「オッケー、とにかくこっちでどうにかするね。情報サンキュー、年越しには間に合わせると思うけど、紅葉は母さんと一緒に年末を満喫していておくれよ」
『そうしたいところですけど、これでも繊細な性格なので』
若菜は小さく笑い、確かになあと胸中で呟き返した。彼女の言葉が続く。
『……それと、姉さんが意外と繊細なのも知ってます』
思いがけな言葉に目を丸くして先を待つと、彼女が本意を語る。
『和解をしてほしいというのが私の望みですが、二人に自分の心を殺してほしい訳じゃありません。だからもしも、姉さんが誰かの為に和解しようとしてるなら――』
「――違うよ」
彼女の伝えたいこと、尋ねたいことを察した若菜は遮るように否定をした。
紅葉は言葉を途切って、それから、その一言に安心をしたように溜息をこぼした。
周囲は、二人を似ていない姉妹だと称する。若菜が金髪に染めたりお洒落に気を遣ったりしているということもあってか、外見を含めてそんな評価を下されている。それは間違いではないのだが、これでも、二人は二人を世界中の誰よりも理解している。
姉妹や兄弟というのは、その多くが最も近しい環境で近い距離で、近い年齢で、互いを知って育ってきた。人間性や恋愛的な魅力を最も理解し合うのが友人恋人だとすれば、心の奥底までを理解するのが母親で。
兄弟姉妹というのは、ちょっとした嘘を見抜き合える関係なのだ。
若菜の言葉が真実であると理解して、紅葉は呟いた。
『待ってます。二人を』
「うん、ありがとう」
発車のメロディが鳴り始めた電車に乗って、若菜は通話を切った。
乗客の少ないバスが埼玉県の大通りを走る。
時刻は二十時を巡った。空は既に真っ暗で、バス車内も薄暗い。
車内には紗季以外の利用者が居らず、貸し切り状態であった。
紗季は静かな車内で鞄を抱きかかえながら座席に座り、手にスマートフォンを握ったまま視線を窓の外へ彷徨わせる。温度差で曇る窓ガラスの向こう側、遠くで色とりどりに光る街灯やネオン、信号を繋ぐように視線を移ろわせていった。
ぼんやりと何かを眺め続けるも、見たものは何も頭に入ってこない。
ぐるぐると頭の中を巡るのは、筑紫家の家族のことだった。
紅葉の勉強は順調だ。この調子なら間違いなく志望校に合格して――そして、己の秘密を打ち明けることになるだろう。彼女からどんな悪感情を向けられようとも、それを受け止める覚悟は既にできていた。葵には何から何まで世話になって、頭が上がらない。紗季が独りで居ることを良しとはせず、何かと気を遣ってくれる人柄ではあったが、あの告白以降、それが顕著だ。まるで娘のように接してくれて、紗季も葵に母親の面影を重ねつつあった。
若菜は、今、どうしているのだろうか。
彼女とはあの日以降、まともに言葉を交わしていない。紗季から彼女に和解しようと歩み寄ることなど許されず、彼女が紗季に『許さない』という決断を下したのなら、それは全て受け入れなければならない。だから、紗季からできることは何も無かった。
しかし、心の奥底には隠しきれない渇望があった。
ふと、停車したバス車内で眺めていた窓越しの信号機が青く滲んだ。寒暖差に曇ったガラス越しの光が、更にじわりと滲んで広がる。その光が切り替わって、バスが発車した。紗季は目尻の熱を手の腹で拭って、手に持ったスマートフォンを見詰めた。
「若菜さん……」
マフラーの内側で、小さく声を絞り出す。
彼女に会いたかった。会って、再び言葉を交わしたかった。
彼女の傍で、彼女の声を聞いて、願わくは、また彼女と映画を観たかった。自分に隠すことさえも難しい恋愛感情を自覚しながら、紗季は鞄を強く抱き締め、彼女の温もりを求める。
ふと、スマートフォンが静かに震えた。紗季は半分閉じかけていた瞳を、開いて見る。
画面が点灯し、ロック画面にメッセージがポップアップした。
紗季は目を見開いて、呼吸を忘れた。
『今から会いたい。電話してもいいかな』
心臓が止まるような感覚の中で差出人を見ると、『若菜さん』の文字を見付けた。きゅっと、胸が締め付けられるような感覚の中で、紗季は途端に身体に熱が巡るのを自覚した。
紗季は慌ててメッセージアプリを開いて『はい』の二文字を送信する。その直後、自分がバス車内に居ることを思い出して、更に慌てながら降車ボタンを押す。乾いた音がバス車内に響いて、車掌が『次、止まります』と事務的に呟いた。
バスが止まるまでの間、紗季は何度も確かめるように彼女からの数日ぶりのメッセージを確かめる。幸運にもバス停はすぐ近くで、紗季はバスが停車したのを確認してから立ち上がると、電子マネーのカードを片手に降車口へと向かう。
その瞬間、持っていたスマートフォンが再び震えだし、『若菜さん』の文字と彼女からの着信を示すポップアップが表示された。「ひゃっ!?」と思わず高い声でスマートフォンを落としかけ、慌ててキャッチをするも、そんな紗季の奇行にミラー越しの奇異の目が突き刺さる。
紗季は恥ずかしさに顔を真っ赤に染める。
「す、すみません」
降車に手間取っては迷惑だろうと、急いで降車口にカードを通して抜け、「ありがとうございました」と礼を言いながらバスを降りた。バス停近くに歩行者が居ないことを確認した紗季は、慌てて震えるスマートフォンを操作して、彼女からの着信を受け取った。
「も、もしもし! 紗季です!」
声を上擦らせながら挨拶をすると、彼女からの返答は僅かに遅れる。
バクバクと跳ねる心臓で彼女の言葉を待っていると、帰ってきたのは吐息混じりの言葉。
『も、もしもし――紗季ちゃん? 今大丈夫?』
「だ、大丈夫ですけど……若菜さんこそ大丈夫ですか? 息が荒いですけども」
つい先刻までの確執をすっかり忘れ、紗季は若菜の呼吸が荒いことを指摘する。
数秒、彼女は深呼吸をした後に、呼吸を落ち着かせながら応じた。
『本当は、もっと早く電話しようと思ってたんだ』
その言葉に胸が温かくなるのを感じながら、紗季は白い吐息を薄暗いバス停の下でこぼす。
「はい」と呟くように伝えた相槌が、ほんの少しだけ震えていた。そんな紗季とは対照的に、若菜はあの日のことなど忘れたと言いたげな明るい声色で応じた。
『ちょうど電話しようと思った時にさ、午前中ずっと外に居たせいで、携帯の充電が切れちゃったんだよね。慌てて帰ってモバイルバッテリー挿しながら電話して、こんな時間!』
若菜は心の底からの後悔をそう言葉にして、紗季はそれでそんなに疲れているのかと納得をする。酷く緊張して慌てながら電話に出たものだが、それ以上に彼女が疲弊しているものだから、すっかり緊張も忘れてしまった。
けれども少しの沈黙がその感情を思い出させて、紗季は表情に怯えを宿す。
達人の間合いでの探り合いのような沈黙を打ち破って、若菜が口を開いた。
『ところで、今どこにいるの? 家じゃなさそうだけど、何か用事?』
「そ、そうですね。少しだけ用事があって……帰るところです」
自分の心を整理するために、筑紫家の墓を訪れたのだ。
その帰りなのだが、彼女にその旨を伝えるのは狡い気がして嫌だった。誰かによく見られたいが故の行動ではない。ただ、己の罪を洗い雪ぐためのものだから、言葉にはしなかった。けれども若菜は何かを察したように『そっか』と呟きつつ、再び沈黙が訪れた。
冬の風が紗季の髪を撫で、紗季はマフラーを少しだけ持ち上げる。
道路を行き交う車の音が電話越しの声をかき消してしまいそうで、紗季は懸命に彼女の言葉に耳を傾ける。彼女に会いたかった。会いたいし、そう言って約束を取り付けたかった。けれども自分からそれを切り出すのは駄目だろうと、自制心を働かせていた。彼女も、あんなことがあったから言い出しづらそうにしている。
しかし、彼女が会おうとしてくれていることを理解しながらも、自分は沈黙し続けるなど、そんな真似をしてもいいのか。紗季は自問をして、微かに首を振りながら胸中に自答をした。紗季の自戒を理解しているだろう若菜が口を開こうとするが、その前に紗季が告げた。
「ごめんなさい……会いたいです、若菜さん」
謝罪は、道理に背く行為へのそれだった。
何かを言おうとしていた若菜が言葉を呑んで、再び沈黙が訪れた。けれどもこの沈黙は、明文化こそできないものの、先程と明確に本質が異なる。
彼女の表情は分からないが、その呼吸から彼女の気持ちが伝わってきた。
『……少し、勇気が足りなかったんだ。だから、言い出してくれてありがとう』
ごめんなさい、という謝罪への返答があまりにも綺麗だったから、紗季は溢れ出る煩雑な言葉でそれを汚さないために口を噤んだ。呼吸が震えて、けれども寒さのせいではないそれを、紗季は濡れる瞳と共に自らの本音なのだと受け入れる。
若菜は、あの柔らかな笑みを思い出させる声色で告げた。
『私も会いたい。会って、話をしたい』
冬の寒さを忘れた紗季は、己の中に生まれた熱を抱き締めるように胸を押さえた。「はい」絞り出した声は冬の空に溶け消えていったが、彼女の耳には確かに届いた。
このまま、この温もりに身を委ねて消えてしまいたかったが、まだ終わりではない。寧ろ、これから。これからが気合の入れ時なのだ。紗季は泣きたくなる弱い心を殺すように唇を噛んで、痛みに顔を上げて、約束を取り付けることにする。
「すぐに帰りますね。若菜さんはお家にいらっしゃいますか?」
『ううん、実はもう駅の近くまで来てるんだ。だから、私の方から行くよ』
耳を澄ませば確かに、環境音が聞こえてくる。こんな寒い日に申し訳なくて、紗季は食い下がろうと口を開く。しかし、若菜の言葉が遮った。
『それに、待たせたのは私だから』
その言葉を否定したかったけど、その厚意を無下にしたくはなかった。紗季は「ありがとうございます」と、自然と湧き出てきた受容を言葉にした。
『それで、今どの辺りに居る? 最寄りの駅とか教えてくれると』
「あ、えーと」
紗季はきょろきょろと辺りを見回して、駅への案内板を目に留める。
「霞ヶ関駅が近くにあります」
『おっけー、霞ヶ関ね。すぐに向かうから温かい場所で待ってて。風邪をひかないようにね』
「はい、お待ちしてます。ずっと……待ってるので、安全第一で」
もしもここに来る途中に事故にでも遭おうものなら、紗季はきっと、一生自分を憎むだろう。自然と浮かんだ笑みと出てきた言葉はまるで先日までの彼女との関係を思い出させて、彼女も同じことを思ったのか、少しだけ嬉しそうな吐息が聞こえた。
電話越しに喧騒や駅アナウンスの声が聞こえてきて、彼女が駅に入ったことを悟る。これ以上の通話は迷惑だろうと、紗季は通話を切り上げようとする。
そんな時、喧騒に紛れる独白めいた呟きが紗季の耳に届く。
『このままずっと、話していたい』
遠くにアナウンスが響いた。語り掛けるようなものではなく、まるで心に浮かんだ本音をそのまま言葉にしたような。そんな一言を独白で終わらせたくなくて、忘却の彼方から引き上げるように、紗季は想いと言葉を繋いで紡いだ。
「……私もです」
言葉の奥、心の底で彼女と繋がっているような気がして、この感覚を一生抱き締めていたかった。けれども、そんな訳にいかないということ、この二人が誰よりも理解をしている。若菜は小さく息を吸うと、笑いを交えた声で締める。
『そんな訳にはいかないね、電車に乗るし』
「ですね」
そんな言葉の往復をして、ほんの少しだけ沈黙をする。
それから、約束を交わす。
『それじゃ、待っててね』
「はい、お待ちしてます」
真っ暗な埼玉県の霞ヶ関駅前、ロータリー傍の街灯下。
紗季は冷気を堪えながら彼女を待つ。充電残量の減ってきたスマートフォンで時刻を確認すると、時刻は二十二時を過ぎていた。どこで待つというメッセージと了解の返答を交わして以降、彼女からの連絡は無い。彼女からは温かい場所で待つようにと促されたが、そんな気分にはなれずにずっと外で待っていた紗季は、酷く冷えた指先を冷たい吐息で温める。
随分と夜も更けてきた。十一時を巡れば補導もされかねないが、待つと言った以上はそれを撤回したくなかった。だから紗季は何があっても彼女を待つつもりでいた。
しかし――それにしても遅くて、紗季の中には僅かな不安が芽生える。
それは彼女に見限られたかもしれない、などというものではなく、彼女が何かしらの事件に巻き込まれたかもしれないというもの。一度考え始めると、その嫌な予感は際限なく紗季の中で膨らみ続ける。無事だろうか、急かすのは良くないだろうと思っていたが、そろそろ彼女の所在を確かめるべきだろうか。
そう思いながらスマートフォンを見詰めた紗季。その瞬間、スマートフォンが震えだす。画面が夜の闇を照らすように点灯して、そこに『若菜さん』の文字が浮かび上がってきて、紗季は危うく落としそうになりながら慌てて電話に出た。
「も、もしもし、紗季です」
紗季は胸中に不安を募らせながら電話に応じた。
まさか事故に遭ったという連絡ではないだろうか。嫌な跳ね方をする心臓を押さえながら尋ねる紗季だったが、対する若菜は酷く疲弊した様子だった。
『霞ヶ関に着いたんだけどね』
そう言う若菜に、事故に遭ったわけではなさそうだと安堵しながら、紗季は急いで周囲を見回す。しかし、大晦日で全く人気もない駅周辺、見逃すはずもない彼女の姿は見当たらない。どこだろうかと尋ねようとする紗季だったが、彼女の言葉は続く。
『実は凄いことに気付いちゃったんだ』
「凄いこと、ですか?」
『紗季ちゃん、今どこにいる? 都道府県で教えてほしい』
そう言われ、紗季は何か問題でも起きたのだろうか、と質問の意図が読めないながらも、彼女の質問に答える。確かめるまでもなく、墓参りの帰りに埼玉県川越市の霞ヶ関に居るのだ。
「埼玉県です」
『だよね。実はさ、東京にも霞ヶ関っていう駅があるんだ』
一瞬、彼女の言っている言葉の意味が理解できずに、紗季は表情を硬直させる。
しかし、どれだけ現実から目を背けようとしても自分の情報伝達や地理の疎さに問題があったことは誤魔化せることではなく、紗季は不甲斐なさに泣きたくなった。
『――東京の霞ヶ関に来ちゃった』
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